およそ人間というものを観察していると、たった一つの法則が見つかる。他人にかけている言葉は、ふだんから自分にかけている言葉であり、その例外は無い。人は自分が自分にかけている言葉しか他人にもかけることはない。
では、自分が自分に対してかける言葉とは、いったいどんなものかというと、これも観察してみると、たった一つの例外もなく、自分を守るために使っているということがわかる。
自分が自分自身に声をかける時というのは消極的なところからきており、自分に声をかけない時は積極的なところからきている。何かしら不安があったり、迷いがあったりすると、防空壕に隠れ込むようにして、自分自身で言葉のベールを作り上げる。このようにして、言葉は意思伝達のために使われているというよりも、自分自身を守るために使われていることが多い。今では、この世の誰一人として、自分自身に声かけをせずに生きていくことができなくなってしまったが、それはその人が言葉でできているからである。定期的に言葉の水やりをやって、調整を余儀なくされるからである。しかし、私たちの正体は言葉ではない。
無為に生きるならば、人間は言葉を用いない。自分自身に対して声かけなども行う必要もない。しかし現代社会では、絶えずその人を何者かに変えようとしてくるので、その声に抗ったり、負けないようにして、自分を顧みる必要が出てくる。その時に人は言葉を用い、言葉で自分自身を再誕生させる。ひっきょう、他人と比べるところから、この声かけが起きていることがわかる。それゆえ、自分が自分の声かけで作られているという言葉の通り、作り物だということがここからわかってくる。ふだん一生懸命に花に水やりをするように声をかけ続けてきて、それによって作られたものがいわゆる自分なのである。しかし作り物はしょせん作り物、この声かけがまったくなくとも勝手に動いているものがある。それが本来の自分であり、 観照者としての本来の自分が、目の前でたたずんでいるかわいそうな物体に声をかけているうちに、その人と同化してしまったのである。
自分が自分に騙されてしまう。言葉の水やりによって、ふだんから自分を騙し続けているといえる。例えば文章を書くときでも、絵を描くときでもいい。何か一つ線を書くと、頭の中にあった線よりも、紙の上に書いた線の方が存在を主張し、そちらの線に引っ張られてしまい、本来書こうとしていたものとはぜんぜん別なものができあがることがある。これを線に騙されるという。これと同じ轍を踏むように、自分が吐く言葉によって自分が騙されていってしまう。我々はものを考えるときに言葉を用いるが、そのために自分が自分に騙されるのである。そしてその時に使われる言葉は、常に目の前のかわいそうな自分らしき物体を庇護する目的で使われる。そうしないとその物体は生きながらえることができないからである。
カエサルが、「人間は自分が信じたいものしか信じようとしない」と言っていた通り、いくら声かけをしても、いろんな声かけをしようとしても、また一つ無為から離れ、また一つの自分の信じている方向を作り上げてしまうだけである。そして最後は、その声が正しいかどうか確かめるために、もはや自分の声すら信じることができず、これなら自分を守ってくれるに違いないという完全な安心感を求めるために、書物や、偉人、他人の言葉の中に、自分が自分を守るために生み出した言葉と同じ言葉を見つけ出そうとするのである。この暴風雨のような社会に晒されている裸の心がぴったり合うサイズの服を求めるように。よって、自分自身に対するどんな声かけも間違っている。