美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。』(日本文化私観) 坂口安吾
最近は、ただ必要だと思うことを書いている。しまるちんこのくせに最近やたらとよく更新するじゃねえかと思う読者もいるかもしれないけど、それにはこういった理由がある。今までは、なにか変わったことを、人とは違ったことを書いてやろうと思って頭を働かせていたけれども、最近は必要だと思うことしか書いていない。
生命の中心に触れない思想、感情、哲学、神学が、宗教上、無意義無価値のものであるように、中心を基礎としない肉体の鍛練もまた、労多くして効果極めて薄弱である。肥田春充
肥田先生もこう言っているが、これだけ情報が飽和している中、もはや人は情報に触れるのも見るのも飽き飽きしており、ブログやXを見るのだって、見たくもないのに見ているのであって、脳の中のウジ虫が叫び声を上げるように、彼らではなく彼らの中のウジ虫がモサモサと大量稼働し、よくわからずにXを見ているのである。
必要があれば語り、必要がなければ黙っていればいい、それだけの話だったか。
しかし、私にとって必要というと、たいていは、過去の偉人たちがすでに話したことと被る。ショーペンハウエルや、エピクロスや、マルクス・アウレリウス・アントニヌスらが話していることと被ってしまうのである。それをオリジナリティがないとして、もう散々言い尽くされているから、あえて私が言う必要がないと思って、沈黙を守ってきたが、もはやそんなことは言っていられなくなった。坂口安吾の必要性の文章を読んでからだ。そして案外こちらの方が読まれるものである。我々は中心を共有し、中心について考えなければならないからだろう。また、普段から考えていることをそのまま話すだけだから、書き手にとっても楽である、で、更新が続いたわけだ。
枝葉末節に思いを向けようとすると、おそろしい結果が待っている。なぜなら現代社会は、部分が中心になってしまっているからだ。
中心は勉学で得られるものではない。むしろ勉学を捨てることによってしか学べないのである。
哲学は踏み出す一歩一歩ごとに皮を一枚ずつ脱ぎ捨てるのだが、愚かな弟子どもは、その皮の中へもぐり込んでゆく。キルケゴール
「今日の科学者は明瞭に考える代わりに深く考える。人は明瞭に考えるために正気でいなければならない。しかし、深く考えて完全に正気を失うこともある。」ニコラテスラ
心が止むところに神は現れる。ヨガナンダ
一切の思考は、思考そのもののためには何の役にも立たないのだよ。人は、生まれつき正しくなければならない。そうであれば、よい着想が、いつも神の自由な子のように、われわれの前へ立ちあらわれて、呼びかけるだろう、ここにいますよ!とね ゲーテ
明瞭に考えるとは、つまり、考えないということだ。
正気でいるということは、考えないということだ。
生まれつき正しくなければならないということは、考えないということだ。
心が止むところというのは、考えないということだ。
中心はいつも中心だ。何も深く思い悩むものではない、いつも明快に朗らかにしており、太陽のように堂々と屹立し輝いている。過もなければ不足もない、あえてそこにわけはいっていく必要もなければ、ただそこにあるだけなのである。言ってしまえば、存在だ。知識とは存在だ。
そんなふうに、この犬は言っているように思わないだろうか?
むかし、「道」を体得した為政者は、国民を知識から遠ざけ、愚昧のままに放置した。
政治が混乱するのは、国民がなまじっかな知識にふりまわされるからである。したがって、知識に頼って政治をとれば国は混乱し、知識を捨てて無為の政治を行なえば国は栄える。これは政治の法則と言ってよい。
この法則をわきまえれば、「大いなる徳」を身につけることができる。この徳は深く、そして広く、世俗の価値観とは相反しているように見える。だが、これにもとづけば「道」と一体化することができる。
●この章は、昔から、愚民政治を主張したものとして物議をかもしてきた。無知無欲をよしとする『老子』の認識には、たしかに愚民政治につながる一面のあることは、否定できない。だが、『老子』をよく読めば、かれの主張する愚とはほんものの賢、無知とはほんものの知の逆説的表現であることに気づく。
老子は若い孔子に会ったとき、「君子ハ盛徳アリテ容貌愚ナルガ若シ」といましめている。かれの言う愚とは、賢や知を内に包みこんだ、そういう愚だと言ってよいかもしれない。
守屋 洋. 新釈 老子 (PHP文庫) . 株式会社PHP研究所. Kindle 版.
私たちが「知る」ということはありえない。よく考えてみよう、私たちは、いったい何を知っているだろうか? 天はすべてを知っていて、私たちが死ぬ時も、生きる時も、これから起こることも、過去生のこともすべて知っている。それに比べて、私たちが知っていることは何がある? せいぜい、1+1が2だとか、自動車がタイヤを使って走っている、タイヤはゴムでできている、ゴムは何々から作られており、それを専門学校で習って、ふーむ、勉強になりますた、と言っている。これはすべて何を意味しているかというと、現れを追っているだけだ。現れに対する解釈を知っているだけだ。知るということは、現れそのものになること。現れそのものになることでしか知りえない。あえていうなら、神と同じ知識を持つこと、すなわち神になることを指す。それゆえ、学問をしなかった農夫や、赤子、猫の方が、はるかに知っていたのである。我々は皆賢くなったつもりでいるが、勉強することでバカになっていたのである。「知らない学」という学問を、新しく作りたいくらいだ。
しかし案ずるなかれ、太陽のもとですべてが明らかなように、分別も解釈も用いなければ、すべてはいつも明らかなのだ。それが知るということである。私たちの方でいつもひとりでに明後日の方向に迷い込んでしまっているだけなのである。