今、流通しているほとんどの作品は、不安から生まれている。なんとかこれで身を立てていきたいと、生存競争に追われ、切羽詰まって、苦肉の策から生まれたものたちである。我が身可愛さからきており、人の目を気にして、ただ動線をたどっているような、ある程度にエンタメの法則があって、丁寧にそれをなぞっているだけだ。
彼らがやっているのは、芸術でもなければエンターテインメイントでもなければ売春行為と変わらない。私たちはそれがお金になる、ならないの意識に迫られ、ただ子供のように無邪気に絵を描くことを忘れてしまった。芸術もまたジャンクフードが大量生産されるように、単に口当たりのいいものが大量消費されるようになってしまった。今や、古の賢人たちが後世のために残してくれた偉大な書物も、その上をホコリが被るようにして、彼らの卑しい欲求が堆く積まれている。読み手は、ただ新刊という理由でそれを追いかける。
人々が読める限界量などとっくに越えてしまったが、さらに、あふれて、あふれて、飽和しきった先に、何があるだろうか? さらに今では、AIというロボットまで作品を産む始末であり、これでは私たちの日常のおしゃべりが空気中にとめどなくあふれていくのと同じ生産量と言っていいくらいで、もはや誰も選定さえしなくなるだろう。本当に価値あるものが輝く時代は終わり、どれが良い悪いという概念さえなくなってきつつある。
優れた人間は必ず平凡な人間の群れから抜きん出ます。つまり彼の成功は作品が評価されるのに必要な時間に直接比例しているのです。どんな書店主であろうと待つことを嫌います。今日の本は明日売らなくてはいけないのです。このやり方だと書店主たちは高尚で時間のかかる承認を必要とする中身のある本を出版することを拒否するのですよ。
オノレ・ド・バルザック
とバルザックは言っていたけど、僕の見立てでは、もうこの時代すら終わったように見える。
本当に価値ある文章なり作品を書いている連中が、それに見合った評価を受けている、なんてことがあるだろうか? 今でもとても素晴らしい創作をする人々はいるが、彼は認められないが、今後ますます認められなくなっていくだろう。烏合の衆の群れどもが、彼のような素晴らしい才能の上に、お金欲しさ、自己顕示欲によって、フンを積んでいくので、どうにも手に取ってもらえなくなる。およそ、もう自分の楽しみのためにしか、こういった活動も継続できないようになってきた。それゆえ、真の天才の創作物は、ごく限られた身内の魂を啓発するにとどまるだろう。しかし、案ずるなかれ。もともとそういうものなのだ。
これは諦観から言っているのではない。むしろ喜ばしいことだと私は思う。元の状態に戻るだけだからだ。元の状態というのは、古の地面や洞窟に絵を描いていた、かの時代だ。あの頃、人々は何を考えて創作していただろうか? 彼らにとって創作とは生きることと同じだった。そこに名利もなく、技芸もなく、ただ子供が落書きをするように、芸術と生活が一体となっていた。
芸術において、ごく限られた才知ある者がやるものだという認識があるようだが、かの時代、そんな考えがなかったように、これから人々は自由に創作するようになっていくだろう。というよりならなければならない。比較、競争、他人の目、自分の目から解き放たれ、自由に絵筆を取るようになっていかなければならない。ラスコーの洞窟の壁画を見てみよう。今、あれほど素晴らしい作品を見ることがあるだろうか? まぁ、トンネルの中に、ヤンキーが相合傘だったりSEXだったり、脳の中のウジをそのまま描き刻んだものがあるが、程度が違うだけで、やっていることは同じである。
下手人はいないのですよ。(中略)全土に素地ができているから始まったことなのです。(中略)歴史の行きづまりというものが、どうしてもいちど火を噴いて、社会の容をあらためなければ、にっちもさっちも動きがとれない、そして次の新しい世代も迎えることができない、いわば国の進歩に伴う苦悶が何よりな因かと思われまする。
吉川英治『私本太平記』より
これからは、文章を書いたり絵を描いたりすることは、カラオケに行って歌うようなものに変わっていくだろう。趣味以上の何ものでもない。私たちの日常のおしゃべりそのものだ。もともとここに名利を求めることがおかしかったのだ。ただそれが修正されただけだ。それが本来のあり方なのである。プロもなければアマもない、芸術もなければエンタメもない、天才もなければ凡人もない、太古の時代のように、裸で駆けて、自由に空に向かって絵模様を描くようになるだろう。