今日もタリーズにて、OLにしろ、若いお嬢さん方にしろ、花を愛でるために誂えられたと思われるそのご機嫌うるわしゅう手でもって、ドイツ語だとか複式簿記だとか、何やら奇怪なものを開いて、励んでいる。
職業選択の自由が開かれて騒がしいこの頃、その恩恵に預かれている人がどれだけいるだろうか? 種を蒔き、鍬を持ち、土に打ちつけては、それでよかったものを、今では、ペンだとかパソコンだとか、変なものを持たされている彼女たちの姿ときたら、猿がコンピュータを触っているようである。
皆さんは、この世界を歩く上で、「何にもとらわれていない」という人に出会ったことがあるだろうか? 誰であろうと、誰かと話すとき、かならず人は、今その人の中にある信念めいたものを口に出さずにいられないものである。口で言わずとも、身体全体がそれを物語るものである。
無為に立ち、打てばその分だけ響いてくる鐘のように、過不足なく、融通無碍、“本来の人”に出会ったことがあるだろうか?
知識にとらわれなければ悩みも生じない。知識を獲得することによって悩みの種を増やしているのである。絶えず移り変わりゆくものに対して、これと一体化する以外に勉強というものはないはずである。この目の前に横たわる、幽玄微妙な、神韻縹渺たる、曖昧模糊とした、広大となって存在している、形容しがたいこの何かに身を任せてしまうほかに、勉強などないはずである。条件付けのない意識が幸福と静けさをもたらすのだ。
能力がある、と思われている能力は、実は大したことはない。大したことはないどころか、わき道に過ぎず、真理に対して弊害になる。岡本太郎やピカソも、センスがある人間がいちばんタチが悪いと言っている。才知なんてものがあり、それをひけらかそうとするから、こういったわき道の存在を許してしまうのである。
才智をひけらかさなければ、人民の生活は安定する。
仁義をふりまわさなければ、人民は道徳意識をとりもどす。
利益の追求に走らなければ、盗みをはたらく者がいなくなる。
しかし、これではまだ言いつくせない。治世の根本は、人民を本性にめざめさせることだ。すなわち、無心、無欲の状態にみちびくこと、これである。
知識にとらわれなければ、悩みも生じない。守屋 洋. 新釈 老子 (PHP文庫) . 株式会社PHP研究所. Kindle 版.
学問を修める者は日ごとに知識をふやしていくが、「道」を修める者は日ごとに減らしていく。減らしに減らしていったその果てに、無為の境地に到達する。そこまで到達すれば、どんなことでもできないことはない。
天下を取ろうとするなら、無為に徹しなければならない。へたに作為を弄すれば、天下は取れない。
守屋 洋. 新釈 老子 (PHP文庫) . 株式会社PHP研究所. Kindle 版.
残念ながら、我々は、この老子のいう「へたな作為」というものをやらされている。
私たちが勉強をしているのは、国が乱れているためである。指導者がわき道を歩いているためである。
世界はすべて物真似で動いている。大衆はいつも真似をしているだけである。彼らがゼルダをやるのもスプラトゥーンをやるのも自身の欲望からきているのではない。他人の真似をしているだけである。したがって、みんながそこから離れ、誰も話題にしなくなると、パッタリやめてしまう。
これが勉学にも言える。偉い人たちが勉強をしているから勉強しているのであって、偉い人が勉強をやめれば、大衆も勉強をやめる。
この、能力至上主義にあっては、上のものが能力を高いものを登用するから、下のものたちはその目に叶おうとして勉学に励む。が、じつのところ、能力の差異なんてものはどこにもない。ただ我々があると思っているだけだ。自然が差異をもたないように、あらゆるものに境界線はなく、すべてはグレーであり、分別や判断が下されるために、本質が見えなくなっているだけだ。
じっさい、学問をしない人間の洞察は鋭い。
私が、デイサービスに勤めていた頃、とある介護士の女性の言った私への評価が忘れられない。「なんだか、しまるこ君は、ちょっと人と違う気がする。うーん、ちょっとなんだけどね。なんだろう? すごく変わってるってわけじゃないんだけど、ちょっとだけ変わってる感じがする。ちょっとだけなんだけどね」
人間通から言わせると、この評価は正しい。天才というのは、風変わりな印象を残すものだけれども、ちょっと変な感じがするといった評価が正しいものなのだ。あんまりすごく変な感じがする人間は、天才ではないのである。
半可通の人に言わせると、「天才とは長い髪を垂らし、奇妙な食べ物を食べ、独身で、冗談好きな、人のモノ笑いのタネにされる人」を言うらしい。だが本当のところは「常識では考えられないような知識の源泉と自由に交信を交わし、思考を強化する秘訣を発見した人」だ。
『思考は現実化する』ナポレオン・ヒル
天才が天才に対して下す評価には見劣りするが、彼らの根源からくるものさしは、学問をやる人間が持たないものである。なぜなら天才というものは、天道といわれる、本来だれもがその胸にもっている道を真っ直ぐに歩いている人に過ぎないのであって、だれの心にもこの真っ直ぐの道があり、彼らの方がそこからちょっとだけ外れてしまうために、天才人を見て、ちょっと違う、と思うだけだからである。
その点、学問をやる人間は、本から得た印象が邪魔をして、自分の目で、目の前の人間を正しく評価できず、天才を見ても、ちょっと変だなと思う新鮮で伸びやかな感性を失ってしまっている。わき道にどっぷり浸かってしまった弊害である。
私は本心を話す人が好きなのです。
私は人間嫌いだという印象を与えるかもしれません。人づきあいの悪い人間だと思われているかもしれません。でも、それはまったく違います。私は農夫や子供たちとすぐ仲よくなれるのです。船乗りたちも大好きで、港の酒場で彼らと痛飲します。画家や建築家と談笑したり、彼らの仕事場を見るのも大好きです。こういった人々は、屈託がなく本心を話し、自分の仕事を人生としているから、私は大好きなのです。一方、飾りや嘘や駆け引きばかりの上品な社交場には顔を絶対に出しません。むしろ、一人で本を読んだり、ビリヤードをするほうを私は好むのです。
ヘッセ書簡1903より
ヘッセが、こう言うのも無理はない。
昔から、天才と凡人は紙一重とよくいうだろう。しかし、秀才との差は甚だ大きい。秀才は、わき道にそれたものを良しとして我が意を得たりと進むばかりに、世界に混乱をきたすこともある。
今、人々が勉強をするのは、Googleのせいだと言っておこう。現代の世界の覇者Googleが、コンピュータやAIの力をつかって世界を蹂躙しているから、大衆は、ああなるのが理想だと思ってしまっているのである。Googleにいたっては、世界警察のような顔までし始め、言論封殺というお呼びでない出過ぎた行為までしでかし、人類の情操教育の面まで幅を利かせている始末だ。そんなGoogleを、世界中の企業は追いかけ、日本も追いかけ、日本の若造たちも血眼になって追いかけている。それゆえ、もともと知識人階級でない人間も、この競争に巻き込まれている。
このために、私たちは今、わき道を一生懸命になって勉強しているのだ。