皆さんは、まだ、あまり信じられないかもしれませんが、これからは精神の時代に移っていきます。
精神の時代というものはどんなものかというと、神を求める時代、ということです。
物質にも満足して、時間にもゆとりができて、ここで私たちの中に疑問符が浮かんできます。で、これからどうするんだっけ?
ここで、私たちは、“我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか”ということを、考えなければならなくなってきます。
なぜなら、それが私たちに与えられた真のテーマであり、何を考えて何を実行しようとも、最終的にここに帰ってきて、立ちあうことになるからです。自分がわからなければ、欲しているものもわかりません。どうすれば幸せになれるかもわかりません。
人は幸せなんて求めるべきじゃないという、幸せ反対論者もいますが、そういう人たちですら、幸せを求めて生きています。今こそ、幸せとは何かということに真正面から考えなければならなくなったのです。
昔からいかなる時代においても、この問題に取り組んだ時代を越えた夢想者がいました。
古代ギリシャの賢人セネカや、エピクロスです。
エピクロスなどは、その禁欲派という字面のイメージから、ストイックで修行僧みたいな忌避したくなるイメージを抱かせますが、じっさいのところは快楽派といった方が正しいくらいです(最も、“禁欲派”というのは、後から生まれてきた人たちが勝手に名付けたものだと思われますが)
奢侈なご馳走や、贅沢を繰り返すことが快楽ではなく、神人冥合によって、神の美酒を味わおうとする、当時から人間の正体が霊であることを見抜いていて、決して肉やワインで満足できるものではないと考えた知者がいたわけですね。魂に喜びをもたすためにはどうすればいいのか、と考え抜いた結果なのです。
セネカもまたこの考えをもっていました。セネカの「人生の短さについて」は、古典新訳文庫の群でも頭ひとつ抜けて人気の高い作品ですが、これは今私たちの目前に迫っている問題について、その答えが記されているからだと思われます。これは本というより手紙ですが、セネカが散々にわたって友人や弟子に、今携わっている仕事を辞めて、間暇の道に入れと諭すといった内容です。
間暇、つまり、隠遁生活ですね。私たちでいうセミリタイアみたいなものです。では、間暇の道に入るとして、その間暇の中で何をしろと言っているのかというと、学問をしろというのです。ここでいう学問とは、私たちが学校で履修している学問とはまったく違います。セネカがいう学問とは、神の道を指します。
当時から、本当の知恵ある者たちは、もうおよそ30歳も過ぎると、世間から隠遁して、間暇の中に過ごしました。セネカ、エピクロス、ソクラテス、孔子、ヨガナンダ、スリ・ユクテスワ、肥田春充、ショーペンハウアー、キルケゴール、モンテーニュ、洋の東西を問わず、時代をこえる第一級の思想家、哲学者、聖者は、ほぼ必ずと言っていいほど、ひとり思索の中に過ごします。
全てを手に入れたように見える、アレクサンドロス大王やナポレオンですら、人生において幸福だと思えた瞬間は一秒たりともなかったと回顧しています。それに対して、政治や権力に一切介さず、幸福そのものに直接アクセスしてこの神秘を紐解いた一級の思想家たちは、神を見出した後にその至福の中にとどまり続けました。先に人生の目的を果たしてしまったということですね。
隠遁生活は、何も才能ある人たちの特権ではなく、単に先見の明があって、先駆けをする度胸の良さがあったからに過ぎません。セネカやエピクロスの、今とは比較にならないほど質素だと思われている時代でさえ、食べる者だってろくに満足にあるのか疑わしい時代でさえ、欲望を目の敵として修行に取り組んでいたことには驚嘆を禁じ得ません。当時の贅沢など鼻で笑ってしまうくらいのものに過ぎないというのに。
間暇。それは人々が愛してやまないものですが、はたして無用の長物になる恐れもあります。私の身近な友人たちを観察していても、どうやら2年が限界のようです。2年も経つと彼らは再びカゴの中へ戻っていこうとします。というのも、どうやら人間というものは、生来が真面目にできており、食って、寝て、遊んで、動画を見て、といった、そんな自堕落な生活に2年も耐えられるほど頑丈にはできていないということです。私も神を見出すという目標がなかったら、2年以上現在の生活は続けられなかったと思います。
変化する時代
しかし、そうはいっても、この社会は、だんだんと働く時間が少なくなってきている傾向が見られています。以前と比べて、残業時間も減ってきました。Amazonの倉庫番などは、一分でも勤務時間が超過するとペナルティがあるようです。出前館などをやっていても、稼働時間が多いと、変な音が鳴って、阻止してこようとします。
企業を始めとした外側はそんなふうにして働きかけますが、内側はどうでしょうか? 我々の内心でも、もはや働いて、死ぬ物狂いで働いて、物質的に満足できる生活を送ろう!と、汗水流して頭にタオル巻いてヒィヒィ言いながら働く人も、そんなにはいないでしょう。
少し前の時代において、私たち親世代というものは、必死に働きました。物質を手にすれば手にするほど豊かになれるのだと信じていました。そうやって日本は経済大国に上り詰めました。しかし、それが幸せになれる道ではないと悟った現代の若者たちは、やれミニマリズムとか、月8万円生活とか、プライム会員だからアニメ見放題だとか、お金なしでも幸せに生きていける方法を模索しています。今は、タンスだとか、家とか、車などを持つことさえ、負債になることもだんだんとわかってきました。
ならば、情報ならと、Kindle本のような電子書籍なら場所もとらないし、たくさん積めば積むほど、頭も良くなるし、豊かになると、意識が高い人々は、知恵を身につけるのがいちばんの財産になると思い、そこに執心しますが、情報をどれだけ吸収しても、吸収しても、豊かになっていかない、ということも、だんだんわかってきています。
物質もだめ、情報もだめ、となると、人々は、精神に意識を向けなければならなくなります。
※
人はこれから精神の時代に突入していきます。今はカリユガ期であり、あらゆる時代でもっとも暗黒の時代とされ、ワンピースでいう最悪の世代なのです。
しかし、どんな生き物がそうであるように、時代もいったん沈むところまで沈みきったら、今度は浮かび上がっていく他ありません。戦うことも、働くことも、遊ぶことも、飽きて、他に何もすることがなくなったら、やっと神を見出そうとするようになります。そのために、2000年以上の年月が必要だったのです。
さて、この、精神の時代になると、どんなことが起こるでしょうか。
おそらくは、この、セネカやエピクロスがやっていた、『働かない村』というものが各地で起こってくるようになります。彼らの詳しい一日の内訳はわかりませんが、セネカやエピクロスをはじめとする、代表者がいて、その周りに弟子や弟子たちの家族がいて、生きていくのに必要な畑仕事などをこなし、質素なものを食べて、先ほど話した“学問”に専心していたと思われます。なぜ彼らが群れて行動していたかというと、一人の霊的指導者がいなければ、霊性の道を歩けなかったというところが大きいでしょう。
何ごとでも 偉人の行った行為を
一般の人々は まねるものだ
指導的立場の者が模範を示せば
全世界の人々はそれに つき従う
『バガヴァッド・ギーター 第3章23節』
人々はいつでも偉人の真似をするものです。
大衆は自分の頭で考えるということができません。今、彼らの思考は、借り物が使われています。ホリエモンやひろゆきや気の利いたことを言うインフルエンサーの思考をなぞっているだけです。しかしそういったインフルエンサーらが宗教生活に入ると、大衆もこぞって真似をするようになってしまうのです。
「お前は、どうして団体的な仕事をきらうのだね?」
先生のこの質問に、私は図星をさされて一瞬面くらった。事実、私はそのころ、団体や組織などというものは蜂の巣のようにうるさいものだとしか考えていなかったからである。
「先生、団体の運営なんてめんどうな思いをするだけで割りに合いません。先に立つ者は、何かすればしたで、また、しなければしないで、文句を付けられるだけですから」
「お前は、神の甘露を独占していたいのかね?」
先生は、きびしいまなざしを私に向けて反問された。
「もし、寛大な心をもった大師たちが、進んでその知識を分け与えてくれなかったら、お前にしても、だれにしても、ヨガによる神との交わりを実現することはできなかっただろう」
先生はさらに言われた。
「神を蜂蜜とすれば、それを分かち合うための団体は巣箱のようなものだ。どちらも必要なものだ。もちろん、中身がなければ、箱だけつくっても意味がないが、お前はもう十分な霊的甘露をたくわえている。そろそろ巣箱の建設に取りかかるべきだとは思わないかね?」
先生の助言は深く私を動かした。
『そうだ、わたしは今まで先生のもとで学んできた人間解放の真理を、できるだけ多くの人々に分かち与えなければならない!』私はそのとき、口には出さなかったが、胸中には鉄のような決意が盛り上がった。『神よ!』私は祈った『私の信仰の聖所を、たえずあなたの愛の光で満たしてください。そして私に、あまねく人々の心に宿るあなたの愛を目覚めさせてください!』
『とあるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ
ヨガナンダ先生の学校のような、およそ一人のグルを中心とした、インドに見られるようなアシュラムや学校のようなものが、日本中のあちこちで点在するようになってきます。
私は以前から、青少年に正しい人間教育を施してみたいという理想をいだいていた。今、目の前の、知育と体育のみを目標とする世間一般の教育が、いかに干からびた結果しかもたらさないかということを、私はこれまで身にしみて体験してきた。人間が幸福になるために欠くことのできない道徳的および霊的訓練が、近ごろの正規の教育課程からは全く除外されている。私は少年たちに、もっと人間としての完全な徳性を植え付けるような学校を設立しようと決心した。そして、その第一歩として、ベンガルの片田舎ディヒカで、七人の子供たちの教育に着手したのである。私はこの学校を、ランチと名付けた。そこで私は、中学校と高等学校の教課を編成した。それは、農業、工業、商業、および一般教養の課目を含むものであった。また、いにしえの聖賢たちの教育法にならって、授業はほとんど戸外で行なうことにした。
『とあるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ
人は目的を持たずに生きていけるほど強くはないので、“霊性の顕現”をテーマにして、一人の霊的指導者“グル”を取り巻くようにして、集団生活を始めるようになります。
そんなの信じられっこないと、皆さんは思いになるかもしれませんが、一昔前に、ちょんまげをしたり、刀を腰に差したり、お犬様〜といって犬に向かって土下座したり、マンモスに槍を投げたり、肉を食ったり食わなかったり、戦争をしたり、たまごっちに夢中になったり、マスクをしたりしなかったり、たった少し前の私たちの行動さえ、鼻で笑ってしまう有様ではありませんか。
中には、人のこういった性質は生まれもったもので、人生は流転するものであり、我々の歩みは永遠に終わらないと考える人もいます。確かに、人は進化と向上のためにしか生きられません。戦争や震災によって瓦礫の山になった家やビル群を見て気落ちしますが、いつまでもうなだれていられないのが人間です。私たちの集中力というものは筆舌し難いものがあります。ついこないだまで田畑しかなった場所は、コンクリートに瞬く間にかわり、その上を自動車が走っています。この力が神を見出すために使われたらどうでしょう? 私たちの研究心、前進力、今、インターネットでさまざまな情報を探っては知識をかき集めているその力が、霊性に向けられたらどうでしょうか?
中には達成する人も出てくるでしょう。これからあちこちに目覚めし者が現れてくると、アンマも予見しております。彼が望むと望まないとあれ、人々は彼に集まってくるようになります。それはすべてのグルの顕現を示すように、“生じる”のです。一昔前、クリシュナムルティ、ラマナ・マハルシ、パパジ、ヨガナンダ、アンマ、サイババ、ほとんどインドに生まれていますが、それはインドが、国全体が霊性の顕現を目的としているからです。もし日本でも同じ意識を持てばそれは可能ということを意味しています。
日本の古民家、廃墟、村奥にある使われなくなった学校、空き地、山などの資源も有効に活用されるようになってくるでしょう。現在のように、人工的なコンクリートマンションの中で孤独死を怯えて待つかのように、姥捨山に放り込まれるように老人ホームに入れられ、およそ人間という知的生命体の最期として疑問符を投げかけられるような、この閉鎖的空気の中でついに緊張ははち切れて、人々は思いを同じくするものたちが集まって、暮らすようになるでしょう。
先走り汁のような連中は現在にもいて、彼らは、山を購入してそこに丸太小屋などを作ってはしゃいでいますが、彼らを見ていると、どこか寂しそうで、その立派な景観を持て余して見える節があります。もう、タダでいいよと言って、自分の土地を分け与えたくなる気前の良さもうずうず顔を出しているようでもあります。
惨めな状況に置かれている人々と、あまりにも広すぎて資源を使いきれない人々との意見の一致によって、ことは進んでいくでしょう。ここに舵を切った人々は、今はYouTuberなどがたった一人で自分の棲家を整えている始末ですが、こういったものはたった一人が加わるだけで、作業効率を著しく向上させ、5、6人もいれば、数ヶ月で立派な村へと変貌します。
とかく人は自然に囲まれた場所で暮らしたいと思っています。タワマンなどといったものがありますが、じっさい、これが人々の生活を満足させるものではないことはわかってきました。タワマンで育った子供の学力は落ちると言われているし、廊下もなければ縁側もない、ただ部屋という部屋が寄せ集められたハリボテの城みたいなもので、土地の希少性から値段が高騰しているだけで、決して人間の生理的条件に見合ったものではないからです。
住まいの選択
さて第二は、住まいについてである。
われわれは、山の上や、広々とした野原などで新鮮な空気を吸ったあと、混雑した部屋の中などにはいると、不愉快な気分を感ずる。このことから、町なかや混雑した場所が、人間にとって不自然な場所であることが容易に理解できる。山の上や、野原や、庭園や、広々とした風通しのよい乾いた場所の、樹木に囲まれた新鮮な環境は、人間の住まいとして、自然の理にかなった場所である。
交友の選択
第三は、交友についてである。われわれは、自分がどういう友を好むかということについて、内心の声に耳を傾けてみると、それは、心の通い合う磁力を感じさせ、静かな落ち着きを与えてくれ、内的活力と、心の内奥の愛を呼び起こしてくれ、そして、自分の悩みを取り除いて平安を与えてくれるような相手であることがわかる。これはつまり、前に述べたように、われわれがサット(真理、救い主)の仲間と交わりアサット(反真理、悪)の仲間を避けるべきであることを示している。われわれは、真理の仲間と親しむことにより、健全な身心を保ち、快適な生活を送ることができ、寿命を伸ばすこともできるのである。これに反して、もし純粋な内心の声に耳を傾けず、自然の警告を無視して、悪の仲間と交わっていると、逆の結果となり、健康は損なわれ、寿命も縮められることになるのである。
『聖なる科学』スリ・ユクテスワ
我々が、何を食べるべきか、ということが解明されていくことによって、それと伴って、私たちは、どうやって住むかということも解明されていくことでしょう。
自然もまた、木々の密接によって苦しんでいて、人間の手によって調整されることを望んでいます。自然と人間は助け合って生きなければならないのです。
ゲームにおいても、ドンキーコングの一面は自然豊かな森のコースで、われわれの視覚を楽しませますが、だんだん、ラストダンジョンになるにつれて、変な悪の科学者を討伐すべき、ロボットの敵ばかりの近代的なダンジョンになります。これはどのゲーム、RPGにおいても見られる現象ですが、科学くさいコースばかりが続くと、苦しくなってきてしまうものです。
これは、ゲームの製作陣が作っている上で、彼らの夢想が顕現したもので、プレイヤーは、それを未来予想図の一つとして、無意気の中で彼らの要求との一致という現象が起こっていたのです。古き良き時代の中世騎士道ファンタジーに見られるような、村や井戸、村娘のエマがスープを作って持ってきてくれるような、
この、イシの村、のような
朝はみんなで井戸から汲んだ、新鮮で活きた水で顔を洗い、中には冷水浴をする者もいます。みんな、身体をよく動かすので、夜はぐっすり眠れます。彼らにあっては、”生きる”ことが仕事です。大丈夫、ちゃんと機械もありますよ。こういった山だの村だのといった生活といっても、皆さんが想像しているようなものではなく、ちゃんと電子機器が与えられ、便利な家電も使われます。インターネットももちろんできます。自然と科学が融合した理想の環境です。
そして、
資本主義が、私たちの心に比較や競争を植え付け、疲弊をもたらすということがわかってきました。
物質を分け合い、仕事はAIが台頭して、富を分け合い、
宮沢賢治の遺言は、法華経を1000部刷って知人に配布してほしいというものでした。全体の幸せがないと個人の幸せはなく、個人だけが幸せになれる道はないのです。いちばんいいのは、私たちはすべての財産を共通に投げ出し、それをみんなで共有することでしょう。誰かが富を独り占めしようという発想から、誰かにしわ寄せがいくのです。
私たちの中には、まだ、家庭というものはこうあるべきだ、という理想のスタイルが残っています。しかし今はもはや、そういった様式は、私たちの夢想だの中にしか取り残されていないのではないでしょうか? 私たちの夢想を置き去りにして、時代は先に向かっているのではないでしょうか? 結婚、家庭、それらはあまりにも強く我々にのしかかり過ぎます。我々の小さな背中では背負いきれないほどです。これを背負わずとも、男女は一体になるべきだ、と新しい時代はそういっているのではないでしょうか?
※
さて、この、イシの村みたいなところで、何をするかというと、何もしません。静かにすること、ただ座ること、何もしないことをするのです。
私たちはグルのもとで、何もせず、ただ静けさの中で座ることを学びます。
ヨガナンダ先生は、スリ・ユクテスワ師のもとでの修行時代を、こう回顧しています。
「私のスリ・ユクテスワのもとでの霊性修行は、先生はたまにバガヴァッドギーターの講釈などをされるけど、私たちのほとんどの時間は、先生のとなりにただ座っていただけでした」と言っています。私が調べたところ、真の聖者のアシュラムでは何をやっているかというと、ラマナ・マハルシも、パパジも、カリアッパ師のもとで修行した中村天風先生も、肥田先生はまぁ、中心力の運動や姿勢を交えて教えられていたけれども、基本的には、グルのもとで、グルの波動を受けながら、ただ静かにしていた、と言えそうです。
こうして、ベーシックインカムやAIや、科学技術の台頭、政治形態の変化により、憂いも不安もなくなったことで、のびのびと、静けさとともに生きることができるようになります。この忙しい時代から、“静けさ”がテーマに変わってくるでしょう。
これを考える上で、老子は、こう言っています。
八〇 鶏犬の声相聞こゆ
国は小さく、人口も少ない。かりに文明の利器に恵まれたとしても、人々は見向きもしない。それぞれに人生を楽しみ、他所へ移ろうとしない。 舟や車があっても乗ろうとはしないし、武器はあっても手にとろうとはしない。あえて読み書きを習おうともしない。それぞれの生活に満足し、それぞれに生活を楽しんでいる。 鶏や犬の声が聞こえてくるようなすぐ近くに、隣の国があっても、往来する気などさらにない。
●社会や国について『老子』の理想を述べた章である。これをしいて箇条書きにすれば、つぎのようになる。
一、小さな村落共同体
一、自給自足の経済体制
一、反文明の自然社会
一、隔絶した閉鎖社会
現実には永遠のユートピアなのかもしれないが、失われた人間性を回復するには、こういうあり方が理想なのかもしれない。 なお、晋代の詩人陶淵明は、この記述をもとにして「桃花源の記」を書き、「桃源境」に思いをはせた。
守屋 洋. 新釈 老子 (PHP文庫) . 株式会社PHP研究所. Kindle 版.
私は思うに、世界中のほとんどすべての人が、こういった生活を夢想だにしていると思います。しかし、なぜ、実行されないかというと、時代ではなく、我々が足踏みしているからです。
私はやはり、日本は、ふたたび鎖国すべきだと思います。
すべて、物事はなんでも広がりを持つと、収拾がつかなくなります。この日本をとってみても、あまりにも多種多様な広がりを許した結果の弊害ではないでしょうか? 少子化だの年金だの、規模が多過ぎてまとまりがつかなくて、フットワークが重くなり、何一つアイデアが思いついても実行に移れない。検討、検討、検討、です。
そもそも、なぜ、いまだに開国を続けているのでしょうか? 確かに我々は、黒船来航時に外国の脅威に晒され、各州の力を一結させるために、坂本龍馬らの暗躍によって開国を成し遂げましたが、もう用は済んだはずです。昔の人は、権力は散らばっていたほうがいいと思ったから、それぞれを独立させたままにしておいたのではないでしょうか? また、政治と芸術の力は同伴するものであり、ピカソも、浮世絵を見ては、開国前の方が良かったねと言っており、それを聞いた岡本太郎はさすがピカソだと舌を巻いたと言います。
食料、衣服、を輸入に頼っていることは恐ろしいことで、今のうちに自分の足で立って生きるようにしないと、恐ろしい事態が待ち受けています。
だいたい、元はといえば、国民たちが愛国心をなくし、国と民が一つにならなくなったのは、開国してからじゃありませんか。国と民は、再び一つにならなければなりません。が、しかし、いまや大きくなりすぎた日本は、誰も選挙にも行かないし、何もせず、勝手にしてくれと言わんばかりに、流しソーメンのように国会中継は虚しく画面を流れるだけであり、気づけば総理と名乗る誰かが指揮棒を振っている。それでは愛国心というものが生まれるはずもありません。ソーメンではなくアーメンでなければならないのです。愛国心を持つには、日本という国土は大きく広がり過ぎているのです。自分の親や夫に、あるいは勤めている社長に尊敬を抱けるように、単位が狭いほど、その組織は完璧になれる可能性を秘めています。静岡県は静岡県、東京都は東京都といったふうに、開国以前の六十余国の州に逆戻りし、それぞれがそれぞれの実験をし、一つの最高の形態を納めることに成功した州があれば、他の州がそれを真似るでしょう。