午後14時。カフェにて飲みかけのコーヒーをテーブルに置いたまま途中退場し、外の公園を散歩していたら、とある二人組に声をかけられた。一人はメガネをかけた天然パーマの小男で、もう一人は190センチほどの細身の外国人だった。
30mぐらい先から、二人が俺の方をチラチラ見ては話しかけてきそうな雰囲気が出ているのは感じた。彼らの近くまで差し掛かかると、彼らは俺に会釈してきて、最初、俺は気付かぬふりをして通り過ぎようとした。しかし、はっきりと声を出して言われた。
「あの、すいません。我々はイエス・キリスト教会の者なのですが」
胸につけてある大きなワッペンを見せながら言われた。確かに、イエス・キリト教会と書かれてある。
「はあ」
「1分だけお時間よろしいですか?」
「1分ならいいですよ」
「い、いいのですか!?」
「ええ、1分なら」と言って、俺は笑った。
OKすると、彼らは自分から声をかけておいて、とても驚いた反応を見せた。この様子だと、今日、初当たりといったところだろうか。それとも、生涯で初当たりか。
「私たちは、皆で集まって聖書を読んで、聖書の理解を深めようとして活動している会です。聖書に、ご興味はおありですか?」
「聖書は、よくいろんな本で引用されますから、引用文については、目にすることはあります。有名な言い回しなどは知っているかもしれないけど、あの分厚い本を、一度も通読したことはないですね」
「そうですか」と小男は答えた。
すると、隣の190cmの細身の金髪頭の外人が、「聖書ハ読ンダコトアリマスカ?」と聞いてきた。
(だから、今、答えたばかりじゃねーか)
「一度も読んだことがないので、一度、ちゃんと読みたいなとは思ってます。自分で一度も読まずして、他人と一緒に読み始めていくというのは、理解が遅くなるような。一人じゃ立ち行かなくなって、他人の手を借りたくなったら、そういった会も、考えてみたいですね」
「イエス・キリストを知っていますか?」と天パの小さな男が言った。
「まぁ、聞いたことはありますけど」
っけ。よく言うぜ。あれだけブログで毎日のように書いておいて。
俺がそう答えると、二人は驚いた様子で、顔を見合わせた。
なんだ、この驚きようは? イエス・キリストだぞ? 知らない人はいるのだろうか?
「イエスキリストニツイテ、ドウイウ人物像ヲ持ッテイマスカ?」と、今度は外人の方が聞いてきた。
「神話に出てくる人物像みたいになってますけど、じっさいにいた人物なんだと思ってますよ。30代で亡くなって、あまりにも早い死だったのに関わらず、弟子たちに崇められて、今日に至るまで語り継がれているということは、すごいことだと思います」
二人は、初めて耳にしたというような顔を見せて、しばらく呆けていた。
なんだろう? この顔は……。
その顔を察するに、ゴルゴタの丘も、十二人の使徒も、イエスが死んだ歳も、何も知らなそうだった。さすがにそれはないと思うけど、その様子からして、彼らが、イエスがじっさいに存在していたと考えているふうには見えなかった。ふだん自分が崇め奉っている対象を、人間呼ばわりして話す俺の口ぶりに驚いたのか、いや、おそらくは、通りすがりの男に声をかけて、イエスについて、ある程度知ったふうな返答がやってきたことが思いもよらなかったのだと思われるが。
「アナタハ神ヲ信ジテイマスカ?」と、外人が質問してきた。
問いかけをしておいて、それを回収することもなく、次の質問に行かれた。わりと、宗教の勧誘をする人というのは、この手のパターンが多い。その問題にわけ入っていって一緒に考えようとはしてくれない。しないのではなく、できないのだ。自分の中の定まったパターンしか持ち合わせていないから、うん、うん、と丁寧に相槌をうって聞いてはくれるけれども、けっきょく持っていきたいところへ誘導することしか考えていない。
「信じてますよ」
「……」
二人は小さな感動を見せた。
ここで、神を信じていると口にすることは、ナンパ師に声をかけられた女性が、「暇です」と答えることと同義である。
二人は、なんとも言えないような顔をして、少しのあいだ沈黙した。
「……」
「……」
いいのか? もう1分経っちゃうけど。
これは、俺だけでなく、誰でも生きていれば遭遇するものなのだろうか? 人生で、3、4回くらいある。どこからともなく怪しい人物に声をかけられて、そういう人は、いつも同じ色をしている。低姿勢で謙遜を美徳としていて、弱々しい雰囲気を出している。
俺が彼らを呼び寄せたのか、彼らが誰とも構わず声をかけているのか。俺の歩いている様子から、神を信じている信仰者のオーラが出てしまっていたのか。少なくとも、ドンキの前で戯れているガキンチョには、この人たちも声をかけないだろう。
しかし、なぜ宗教の勧誘をする人たちっていうのは、こんなに自信がなさそうなのだろう? 引きこもりの人間が初めて外に出て人と話そうとしているくらい弱々しく見えた。こちらが会話を引っ張ってあげなければ進行できないほどだ。こういったテーマを持ちかけようとすると、どうしても尻込みしてしまうのはわかるが、それにしても弱々しい。小さい男と大きな男という組み合わせがまた怪しく見えるんだよなぁ。
「神について、どういうイメージを持っていますか?」
「神ですか」
神。ブログでは何度も書き記してきた言葉だが、こうして声に出すのはいつぶりだろう。2、3年前に、ファンが俺のところへやってきたとき以来だろうか。「リアルな場で『神』という言葉を口にすると背中が痒くなりますよね」と言って、ガストで二人で笑い合ったものだ。
俺は、今、この場に間に合う言葉を探せなくて、過去に書いた記事から引用することでしか取り繕うことはできなかった。以前、ひろゆきの記事に書いたそれである。
聖母アンマは、子供たちに神の所在について質問されたときに、以下のように答えました。
子供「アマチ、それでは神とは、どういう存在ですか?」
アンマ「息子よ、今日の朝、何を食べましたか」
子供「ドサ(インドのパンケーキ)を食べました」
アンマ「その他には何を食べましたか」
子供「チャトネ(果物と酢、スパイスで作るインドの薬味)です」
アンマ「それは何でできていますか」
子供「ココナッツです」
アンマ「そのココナッツはどこで手に入れましたか」
子供「ココナッツの木からです」
アンマ「ココナッツの木はどこから生じましたか」
子供「ココナッツからです」
アンマ「ココナッツとココナッツの木と、どちらが最初に生じたのでしょうか。それがアンマの知りたいことです」
子供「……………………」
アンマ「息子よ、どうして黙っているのですか? さぁ、あなたはここでココナッツとココナッツの木を超えた何らかの力が存在することを認めなければならなくなりました。その力はすべてのものの土台です。それが神です。それは言葉では表現することができない唯一の力です。それが神なのです。あらゆるものの第一の原因(源)が神として知られています。建物やココナッツの木といった存在について議論しているときは、それらが確かに存在している事は簡単に信じられます。でも私たちが目に見えない何かを信じるなら大変難しいことです」
「ココナッツ、ココナッツの木がええと……」
ダメだ、めんどくせー。こいつらに、ココナッツとココナッツの木のくだりから話すのは面倒くさすぎる。これ以上食いつかれても嫌だし。もう1分経っちゃってるし。でも、いい加減に答える気にもなれない。
「ココ……」俺は言った。「根本原因だと思っています。この宇宙の、いや、宇宙の始まる前の、いちばん最初の最初であり、すべてはそこから始まったのだと思います。そして今も、神が作ったストーリーの一部分として、現在があるのだと思います。つまり、創始者なのだと思います」
二人は黙った。やはり、通りすがりの男に声をかけて、こんな返答がくるとは思わなかったのだろう。これはまったく新しい体験だ、という顔をしていた。
「私ハ……」と外人が口を開いた。
「私ハ、神トハ、大イナル存在デ、崇メ奉ル存在ダト思ッテイマス」と言った。
やっぱり俺の話は拾わないのな、と思った。
ふーん、と俺は思った。
言葉よりも、気になったのは、その口ぶりである。確かに、神を偶像崇拝している口ぶりである。あくまで、崇める、遠くに仰ぎ見る存在。俺は、その距離感が気になった。
このご時世に、神をどうこう言うのは、それぞれの勝手にすればいいと思うけれども、こんなに弱々しい口調では、いったい誰が入会する気になるのだろうと思った。おそらく似たような子羊が入ってくるだけじゃないだろうか? そうやって、数だけ膨れ上がっていくんじゃないか。
いくら神を崇めて、宗教的な儀式を繰り返して、聖書を読み漁っても、現実問題として、彼自身から弱々しいものしか感じないのであれば、自分のやり方が間違っていると公に触れて回っていると同義じゃないか、と思った。
宗教を信じる人で、強そうに見える人と弱そうに見える人と、二分されて見えることがある。この境目はどこからきているんだろうと、俺は考えてみた。
おそらく、神を外にいるとみなすか、内にいるとみなすか、ではないだろうか。
「アナタハ神ヲ信ジテイマスカ?」
そう聞かれて、本当のところ、いちばん最初に真っ直ぐ浮かんだ言葉は、「私が神である」というものだった。
私が神でなかったらなんだろう? お前たちも神じゃないのか?
そんなに、神と人間は別個の存在なのだろうか? 全ては神じゃないのか? 全てが神じゃなかったのなら、この地球はなんなのだろう?
彼らは自分の中に神の存在を感じられたから神を見出そうとしているのではないのか? あくまで、自分の外にいると思っている。だから信仰の対象にしてしまっているのだ。
神は客体でなく主体であって、見出すべき対象ではない。自分自身の核に当たるもの、自分自身が神なのだから、どこを探しても見つからないのである。神はそれぞれを自分自身として、宇宙に充満偏在し存在あらしめて、木や石や動物や人間、それぞれを動かしているのである。その上に、生き物特有の、分裂した精神(エゴ)が乗っかっていて、分かりづらくさせているのである。
神だけが唯一存在している。我々は存在していない。存在していると思っているだけだ。行為しているのは神だ。我々が行為しているのではない。人間は、神のパーツとして、それぞれが振り分けられたパートの役目を果たしているだけであって、神は生きとし生きるすべての存在に行き渡っていて、知ってか知らずか、その存在が動いているだけである。だから、俺も神なら、こいつらも神だ。
「あなたが決定をするということはない。ただそうすると思っているだけだ。何か他のものがあなたに物事をなすように駆り立てている。ただそれに気づいていないだけなのだ。思考過程に忙しくしている間は、それに気づくこともないだろう。想念も想像も努力もない場所を見出さなければならない。それを見出しなさい。そうすればもう戻ってくることはないだろう。それは即座に起こる。だが、あなたが考えている限り、あるいは考えないようにしようと努力している限り、それが起こることはない。考えることも理解することもなしに、その無想の場所を見出しなさい。そしてそこにとどまるのだ」パパジ
形式的なことをいくら繰り返したって、自分の中で、その線なり糸なり、神聖なものを発見できないのであれば、何も意味はない。大谷がバットを振るように、スポーツ選手や芸術家や科学者、営業マンでもペットショップの店員でも何でもいい、その対象を遂行する上で、背後にある大きな力の存在を感じて、それとピタリと一致するのを目印にして、実務方面での研鑽をしていくほうが、よっぽど宗教の指しているところの本質なのである。こういった技能芸術によって、完全なる一体感を求めることは、自分の中の神を引き出す訓練となる。
自分の中に探し求めて、これは神かな、どうかな、とやっていれば、少しづつ、その辿れる線や糸なりが見つかってきて、己の中に、光の一筋なるものが見えてくるようになる。すると、自分の分量を減らして、それに任せるようにしていくと、それが勝手に口を開くようになり、放っておいても力強い光を放つようになる。それが宗教だ。別に入り口はなんだっていいのである。武道、芸術、科学、それぞれがそれぞれの気質に合うものをやったらいい。この世の全ては、神を見出すためのツールにすぎない。地球という星が神を見出すための実験場なのである。
しかし、彼らはこの世は全てが神だということを知らない。神を神話の類だと思っている。だから崇拝するのだ。あくまで偶像崇拝や、アーメンと言ったり、文言を復唱したり、形式的な謀をなぞっているだけだ。この引き出す訓練こそ宗教だというのに。だから彼らは、何を語るにしても、神の言葉を引き出してこれない。だから、平日の午後に公園を闊歩する暇な中年男一人の心を動かせない。
自分の中の、これは神か、神ではないか、を繰り返し、神の分量を増やしていくという作業が、どうして外側でできようか。しかし、じっさいのところは、分量が増えたり減ったりするものではなく、すでに下敷きとして、大きく広がりを持った最大充満偏在された力が存在しているだけであり、それが神の正体であることは肥田先生が詳しく語っている。
インタビュアー
神や宗教はインチキだと?
肥田春充
そうではありません。インチキ宗教が多いということです。彼らが売り物にしている奇蹟や霊能の類は、何ら不思議なものではなく、合理的かつ平凡なことなのです。真の宗教は、科学的真宗教でなくてはなりません。宗教は理の究境であるべきで、観念感情のみであってはいけません。玄妙な一理を辿って行けば、絶対唯一神に到達します。理法そのものには、生命意志はありませんが、理法の究境にあって、無限空間と無窮時間と一致した全能者が、神でなくてはならないのです。私は「虚無」の力において神を感じました。無限の神が、私の零次元虚無の一点にあり、かつ無限にわたっておられます。神は有形なる無形の有形です。有形の完全極は無形となります。虚無一点の生命は、ただ虚において無限の生命に接することができます。真虚になれば、すなわち聖虚。聖虚になれば、神と合することができます。私はただ、正中心虚無において、神と合一することを知ります。私が神と合一するのではありません。神は私ではない私と、一体ではない一体化をなすのです。神は遙か無限距離の彼方にある合一ならざる合一です。つまり、神との一体化と便宜上は言っても、厳密には一体化ではなく、己が真虚となることで、ただ神のみが存在することを知覚したに過ぎないということです。我が虚無一点の神は、そのまま無限の神であります。無限虚無一点の無限拡大の無限の存在が、完全絶対の唯一神なのです。
心が止むところに神は現れる。ヨガナンダ
自分を虚無にするということは、自分自身のエゴを神に明け渡す、ということになる。が、しかし、この偶像崇拝を宗教活動の生命とする人々は、神にお祈りして、何かいい見返りがあればという、願掛けのような態度でいる。このような態度は明け渡しではなく命令だと、ラマナ・マハルシは言っている。
質問者 それでも私たちは世俗の人間なのです。妻がいて、子供や友人や親戚がいます。いくらかの人格を保つことなく、彼らの存在を無視して自分自身を神の意志にゆだねることができません。
マハルシ つまり、あなたは神に明け渡していなかったということである。あなたは神だけを信じなければならない。神がその姿を現そうと消え去ろうと、彼の御心に従い、すべてを明け渡しなさい。神のはからいに任せなさい。もしあなたの希望に沿うように神に頼むとしたら、それは明け渡しではなく命令である。神をあなたに従わせておきながら、自分は明け渡したと考えることはできない。神は何が最善であり、いつ、どのようにするべきかを知っている。彼にすべてを完全にまかせなさい。重荷は彼のものだ。あなたはもはや何の心配もしなくていい。あなたの心配はみな彼のものなのである。明け渡しとはそのようなものだ。これがバクティである。
神を見出すための実験をするわけでもなく、外側にあるものを崇めて祈っておしまいだ。初めから神との一体化を目標としていない。初めから終わりまで、神を外側に置いている。心地いい言葉を使って、礼儀を正しくして、恭しく人に接していれば、救われると思っている。生活上で、他人に良くした時に、いい反応が返ってきたり、その手応えや充実感が、確信のように感じられて、それが宗教の最も意味するところだと思っている。聞こえのいい言葉、感じのいい態度、それをやってれば救われると思っていて、それすらも一人でできないから、群れたがる。一人じゃ善行も施せない。
なぜ、このような人達は、いつも群れたがるかというと、およそ他に自分の居場所がないからである。宗教の一面だけを理解した結果、謙遜謙譲を美徳として、自分の家出娘を叱ることもできず、およそ全てからイニシアチブを奪われ、ただ宗教らしき信念だけが彷徨い歩き、それが収束する場として、怪しい宗教色満載のコミュニティというわけである。その無意味さ、空虚さ、弱弱しさは、宗教に何ら触れたことのない一般人にも見抜かれてしまうところであり、そのため彼らは隅に追いやられている。
神を外に求めてはいけない。あなたが神なのだ。
良いことをすれば、心になんともいえないさわやかな気持ちがして、悪いことをすれば心が痛むのは、我々が神だからではないか。
神だけが存在していて、他のなにも存在していない。存在していると思っている自分があるだけだ。