霊的修行

霊性心本位の生活

記事、拝読しました。しまるこさんは、この数年の間に、何回か生まれ変わっているような気がします。しばらく筆休みをされて戻ってきて風俗の記事を書かれた時も感じました。明らかに、前に書いていた記事と異質なものを感じる時がありますが、それが長年ブログを読み続けてしまう理由なのかもしれません、変貌を遂げる時があるような気がしますが、こういった変化はどうやって起こるのですか? 個人的に興味があるので、ぜひ教えていただきたいです。

(笑)

ゲーテは、シラーについて、「一週間毎に彼は変化し立派になっていった。会う毎に、彼は博識と判断とを進めたように見えた。」と振り返っています。

「男子、三日会わざれば刮目して見よ。」という慣用句もありますね。

親友にも、お前は会うたびに別人になっていると言われます。日々の中で、新陳代謝を繰り返すことで、私達はこういった変化を遂げますが、主義主張、考えていること、テーマ、頭の中、心の中で、今、抱いているものによって、人は変わると思われますが、”境地”というものは、どうでしょうか。

正しいグルがいれば別ですが、境地があまりにも早くひとりでに進んでいくことは、必ずしもいいことではないようです。晩年の漱石は「牛になる」ことの重要性を訴えています。夏目漱石は芥川龍之介に対して、「牛のように図々しく進んで行くのが大事です。」と手紙を送っています。彼の顔の奥にある死相を読み取ったのでしょう。悪いことにそれは的中してしまいます。ブッダもまた、弟子たちに、「犀の角のようにただ独り歩め」と言っています。なぜ駿馬の足ではダメだったのか。どんなに速く進んだとしても、しっかり地に足をついていないと、死神に攫われてしまうことを懸念したからでしょう。

中村天風先生は、人間には、動物心と理性心と霊性心と3つがあり、現代に生きるほとんどの人は、理性心で生きていると話しています。そしてこの理性心と動物心がぶつかり合うことによって、煩悶、苦悩が起こると言っています。

動物心は、寝たり、食べたり、本能的な欲求。単に肉体上に必要な生理的な要件を満たすために発揮されるものであり、理性心は、物事を検討、分別する上で使われる代物で、どちらも、四六時中、働かせていなければならないものではありません。必要な場合に、必要なタイミングで使うものです。

現代に生きる私たちは、あくまで、この解決を理性に求めますが、理性心によって苦しめられている問題を、理性心で解決を求めることによって、余計に苦しんでしまうというジレンマが起こっているとのことです。

私たちが生活を送る上で、動物心も、理性心も、中心に置くような代物ではない、となると、どれを中心に置いたらいいかというと、霊性心ということになります。

中村天風先生は、誰それの持っているカバンや財布の中身を当てたりして、いわゆる透視能力が使えましたが(透視だけに関わらず、そのほか全ての超能力が使えました)、それをどうやっているかと弟子に問われた時、「単に、心の中のゴミを片付けただけだよ。あんたたちは年がら年中、そりゃあ、モウモウと毒ガスが吹き荒れているからできない、本当にそれだけなんだ」と言っています。

天風先生の愛弟子である、野崎郁子さん。天風会の3代目会長で、原敬元首相の奥様に当たる人ですね。この方は、天風先生に心の綺麗さをよく褒められていたとのことですが、彼女もまた透視能力が使えるようになったとのことです。心が綺麗で、胸に一物何もないと、心にはっきりと景色が見えるようになって、カバンの中身も見えてしまうのかもしれません。

肥田春充先生も、同じ能力を有していながら、同じことを言っています。これは、人間本来に備わった力であり、自然に即した生き方をしていれば、誰でもできると。

私はそんな能力は何一つ持っていませんが、私の文章の中にささやかながらそれを見たのなら、普段から、どれが霊性心だろう? と注意深く、判別しながら生活していった結果、霊性心の割合が大きくなっていった、というのがあるのではないでしょうか(笑) ああ、これは霊性心だな、これは本能心か、理性心か、と。

もっとも、人間の本体が霊性心からきている以上、じっさいのところ、霊性心がいちばん出しやすいのだと、天風先生も肥田先生も言っております。無論彼らも、初めからできたわけではなく、生活の中で溜まっていった汚れを落としていくことによってできるようになったとのことです。

もし我々が、自分の正体を見切って、そこに安住することができたら、世の苦悩とはおさばらできるでしょう。今は、私は、私の本体から出てくる言葉にしか興味はありません。文章を書いているのはそのためです。文章を書いてる時、あっこれは霊性心かな、これは違うかな、自分のエゴかなぁ、なんて見比べながら綴っています。そしてこれをそのまま人との会話でもやっています。友人と話してる時でも、これは霊性心から出た言葉かな、それとも自分の精神の垢から出てきたものかなと、確認しながらやっていると、他人から見たら、また変わった、と言われるかもしれません。動物心と理性心の割合が少なくなり、霊性心の割合が大きくなるほど、”境地”が変わってくるかと思われます。それが質問の答えになるかと思われます。

これは0か100という、極端な話ではなく、ラマナマハルシも、「部分的な明け渡しでもうまくいく」と話しています。自身のエゴを神に捧げた分、その分の見返りが現れると言っているのです。もちろん、完全な明け渡しができるのであればそれに越したことはないとも言っています。

しかし、文章の中に、なんてチンケなことを言っていてはなりません。全ての人が、霊性心本位の生活に変わっていかなければなりません。もともと、太古の時代の人は、みんな、霊性に目覚め、こういった能力を持っていたとのことです。文明が進むにつれて霊性は退化し、現代は、あらゆる時代の中で最も霊性が低い周期となっているそうです。それは、アンマも、スリユクテスワ氏も挙げています。一万年後には、みんながテレポーテーションして、超能力を駆使して生活する時代が来ると言っていますが。今でこそ、我々は文明を尊び、科学技術偏重の真っ只中にいますが、その科学力でもって霊性の科学にメスが入るでしょう。これから世界のあちこちで、多くの目覚めし者が現れるとアンマは予見しております。

人は霊性心でいちばんはじめに物事を捉えているのですが、その後に分別心、これまで生きてきた自分の観念、つまり理性心を持ち出してしまうことによって、あらゆる現象を歪めて捉えてしまいます。これはおよそ、右脳で捉えた映像を左脳でシンボル化しようとする働きで、それらがぶつかってしまって見たものをそのまま描けないのと同じ理屈かもしれません。じっさいのところ、霊性心で一読すれば、何も分からないことはないのに、理性心や本能心が顔を出して、やたらめったら暴れ回っている状態なので、何事も分からなくなっているだけなのでしょう。

どのブログを読んでも、Xにしても、心を汚させるものばかりです。食べ物以上に、汚染された情報が蔓延っています。思考や、精神的錯綜によって生まれた作品は、世の中を余計に汚すだけで、あくまで、霊性心によって、霊威を膨らませた、霊的エネルギーだけが、世の中を浄化するでしょう。最も、日本文学界にあっては、その境地に達することができたのは、夏目漱石と宮沢賢治だけだと私は思っております。私は、宮沢賢治は、心が誰よりも綺麗だったから、胸にあんなに美しい物語を映すことができたのではないか、と考えています。

もっとも、記事だけを綺麗に書こうとしたってダメですね。その人自身が霊的な人間にならなければ。そして、私が変わると、相手も変わらざるを得なくなります。私が変わると、読者も変わってしまうのです。

心が止むところに神は現れる。ヨガナンダ

一切の思考は、思考そのもののためには何の役にも立たないのだよ。人は、生まれつき正しくなければならない。そうであれば、よい着想が、いつも神の自由な子のように、われわれの前へ立ちあらわれて、呼びかけるだろう、ここにいますよ!とね ゲーテ

もし自分の中に積み上げた精神のガラクタの上に安住することなく、それを常に残らず捨てきっていけば。創作するということは、作ることではなく、捨てることをいうのでしょう。

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