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アンチ=ファン一元論

そもそも、アンチはファンであり、ファンはアンチです。ファンとアンチは同一源のところから起こっています。決して別個に存在しているものではありません。

例えば職場で、仲間と話をしている時、我々はいい顔を通しているけれども、どこかで腹が立ったり、今の発言は許せない、と思ったとき、我々は固唾を飲み、見逃します。

けれど、ネットだと、固唾を飲んで見逃した部分を、その人に対してバレずに伝えることができてしまいます。

これは、現実社会で毎日起こっていることです。じっさいに職場や学校や家族やらで人と対面するとき、人はさまざまな思惑が交錯します。その中には、友好的なもの、邪悪なもの、大小さまざまの想念が蔓延ることになりますが、自分の存在が担保されているという理由で、人は、どんなに腹を立てようとも、それを内面で処理し、友好的な態度しか差し出そうとしません。

しかし、インターネットのように、匿名性が高い場所では、これがうってかわり、友好的な態度を差し出す一方で、邪悪な態度も差し出すようになってしまうのです。

私は直感的に分かりますが、私にアンチコメントを送ってくる輩は、別の機会には、私を褒めそやし、友好的な態度で近づいてくるその人だということが、何となく直感的にわかるのです。直感でなくとも、理論的に考えてもわかることです。なぜなら、よほど興味がなければ、こんなブログをわざわざ読もうとしないからです。嫌いも好きなうちとよく言いますが、特別な想いがあるからやってくるのです。その想いの中には、愛、邪悪、尊敬、軽蔑、嫉妬、さまざまが含まれています。彼らは私をおもちゃにして、楽しい時は楽しい感情を、傷つけたい時は傷つける言葉を、その時のその気分でぶつけては、何とも自由なコミュニケーションを一方的にやっています。ある朝には、「おっすぅ♪ 元気してるー?」などと何食わぬ顔をしてやってきたりしますから、そんな彼らに暴言を吐かれる身としては、一考して、立ち止まってしまうことは無理ないことでしょう。アンチはアンチとして屹立している存在ではありません。彼らは私のファンでもあるのです。

大抵、SNSでアンチと言われている輩の正体はこんなところです。大谷のマネージャー事件ではないけれども、いちばん身近にいて、いちばん明るく声をかけてくれる存在が、インスタで連日のごとく罵詈雑言を放ってくるアンチの正体だったという例は、女性インスタグラマーの世界ではよくある話です。私はそれほど若くはないから看過できるけど、彼女たちが人間不信になってこの世からおさらばしてしまうことは無理もないことでしょう。イケハヤさんも、浅いアンチはこれに当てはまらないけど、風呂場の根強い汚れのようなアンチは、大体の場合において、自分のことをいつも親身になって応援してくれるファン(あるいは元ファン)だったことが、アンチリサーチを徹底したときに判明し、驚きよりも笑いが勝ったそうです。

恐ろしいことは、人間には二つの顔があるということです。彼女やイケハヤさんに付き纏っていた巨悪なアンチは、二人と接している時、二人を心から愛していた、ということがあるのです。いや、この場合、愛という言葉は適切でないかもしれません。しかし、本当に、かけがえのない友情を感じていた、ということがあるのです。その一方で、世にも恐ろしい口にするのも憚れるような罵詈雑言を浴びせるということが人間にはできてしまうのです。

それは、彼らだけに問題がある、とは言えますまい。何かが、この匿名性という何かが、我々に恐ろしい魔性の血を騒がせるものとして働きかけていることは事実です。だから、私は匿名制度というものに反対なのです。人間が人間でない何かに変貌させられてしまう。我々が人であるためには、名前や住所、家系、得意先、腕時計、カバン、鏡、我々が我々であるということを確認させてくれるものを常に携えていないと、愛する人を自分の手で殺めてしまうという、『リア王』びっくりの悲劇を引き起こしてしまう恐れがあるからです。

一度この麻薬に手を出したものは、なかなか戻ってこれません。一度でも、因果応報や、徳や善について考えたことがある者ならば、どれだけ匿名を盾にしても神の目からは逃れることはできないことは分かりそうなものですが、それはふだんから何度も私が書いているというのに、彼らはそのそばから罪を犯し、私の文章には人を救う力はないのだとがっかりさせられます。リードの外れた犬が、リビングでもソファでもおしっこすることを覚えてしまったように、どうして私が、こんな自制心をなくした犬の世話をしなければならないのでしょう……!

しかし、私がアンチコメントを無視するのは、上の理由からではありません。

彼らはそもそものマナーがなっていないからです。 エチケットがなっていないからです。匿名の陰に隠れてコメントをする輩に、私はそもそも真面目に対応しようという気持ちが起こらないのです。

私が許せないのは、暴言を吐くことではなく、匿名の立場を利用するところです。ネットの何が良くないというと、匿名であることです。マッチングアプリも同じです。マッチングアプリでも、およそ職場の女性と一言も話さないような男が、これもリードの外れた犬のように、やたらめったらにおしっこをかけたり噛みついたりして、女性たちに迷惑をかけています。

アンチコメントは、見るに耐えないから削除してほしいというコメントも届いたりしますが、そもそもがマナー違反から始まったものに対して、ゴミ箱フォルダに移動させるという、なぜ彼らの粗相を私が始末しなくてはならないのか。彼らの排泄物に指一本でも触れることが嫌なのです。部屋にゴミを投げ入れられたとして、どうして私がそれをゴミ箱に捨てなければならないのか、ということですね。まぁ、部屋が埋まるほどゴミを投げ入れられたら、そうは言っていられなくなるので、しぶしぶ立ち上がりますが(笑)現在はまだ微量に投げ込まれる程度なので、そのまま放っておいているだけの話です。

もし、ふだんの、友好的に関わってくる時に使うHNのまま、私に暴言を吐いてくるのであれば、私は決して無視などしません。彼(彼女)の心が晴れるかどうかは知りませんが、誠実に語り合う場は設けるつもりでいます。

じっさい、私は、ネットの匿名制度に反対です。そのせいでネット上に血が流れているのです。もう帰らなくなった命もあります。この問題において、言論の規制といったことはまったく的外れな処置です。法は誹謗中傷を取り締まるのではなく、匿名制度を撤廃しなければなりません。じっさいのところ、誰彼ともわからないまま話をすることは、実りがないばかりでなく、会話というものが担保されないのです。Xにマイナンバーを紐づけるのもいい案です。少なくとも、人類救済の着実な一歩となるでしょう。

信じがたいことだが、匿名の陰で身の安全がはかれるとなると、連中は無礼きわまりなく、ひるむことなく、どんな悪事でも繰り出す。ショーペンハウエル

「面と向かって率直に発言する相手は、名誉心のある穏健な人物だ。そういう人物なら、お互いに理解しあえるし、うまく折り合い、和解することができる。これに対して、陰でこそこそ言う人間は、臆病な卑劣感で、自分の判断を公言する勇気すらない、自分がどう考えたかはどうでもよく、匿名のまま見とがめられずに、うっぷんを晴らし、ほくそ笑むことだけが大事なのだ」リーマー『ゲーテにまつわる報告』(序文二九ページ)

正体を明かして他人と向かい合うかぎり、だれでも自分に敬意を払うことを公然と要求できるが、変装し覆面し、こっそり忍び寄り、他人に迷惑をかける者には、そんな権利はない。ショーペンハウエル

匿名を撤廃すれば、あらゆる物書きの悪事は九九パーセント存在しなくなるだろう。ショーペンハウエル

私自身としては、とばく場や売春宿と同じように、匿名批評の巣窟を取り締まりたい。ショーペンハウエル

悪口を言うと悪口を言われる

これは沢庵禅師の言葉です。この言葉は真理です。私が悪口を言うから、悪口を言われるのです。

優れた書き手というのは、皆、空間の中を探ります。空間の中から一塊の文章を取り出します。彼にとって創作とはそれが全てです。自分の言いたいこと、考えよりも、それを尊重します。そのときに心は用いません。空間から取り出した文章に、悪辣で低俗な言葉が含まれていようと、それは自分のやったことではないと、知らん顔をしています。信じられないことかもしれませんが、文章を書く上で、思考というものは必要ではないのです。

一切の思考は、思考そのもののためには何の役にも立たないのだよ。人は、生まれつき正しくなければならない。そうであれば、よい着想が、いつも神の自由な子のように、われわれの前へ立ちあらわれて、呼びかけるだろう、ここにいますよ!とね ゲーテ

彼が書きたいものを書いていると思ったら大間違いで、ただ空間から命じられる言葉をそのまま書き写しているだけであり、書き手にとって必要とされるのは、それを公開する勇気です。

Mr.Childrenの桜井氏が「しるし」という楽曲の制作過程において、「ダーリン ダーリン」という言葉が歌詞のサビの部分として浮かんだそうですが、こんな恥ずかしい言葉を書くのはどうしても嫌だと思ったらしいですが、「まぁいいか、俺が言ったんじゃないんだし」と思い直し、そのまま残すことに決めたそうです。

空間から取り出した文章というものは、一文一文が抜き差しならないものとして、緊密に結び付き合っています。作者はこれに指一本触れられるものではないし、触れるべきでもありません。私はこれまで他人の目を気にして、いくらかそれを改竄してきたことはあったけれども、今後、一切、これに手を加えようとは思いません。

どうしても彼らにあっては、私が神聖な道を尊ぶ一方で、毒を吐き、低俗で邪で、女性差別をし、そういった実態が許せないようで、私を変えようとするきらいがあるようですが、人を変えようとすることは、この世で最も愚かな行為です。

自分の思ったことは断固としてはっきりと大きな声を出して言うこと、それが創作に携わる者が唯一守らなければならない厳粛なルールです。私が私のHNでもって責任をもって言うのだから、いいのです。それに対して、どうして名乗り出ない卑怯者が私に対してツベコベ言う資格があるでしょう。面と向かって直接言いたいことがあるなら、相手をしてやる、それだけのことです。

偉大であるということは、誤解されるということなのです。

私は今後ますます誤解されることでしょう。

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