マンコ=ポーロ
展開がお約束過ぎたというのはストーリーが鉄板過ぎたという事でしょうか?
しまるこ
はい、その通りです。展開がお約束過ぎない物語の方が珍しいくらいで、お約束じゃない物語に出会うことなんてほとんどないというか、ないような気がしますけれどもね。
しかし、この物語にひと工夫やふた工夫を入れたとしても、クオリティが、ましてや、新しさが上がるとも思っておりません。
お約束じゃない方向へ舵を切ろうとしても、頭で考えた動きというのは察知されやすく(スポーツや武道においてもこれはそうですね)、無理に動かそうとすると今度は破綻が出てくるわで、これじゃあ無理難題をふっかけているような気がしてしまいますね。
最近、セント=ヘレナ覚書という本を読んでいたら、これは、ナポレオンがセントヘレナ島に幽閉されていた物語なのですが、ナポレオンの思想や一言があまりにも強烈すぎて、ただ幽閉されているだけの内容なのに、新しいという感覚を得られた久しぶりの体験でした。
新しいストーリーを見てみたい気持ちはありますが、こういう部分にしか新しさというのは残されていないのではないかと個人的には思っております。ゲーテも、「平凡な対象から興味ある方面を引きだせるほど才気があるという点にこそ詩人の詩人たる価値があるのだから」と言っております。神話だの、聖書だの、ホメロスだの、歴史物や古典の方が昨今の出版物よりも新しく感じられます。新しいというのは、定説や、これまでの認識が覆ってしまうもの、ニュートンの万有引力説からアインシュタインの相対性理論に物理学の根底が置き換わったように、平面に続いてると思っていた地球が丸いとわかったように、これまで信じられていた通説が一新されるところにあるのではないでしょうか。もし、半球の片隅のどこかに、新たな大陸が発見されて、そこでしか育たない植物や動物や人間がいて、文明を築いていたら、新しいということになるでしょうが、それと同じことを期待するぐらい難しいことではないでしょうか? 確率でいうのであれば。
ですので、結局のところ、新しいというのは、これまでの既存の考えを一変させることであり、物語の中でひと工夫やふた工夫の細工を施したところで、読者に与える印象としては何も変わらないと考えています。とはいえ、この方面で戦う人達を応援したいと思っています。マンコ=ポーロさんの作品、じっさい、読んでいて楽しかったですよ。
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新しい、新しいものを……、と巷ではよく騒がられるけれども、この”新しい”について、知人の創作物を語ることで、考える機会を得た。
まず、新しいとは何か、それを見ると人はどうなるか、その一例を紹介したいと思う。
「スープが来るまで君の眼を楽しませてあげよう。」
親しそうにこう言って、ゲーテはクロード・ロランの一冊の風景画を私の前に置いた。この偉大な巨匠の作品を見るのは初めてだった。私は非常な印象を受けた。そして一枚一枚とページを繰るに連れて、私の驚きと喜びとは高まった。両側に力強い暗いかたまりがある。等しく力強い日光が背後から空へ向かい、水の中に反射している。そこから常に非常に明確な印象が生じた。私はこれが、この偉大な巨匠がつねに繰り返す芸術の原理のように思った。また私はどの絵も独立して完全な小世界を作り、全体の雰囲気に合わないものや、それを助長しないものは全くないのを見て驚嘆した。港の絵がある。停泊している船と働いている水夫と、水に接した美しい建物とがある。寂しい荒れた丘の景色がある。草を食んでいるヤギと小川と橋とわずかの草むらと木陰のある樹木とがあり、その下に牧人が休んで葦笛を吹いている。あるいは水たまりのある低い沼地の絵がある。夏の極暑の頃で、それが気持ちのいい涼しい感じを与えている。絵には常に完全な統一がある。それに合わない異分子は全然ない。
「まぁ、この完全な人を見たまえ。」とゲーテは言った。
「美しい思想と感覚とを持っていた。心には、他には稀な世界があった。絵は真に迫っているが、現実の跡方は少しもない。クロード・ロランはありのままの世界に、微に至るまで精通し、それを用いて彼の美しい心中の世界を表現したんだ。そしてまさしく真の理想は、現実を利用し、描かれたものをいかにも本当らしく思わせるところにある。」『エッカーマン. ゲーテとの対話より』
ニーチェもまたクロード・ロランに感動し、号泣している。
一昨日の夕方ごろ、クロード・ロランにすっかり魅了されて、とうとう長いあいだ激しく泣き出してしまった。こうしたものを体験することが私になお許されていたとは!
私は、この大地がこうしたものを示すとは、そのときまでは知らないでいて、それは優れた画家たちが虚構したものだろうぐらいに考えていた。
この英雄的・牧歌的なものはいまや私の魂を暴露するものだ。
そして、古人たちのすべての牧歌風のものが、一挙に、いまや私に対してあらわにされ、明らかになったのだ――いままで私はこうしたものについて何ひとつとして理解していなかったのである。
引用:『生成の無垢』上巻(ちくま学芸文庫、1994年)550頁、一〇五四
紹介しておいてだけど、小生には↑の絵の新しさはまったくわからなかった。以前このブログに遊びに来ていた小川さんは、クロード・ロランの大ファンだったが。
ゲーテは言う。
「私は古典的なものを健全なものと、ロマン的なものを病的なものと呼ぼう。この意味で『ニーベルンゲン』もホメロスも古典的だ。なぜならともに健全で力があるから。新しいものの大部分はロマン的だね。新しいためでなく弱々しく病的なためだ。古いものが古典的であるのは、古いからではなく、強く、元気で、快活で、健全だからだ。こういう特徴から、古典的なものとロマン的なものを区別したら分かりやすいだろう。」
「ごらん、彼は、まったく新しい人だ。」(クロード・ロランに対して)
これはつまり、「作品は人なり」をよく表したもので、その人が新しい人間でないのに作品が新しいということはありえない。その人の持つ固有の目が、その映った景色がわれわれに新しく感じさせるのだ。
私たちは、自分に中にあるものを信じず、外にあるものを追い求めようとする。それが自分のものだという理由で。新しいというのは、自分になりきること、それに尽きる。なぜなら、固有の生命だけが新鮮な輝きを持ち、それ以外はガラクタだからである。
その人の、誰彼の目を憚らず、すなわち、生まれたままの、幼児のような視点を膨らませ、どこにも何にも毒されていない、完全無欠な無垢な瞳、それは彼にしか見えない景色ではあるが、確かに存在している景色であり、創作とは、これを行うことをいうのである。それ以外の創作とは、つまり、盗作である。
「芸術は、盗作であるか革命であるか、そのいずれかだ」ゴーギャン
その証拠に、意図的に自分が新しいことをやろうと思った時はたいてい失敗する。失敗するとはすなわち、他者に新しいという感覚を与えられずに終わってしまうことだ。岡本太郎が「この作品は新しい、と言われたら、それはもう古くなっていると思って差し支えないでしょう」と言っているとおり、流行的な意味での、新しい、古いというのは、じっさい上は問題とならない。ただ、自分か否かだけが問題となる。
常に新しさを求めていた岡本太郎だが、岡本太郎作品について、とある美術ジャーナリストがこんな提言を持ち出していた。
「誰よりも新しさを追い求めて、『同じことを繰り返すくらいだったら死んでしまえ』とか、『他人はおろか自分のやったことさえなぞってはならない』とか、『瞬間瞬間を生きる』とか言っているわりには、ほとんどの作品が同じように見えるのは、いいことなのだろうか?」
これについては、多くの人が共感するところではないだろうか? 太郎作品を見て、どれも同じように見えるという人は少なくないだろう。僕ティンもそう見える。むしろ、一般の画家よりもそれは顕著かもしれない。じっさい、岡本太郎の作品は金太郎飴のようだと、専門家や知人に形容されている。
この一群の絵の中に、写実的な風景画でも一枚混ざっていれば、いわゆる視覚的には新鮮さをもたらすかもしれないが、新しいということは、そういうことではない。岡本太郎は、一日一日、まるで新しく生まれ変わるような、新しい彩りを持った朝を迎えるように生きていた。一つ、また一つ脱皮していくように、本然の自分に向かっていくこと、そうやって絵を描いた。それが他人から見たら、同じものばかり描いている、と思った不幸があったかもしれない。
「生涯を通じて、決意した自分に絶望的に賭けるのだ。変節してはならない。精神は以後、不変であり、年をとらない。ひたすら、透明に、みがかれるだけだ」岡本太郎
全ては完全な人間になるためなのだ。つまり、その人の、固有のレンズを完成させるということである。 レンズをひたすら透徹にすること、あるいは捨ててしまうこと、この辺りは宮本武蔵や伊藤一刀斎がやっていることと同じである。宗教も芸術も武道も目指すところは何ら違うところはない。
「 お前の言う事は正しい。しかし自分らの考え方に従って遠慮のないところを批評するとなれば、現在のお前は眼鏡を通してものを見ているようなものだ。確かにレンズは透き通っているから、さほど視力を弱める事はないとは言える。しかしもともと肉眼に何の欠点もない人は、どんなに良いレンズであろうとも、普通ものを見るときには使う必要がないばかりか、使うことが変則であり、使わないのが自然と言うものだ。現在のお前は、この事を問題とするところにまで進んできている。もし眼鏡という障害物を取り去ることができるならば、たちまち望み通りの極地に到達できるに違いない。ましてお前は剣と禅の二つの道とともに進境著しい人物である。一旦はっきりと道のあるところを悟ったならば、殺活自在神通遊化とも言うべき境地に至るのはわけのないことであろう」山岡鉄舟・剣禅話より
〈私は単純な、ごく単純な芸術しか作りたくないんです。そのためには、汚れない自然の中で自分をきたえなおし野蛮人にしか会わず、彼等と同じように生き、子供がするように原始芸術の諸手段をかりて、頭の中にある観念を表現することだけにつとめなければなりません。こうした手段だけが、すぐれたものであり、真実のものなのです〉ゴーギャン(タヒチに発つ前、1891)
岡本太郎も、熊谷守一さんも、ゴーギャンも、ピカソも、晩年になるにつれて、単純な線になっていっている。その単純な線とは、ごくごく簡単に、明確に、抽象思想を一線で捉えることであり、これはヨガでいう最奥の科学であり、宗教と芸術の目指すところの重なる一線でもある。
つまり、芸術とは、絶えず何者かに変えようとしてくる社会の中で、純粋に自分であろうとする試みである。この世界は、ヨガナンダ先生の言うとおり、一人ひとりに役割が与えられている。オリジナルとは、結局のところ、この役割を愚直に果たすところであって、自分勝手に自分が正しいと思うことを試みるのとは違う。新しいことというと、意表をついたような、奇抜な、オレンジで塗るところを緑に塗ったり、てんてこまいのようなことをすることだと考えがちだが、むしろその反対であり、極端に自分になりきることである(origin=起源、だ)。自分の中の核というものは、それはあまりにも核であるという理由で、自分に近すぎるものであって、すべての中で最も近しい場所に位置し、自分にとって当たり前すぎて、慣れ親しみすぎて、その中で生息しているから、その新鮮さにはまったく気づかない。気づかないというより気づけない。手塚治虫はこれに対して自分では絶対に気づけないとさえ言っている。むしろ自分では、古いと思っている節すらあるかもしれない。そこで、自分にとって新しいと思った方向へ行こうとして、怪我をするわけだ。
さて、この記事に書かれていることは、新しいだろうか? 俺は自分では古いと思っている。こんなことはずっと昔から考えていたことであり、火を見るより明らかだからだ。でも、だからこそ、他人の目には新しく映る、ということもあるかもしれない。さっきから、ずっと、そういうことを言っているのである。
象になろうとしている猫がいたとしても猫は猫であり、アサガオが発見されていない時世にアサガオが発見されたら、それは新しい。猫は猫のままでいいし、アサガオはアサガオのままでいいのである。もしその人が純粋に自分になりきって、それを表現できたとしたら、それは十中八九、新しいものになる。ただ見出す人がいるかどうかの話だ。第三者の問題なのである。マルコ=ポーロが初めて日本をヨーロッパを伝えたように。
「描くことの生き甲斐は、生活の確立とか、食うことの保障とか、ましてや、楽をしようなんて欲からは、ほど遠いものなのだ。だから、もし、あなたがまかり間違ってプロマンガ家になろうなんて気を起こした場合には、作家なんて連中ともつきあわず、編集部へ持ちこみなんかもせず、ただ、ひたすらたくさんの量を描くことだ。それを数年つづけて、少しも執筆欲が衰えなければ、今度はたぶんなにかの縁で先方から幸運が舞いこむだろう。それまでの執筆の実績は天知る、地知るというわけである。だが、プロとして出発するには、きわだった個性が必要となる。この、個性というものがどんなしろものなのか、描いている本人には絶対わからないのであって、これを掘りだすのは第三者だ。だから、自己満足に陥って、自信過剰のままマスコミ界へとびこむと、袋だたきにあって、都落ちとなる。マンガ界は、予想以上にきびしい世界である。まあ、以上のようなことが、マンガ家を志す人へのぼくの基本的な考え方なのだ。」手塚治虫
ヨガナンダ
神はもともと、あなたが内なる全能の力を発揮して、いかなる試練にも挫けず、この人生の舞台における崇高な役割を達成することを望んでおられるのです。
神はわれわれを楽しませるためにこの世界を作られた。
あなたががたはどのようにして自分に適した役割を見つけようとしていますか? もし、だれもが王様になりたいと思ったら、だれが召使いになるでしょう? 舞台で劇を成功させるには、王様の役も、召使いの役も正しく演じられなければなりません。どちらもその重要さは同じです。われわれがそれぞれ異なる個性を持ち、さまざまな職業的志向を持ってこの世に送られてきたのはそのためであることを覚えておきなさい。神は、われわれを楽しませるための巨大な舞台劇として、この世界をつくられたのです。しかし、われわれはとかく、舞台監督の意図を忘れて自分勝手な役割を演じようとします。
あなたが人生の舞台で失敗するのは、神の定められた役割と違う役割を演じようとするからです。舞台では、ときには道化役のほうが王様よりも注目を集めることがあります。ですからあなたも、自分の役割がどんなに目立たないものでも、良心的に演じなさい。神に意識を合わせれば、あなたは自分に与えられた役割を立派に演じることができます。
あなたがたは、苦しんだり悲しんだりするために劇を演じるのではありません。悲劇を演じている人は、ただその役を演じているだけだということを理解すべきです。どんな役を演じることになっても、嫌がらずに、聖なる監督の指示に従って、その役を立派に演じるよう努めなさい。そうすれば、たとえ小さな役でも、人々に光を与えます。神の無限の力が、あなたを通してこの地上劇の一役を演じていることを自覚しなさい。
神の無限の力は新しい成功をつくり出します。神は、あなたがロボット人間になることを望んでおられません。工場で働いている人も、商売で走りまわっている人も、自分の意識をその偉大な力に同調させて、いつもこう念じなさいーー
「わたしの中には神の無限の想像力がある。わたしは死ぬまでに、必ず何かを成し遂げよう。 わたしは神の化身であり、わたしには理性がある。わたしは、わたしの魂の力の源、神の全能の力である。わたしは実業の世界でも、思想の世界でも、学問の世界でも、何をするにも神の力を引き出して創造する。わたしは神と一体である。だから、私も創造主のように、自分の望むものは何でも実現することができる!」と。
と、まぁ、新しいとは何かと、自分の中で整理するために書いた記事ではあるが、右にくるものを左といったり、太陽であるところをライオンにするといったことではなく、この記事のように、ただ新しい真実を解き明かすことによってしか、新しい印象は与えられない。