霊的修行

悔しくて寝れない

さてさて、相変わらずボクシング漬けの日々を送っているが、いやはや、何の、やっぱり思うように上手くいかない。

前回は何だっけ? 確か反応について書いたんだっけ。そう、反応をうまく活用して、相手の攻撃してくるタイミングに反応する。あるいは攻撃しようという相手の意識の起こりに反応して……、枕を抑えるようにして攻撃する。そう、それを大事にしてみようという話だった。

相手の意識の起こりを見ようとしても、そのとき、自分の心に、こうしてやろうああしてやろうという意図があると、相手の動きが見えなくなってしまうから、自分も無心になって、ただ反応する生物となるように、反応だけする人間になるように、なってしまうという話ではあったが。

それはそんなに悪くはなかった。実際それなりに反応できた。これをやるとやらないのとでは大違いだった。 自分で攻撃を仕掛けようとして、自分の中でいろんなものを企てていくよりもずっとよかった。ぜんぶ手放して、反応だけするようにすると、相手の動きがよく見えるようになったし、避けられるになった、攻撃も当たるようになった。1ラウンドであれば追い詰められることもなくなり、相手のパンチを空を切らせられることもできるようになってきた。

反応。なぜこれをやかましく言うかというと、これがいちばん大事だと思うからである。これが人生に応用する上でいちばん重要だと思うから書いているのである。自分を無くすこと、相手を主導にすること、 けっきょく人は、自分が信じたいものを信じているだけだし、自分が話したいことを話しているだけだし、共感してもらいたいことを共感してもらいたいだけだし、何かアドバイスをしてもらいたいわけでもなく、意見を言ってもらいたいわけでもなく、判断を下されることなく、ただ話を聞いてもらいだけだ。聞いてもらいたい、というより、感じてもらいたいだけだ。共感してもらいたいだけなのだと思う。俺だってそうだ。チラシの裏でいいはずなのに、やっぱりこうしてネット上に書くのは、感じてもらいたいからだと思う。こういったことは、どこのコミュニケーション本にも書かれてあるから、この記事で詳しく書こうとは思わないけれども、だけど、ボクシングのそれと我々がふだん行っているコミュニケーションのそれは同じだと思われる。自分をなくすこと。ただ相手と一つになって相手を感じること。何かしようとして、それ以上のことをしようとするからおかしくなってしまうような気がする。

誰かと話す時でも、自分の中でこう話そう、ああ話そうとか。そういう心の中に企てがあったり、そこに判断だったり意見だったり二元的なものを設けるとなかなか上手くいかず。ただ無心で反応していると、そうしている時の方がよっぽど闊達な、思いもよらなかった、本当に自分の言いたかった言葉がタイミングよく生まれてきたりして。そういった言葉は、引き起こされるものではないかと思うのである。自分の中で蓄積させてきた感情や論理を話すよりも、そのときの無心の心によって、反応によって引き起こされる言葉の方が、真実だと思うようになってきた。

ボクシングをやろうと思ったのは、こういうところを極めたいという気持ちから来ているもので、こうして文章を書く上でも、何かをする上でも、この純粋の反応や意識を利用して書きたいと思っていて、書くだけじゃなくて、生きる上でも、普段の日常生活の精神状態においても活用させたいと思った。この情報社会を生きていると、濁ったくだらない、二元的な、名前や形や装飾や、ゴタゴタと色のついたものに左右されてばかりで、書けば書くほど、生きれば生きるほど、無色透明な力と離れていってしまうような気がして。何もしないで、部屋で無心、無心……といってたって、その無心が合ってるのかどうか、確かめられようもない。「ああ、 何かいい精神状態な気がするな」って、自分の主観的な感情に判断を頼るほかなくて、もっと実際的な形で確かめたいと思って、自分の無心が正しい方向に向かっているのか、それはやはり目に見える形、すなわちボクシングや武道の方面がいちばん良い基準になるのではないかと思ったのである。

さて、長ったらしい、くだらない難しい話はこの辺にして。それよりも、少し困った事態が起こってしまった。

例のごとく、いつもの、トレーナー兼プロボクサーとマススパーリングをやっているのだが、これがなかなかマススパーリングといっても、結構バシバシ当たってしまう、当ててくるのである。俺も始めは、マスだから、あまり当てないようにしようと思っていたけれども、向こうはバシバシ当ててくるし、俺も俺で、思いっきり腕を伸ばして打っても、なかなか当たる気配もないので、もうガンガン当てるつもりで殴ってしまってもいいかなと思うようになってきた。

事実、ガンガン本気で殴っても当たらないので、一昨日、そのプロの人に、「自分は本気で殴りにいってますが、◯◯さんには自分のパンチが当たる気配がないので、このまま本気で殴っていっても大丈夫でしょうか?」と、多少のヨイショの気持ちも込めて尋ねたら、「ああ、ぜんぜん大丈夫ですよ」と言った。だから俺は心おきなくガンガン殴って向かっていた。ヘッドギアなし。8オンスのグローブである。

そして昨日、 マススパーリングをやっていると、ジャブが相手の顔面に入ってしまった。ジャブといっても力強く大きく伸ばすパンチで、左ストレートに近かった。バン!といい音がして、相手は鼻血を出してしまった。俺はすぐに動きを止めて、頭を下げて、「すいません、当たらないと思って、あの、つい殴ってしまいました。すいま……」と言い終わらないうちに、向こうは血相を変えて、ガンガン打ち込んできた。俺はいったん動きを止めて、頭を下げて謝っている最中だというのに、何だこいつは? と思った。完全に顔色が変わってしまって、俺を殺すモードに入っていた。ああ、これはやばいなと思った。フルパワーで右ストレートを放ってくるし、ずっと、何だこれは? と思っていた。本気だと思われる右ストレートを二発顔面にもらい、俺も鼻血を出してしまった。周囲にいた人間たちも、空気が変わったことに気づいたようで、息を呑んだ様子で俺たちを見ていた。俺も恐怖で身体が硬くなってしまって、捌ききれるものでもなくなってしまった。こんなことはマススパーリングをやり始めて初めてである。

強いパンチをもらってしまったので、鼻が少し曲がってしまった。俺は痛い思いをするのはがんばれば耐えられるけれども、顔が変形することに関しては耐えられない。ナルシストだからである。 殴られている最中、鼻のことばかり気にしていた。ふつう練習生に対して、ヘッドギアなしで、8オンスのグローブで振り切るもんかねぇ?  ジャブが当たったくらいでそんなに気が動転すんじゃねーよ、気が小せぇ野郎だな、と思った。本当にうまい人っていうのは絶対に当てないものだし、自分を見失わない。いちばん悔しいことは、こんな精神性の人間になすすべなくボコボコにされたことである。本気で打ち込まれたら、攻撃を躱わせなかった。反応も糞もなかった。逃げるのに精一杯だった。やはり技術の差があると、精神性が優れていたとしても、ボコボコにされてしまうようだ、それが悔しい。精神性が優れてる? さーて、どうだか。俺だってさぁ、こうして書けば、それを読んだ人々は俺の方が正しいと思うかもしれないけど、案外それだってわかんないんだよなぁ。向こうにだって、向こうの見た世界があって、そっちの世界の方が正しいかもしれない。向こうも、「当てにきて大丈夫ですよ」と言ったけれども、自分も殴り返さないとは言ってないからな。

大体の場合、 俺が一人で思い詰めて、俺の物差しで測って、そして俺が間違っていたなんてことは、いつもよくある話で。今回だってそうかもしれない。相手の方がちゃんとみんなと仲良くしているし、ちゃんと会話して、ちゃんと空気に溶け込んで。俺よりよっぽどちゃんとした常識人なのだ。こうして書けば俺の方が正しいように思うかもしれないけれども、たいてい後になって答え合わせをしてみると、俺の方が間違っていた、なんて事ばかりだ。しかし恐ろしいことに、こうやって記事を書くと、なぜか分からないけれど、本人に届いてしまうことがあるのだ。絶対にバレないだろうと思って、過去の記事だって、この記事だって、たいして書きたいわけじゃないんだけど、書くこともないから、なんとなく更新のつなぎとして、そのときの目の前にある気持ちを何となく書くのだが、なぜか本人に記事を見られてしまうことがあるんだよなぁ。そんな失敗を何度も繰り返してきたのに、俺は今こうして書いている。ボクシングジムで、俺のブログを読んでる人はいないと思うけども、届いてしまうんだよなぁ。だから書くつもりもなかったんだけど、思い詰めているようで別に大した事でもないと思っているし、なぜ書いているかわからないんだけど。まぁ更新の繋ぎだと思ってくれ。

そしてそのラウンドが終わった後に、「どうします? 当てるんであれば、ヘッドギアなしだと危ないと思いますけど?」と言ってきた。俺は、「いや、あの、当てるつもりはなかったんですけど、すいません」と言ったら、「そっちが当ててきたから、こっちも当てたんですけど?」と言ってきた。「はぁ、すみません。 〇〇さんなら、当たらないと思って、本気で当てにいっていました。まさか、当たるとは思わなくて(笑)」と、俺はヘラヘラしながら答えた。「次(次のラウンド)はどうします? 当てますか? それとも寸止めにしますか?」「寸止めでよろしくお願いします」と、格闘家らしくない、くだらないやり取りをした。

昨日話したばっかりじゃねーか! 昨日、本気で当てにきても大丈夫ですよって言ったから、当てにいったのに、当たるとこれかよ! 心底めんどくせえなと思った。そして、このスパーリングを見ていた別のプロの人が、「ちょっと距離近かったね。危ないねー」と心配そうに声をかけてきた。そして、その日はそれで取りやめになった。なんとも不穏な空気を残して終わってしまった。

俺は確かに、一昨日、「当たらないと思うので振り切ってしまって大丈夫ですか?」と確認を取って、向こうも「大丈夫ですよ」と言ったので大丈夫だと思ったんだけど、頭を下げて謝っているというのに、その最中に殴りかかってくるのはアホだと思った。やはり向こうはプロといえ、まだ20歳の子供である。たとえ何があったとしても、練習生、自分より下の者、門下生の者に対して、怪我をさせるということはあってはならない。そういう目的でやるスパーリングは結構だけどね。俺だったら絶対に下の者に対して怪我などさせない。顔面に打ち込まれて鼻血を出したとしても、それでも俺は絶対に当てない。いちばん悔しいのは、この程度の精神性の人間にボコボコにされてしまったことだ。相手の変わりようにビビってしまって、身体が強張り付いて、俺も俺で自分を見失ってしまったことだ。もう逃げるのに必死で、反応も糞もない。半分心がくじけてしまっていた。そんな自分が本当に情けなかった。

そして先ほども言った通り、関係性も悪くなってしまった。次マススパーリングを誘いづらいし、心なしか、相手も、他の人と話す時は楽しそうに話しているけれども、俺と話す時はなんだかちょっと距離を置くようになった気がする。こういうところなんだよね。やっぱり習い事といえども、人が集まる場所だから、共通の趣味によって集まる場所だろうがなんだろうが、結局は人間関係なんだなと思った。人間関係をちゃんと構築して、こういう事態が起こらないように、ちゃんと悪い芽を摘んでおいて、準備したり、用意周到にして、悪いことが起きた後もちゃんと謝らないと、自分のやりたいこともできなくなってしまう。俺としては、事前に当ててもいいですか?と言って準備をしたり、ちゃんと謝ったり、やる事はやったつもりだけど、それでも空気が悪くなってしまった。俺もその気になって、本気で打ち返しようものなら、それこそ関係は修復できないほど悪化したと思う。

習い事といっても、やっぱり他人がいてくれるから成り立つわけで、自分より上手い人がいて、先達がいて、その人に教われるから進歩していけるわけで、その人との関係が悪くなってしまったら、前進することもできなくなってしまう。人間関係が悪くなると、いろんな歯車が噛み合わなくなってきて、すべてから放っぽり出されて、何もうまくいかなくなってしまう。そして気のせいかもしれないが、俺は誰かとマススパーリングをやるとき、けっこう強めに当てられることが多い気がする。なんとなく、俺は殴りやすいというか、こいつは殴ってもいいだろうみたいな雰囲気が俺から出ているんじゃないかと思う。会社員として働いていた時も、俺は他の人より怒られやすいところがあった。それはおそらくコミニケーションが欠けているからだと思う。みんな練習の手を止めて楽しく談話をしていたりする時間があるけれども、俺はいつもそういう時間も一人でサンドバッグを打っている。ちゃんと丁寧に挨拶して笑顔で応対するけれども、二言三言だけ話して、それ以上の話はあまりしないし、自分でそれでいいと思っている。その割り切りのよさが、こいつは殴ってもいいんだということに繋がっている気がする。こいつはボクシングをやりにきてボクシングをやって帰っていくだけと思われているらしく、ふだん談笑する相手には本気で殴りづらいところもあるかもしれないが、もともと関係性がそんなには良くないから、あるいは悪くなってしまっても構わないから、そういう相手には、けっこう強めに殴れてしまえるのかもしれないと思った。別にいいんだけどね。

せっかくこんなに楽しい場所を見つけて、毎日殴り合ってくれる人を見つけたというのに、なんともこの空気は耐え難い。まぁ考えてるのは俺だけかもしれないけどね。 向こうは、俺の10倍殴ってスッキリしたかもしれないし、俺と違って、家に着いた後に思い返して、ああ悪かったなとか思うことはなさそうな人である。じっさい、あの後、「鼻血を出させてしまってすいませんでした」とその人に言ったら、「ああ、いいっすよ」と何事もなかったように答えて、その後も、楽しそうに他の人と会話していた。この時、ああなるほど、こんなことはボクシングやってりゃ当たり前に起こることかもしれないと思った。俺がデリケートすぎるのか、こんなデリケートな人間は格闘技に向かないかもね。ちょっと殴られてブーブー言うくらいだったら、格闘技なんかやめてしまった方がいいだろう。これまで通り、大人しくタリーズに行ってコーヒーを飲みながらMacBook Proを開いて、プロボクサーの文句をネットにあげている方が俺らしいかもしれない。

しかし、俺だって心の奥底ではデリケートじゃないところもある。100倍にして返してやりたい。100倍にボコボコにしてやりたいが、そのボコボコっていうのは、タコ殴りにするんじゃなくて、100倍にして相手の動きを見切ってやることだ。 相手の攻撃、動きをすべて封じ込めて、自由にどんな攻撃も交わし、平常心で、心が動かず、自由自在にリングの上で好き放題できるようになって、100倍自由になってやることだ。

しかしその道も険しい。豹変した相手と戦ってみて、あーやっぱり遠いなと思った。ある程度相手の動きが見れるようになってきたかなぁと思って、1ラウンドくらいは逃げ切れるようになってきたし、そろそろ攻撃していけるかなぁと思っていたけれども、今回のように、 全力で殺すモードで向かって来られた時は、なすすべもなくボコボコにされてしまった。なかなかそれがどうも、反応をフル活用して、 相手の攻撃しようという気持ちに合わせて反応しようとしても、もうとにかく逃げるだけで精一杯だった。そして逃げに完全に徹していたにもかかわらず、顔面に右ストレートを二発もらってしまった。逃げに完全に徹しているにもかかわらず、もらってしまうようであれば、どこにも逃げ場はない。とりあえずこうしておけば逃げ切れるだろうという安心できるものがなければ、なかなか不安が拭えない。俺は反応によって回避できると思っていたのだけど、それが通用しないことがわかってしまった。さて、これからどうしようと思っている次第である。

これは 一朝一夕で解決できるものとは思えない。すべてのパンチを完璧に捌こうと思うのは無理な話かなぁと思ったりするけれども、しかし、この92歳の達人の動画を見てみると、こんなにうまく躱わしている。世界チャンピオン相手に、距離がスレスレならともかく、ここまで距離を離して躱わして当たらないと思わせることは、とんでもない実力差だと思う。何かあるはずだと思う。反応と言えば反応かもしれないけれども、詰められて、ポジションをとられて、そうなると反応で避けられるものではないから、何かまた別の見なきゃいけないものがあると思うのだが、それがなかなかどうして、わからずにいるところである。

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