霊的修行 コミュニケーション

反応する練習

さて、例の如くボクシング漬けの日々を送っている。この一ヶ月、ほとんど毎日ジムに行って、毎日プロとスパーリングして(マスボクシングだけどねw でも結構本気でぶつけてくる)刺激的な日々を送っている。しかし相変わらずボコボコにされている。

いったいどこを心の拠り所にして挑めばいいのだろう? その出発点すらわからない日々が続いている。反省を繰り返し、その度にこれだ!と思うものを持ち込んで向かうが、いざ手合わせを始めると、瞬く間に拠り所にしたものが崩される。何でも物事には、ここをこうしておけば大丈夫というコツがあり、それがシンプルで簡単で明確であるほど、そこに心を放り投げてしまえばいいと俺は考えている。今までのどんな物事もそうして解決してきたから、早くそこにありつきたい。ボクシングにおけるそれも、人生におけるそれも同じだと思っている。考えすぎて、複雑に捉えてしまい、あたふたしてばかりの人生の前半だったから、宗教の道に入った。世間一般でいう座右の銘を指しているわけではない。科学的な意味合いにおいて、精神を完全にするということだ。

何度も実践して、負けて、段階を経るごとに成長が見られれば納得がつくのだけど、残念なことにほとんど成長が見られていない。マスをやるときは必ず課題を持ち込んで臨むので、それで上手くいかないと、それだと上手くいかないという情報だけは蓄積されていくので、その意味では成長かもしれないが。毎回同じように攻められ続けてコテンパンにされる。追い詰められて無呼吸状態が続くので、1ラウンドが終わったところで滝のような汗が出て、体力を全て使い果たしてしまい、2ラウンド目には、ジャブもステップも何かをする体力が残らないので、ただ突っ立ってコテンパンにされるだけになってしまう。こんな日々が続くと、ああやっぱり無理なのか、到底プロには敵わない、もうやめてしまおうかなと思わなくもないけど、落胆して家に帰って置き畳の上で寝転がっていると、なぜかいつもこのタイミングで妙案が浮かぶ。なんとなく再生させている動画にヒントに出会う。これだ! これさえわかればなんてことない! 俺が探していたのはこれだったのだ! もう次は負けないぞ! という妙案に出会うのだ。いつも、この妙案が原動力になっている。これはいったいどこからくるのだろう? 俺が得ているのでないと思う。次に向かう武器として天から与えられるのだと思う。挑戦して失敗して妙案が浮かんで、の繰り返しだが、この過程がすべてなのかもしれない。「神はあなたに成功してほしいと思っているわけではないの。ただ挑戦してほしいと思っているだけなのよ」というマザーテレサの言葉を、いつもこのタイミングで思い出す。何が、何の目的で、我々はいつもこんな過程を、こんなゲームをさせられているのか分からないが、やっているのではなくてやらされているような気がするのである。いや、やっぱり、自分が望んでやっているのだろうか? 我々は自由のもとに生まれて、ずっと自由だった。生まれたことも死んだこともなかった、深い深い闇の中で、黒すらもない、地球もない宇宙もない、時間も空間もない、自由しかない場所で、一秒より短く、一億光年より長い時間を過ごし、不自由を経験したくてこの地上にやってきた。自由もまた対比でしかないから、自由の女神があえてフリギア帽を着脱するかのようなお遊びを体験したくて、この地上にやってきたのか。どうせまた自由になるのだから、今は肉体という檻の中で戯れようというわけか。

で、いつも妙案に出会って、妙案が支えてくれるので、妙案を試すために次の日にマスをするわけだが、なかなかどうして妙案が役に立ってくれない。例えば、ボクシング中継など、外からリング内の戦いを眺めているだけだと、前に突き出しているグローブの中の手はグーなのかパーなのかわからず、あの前に出している手は、全部ジャブなのかと思って、俺は相手に近づけさせないように、ヒュイヒュイと前の手を出していたけど、突進してくる相手を抑えられるものではなかった。これのせいで、何度も相手に懐に潜り込まれて、そこからラッシュを叩き込まれた。これをどうしようかと思っている時に、ああそうだ、前に出ている手で相手を抑えつければいいんだ、と、ヒュンヒュン手を出すだけじゃないんだと気づいた。これがグローブ越しの、外から見ている分にはわからなかったのだ。俺の方が手が長いんだから、手で抑え付けてスペースを作って殴りつけようと思って、それを試してみたり……、

あるいは、足が揃ってしまうと何もできなくなってしまうから、じゃあ基本の姿勢を維持していよう。基本姿勢で自分の体重が乗るパンチを放てるポジションだけを維持しようとして、打つとか交わすとか考えず、ポジションだけを優位になるように考えようとしたり……、

前の手で壁を作る

姿勢

反応

三つどころではない。まぁこれらの妙案が、この一ヶ月でたくさんあったけど、今が「反応」である。反応が鍵のような気がしている。おそらく、この流れでいくと、今回天からいただいた妙案である、「反応」で向かっていっても、またボコボコにされるんじゃないかと思ってしまわなくもないが、また妙案が浮かんでの繰り返しでしかなく、いずれ本当に辿り着く日が来るまでこれが続くんじゃないかと思っているが、「反応」しかない気がする! ぜったいに反応だ。反応を完全にすれば、今回はいけそう気がする!自分の気持ちで向かっていって攻撃を試みようとすると、死に体になる。相手が攻撃してくる時の自分がビクッとなる時にしか、攻撃のタイミングはないように思う。相手が攻撃しようとする時、その意識に自分の意識を被せるようにする。山岡鉄舟の「剣禅話」には、そこにしか斬りかかる機はなく、それ以外の攻撃によって勝ちを得たとしても、勝利とは無関係であると書かれてある。

「剣法の正伝に関して、これこそ極意だというものを考えてみても、そこに特別の法があるわけではなく、つまりは敵の好むようにしていって勝ちを得るところに極意があるのだ。敵の好むところとは何か。二つの剣が相対すれば、そこには必ず相手を打とうとする気持ちが起こる。そこで、自分の身体を全て敵に任せてしまうのだ。そして、敵の好む瞬間が来るのを待って、相手に勝つ。これが本当の勝ちである。例えば、箱の中にある品物を取り出すとしよう。まず蓋を取り、それから箱の中をよく調べて、品物が何であるかを知るようなものだ。これはつまり、自然の勝ちなのであり、その他に特別のほうはありえないわけである。」山岡鉄舟

「 自然の勝ちとは敵の節を打つことである。鷹がいろいろの鳥を捕まえるときに必ず鳥の節を狙う。剣術でも同じである。節に当たらなければ勝っても勝ちとは言えない。節に当たれば、百戦して百勝できることを疑いなしだ。」山岡鉄舟

「避けようと思った時には避けているし、打とうと思った時に打っている」というのは、長濱陸さんの言葉だが、長濱さんのこの動画を見て、俺が探していたものが見つかった気がした。

単純にボクシングの動画を漁っていたら長濱さんの動画が見つかって、あれ?どっかで見た名前だなぁと思って、少し前に読者さんから紹介されていたことに気づいた。この偶然はなんだろうと思った。基本的に人のアドバイスを無視してしまうというか、頭に入ってこないタチではあるけれども、このように神が他人を通して教えてくれることもあるから、もう少し注意を広げていく必要があると思った。

反応で打つ時は、相手にバレない。何よりも速い純粋な一拍子となり、気づきより先に当たっているのだから(あるいは気づきと同時に当たっている)、ある意味ラッキーパンチとも言えなくない。狙ってラッキーパンチを出しているとも言える。もしこれを人生に応用することができたならば、人生もまたラッキーパンチの連続ということになるだろう。これは防御の時に使えるものだとはなんとなく気づいていたけど、攻撃に転じさせる方法が分からなかった。反応であれば、単純に打とうという気配が読まれないばかりか、相手の動きの中に自分の動きを忍ばせることができてしまう。頭を白紙にして、相手が攻撃してくる時、あるいは攻撃しようとする意識の起こりの中に、それを上書きするかのように自分の意識をおいて攻撃する、それが先を取るということだと思う。身体はすでに答えを知っている。反応は空白が多い方が有効に働く、だから、どちらが無に近いかを競っているでしかない。そこには何もない、努めるのはただ頭を白紙にし続けることだ。次のマスは一切攻撃することなく、ただ反応だけし続けてみようと思う。相手の打とうとする気の中に、反応させて、自分の攻撃を当てる、それしかないのだと思う。

そういう視点でボクシングの試合の動画を見ていたら、上手い人ほどそうやっていることがわかった。メイウェザーなんか特にそう。 朝倉未来も「反応しかない。反応の応酬でしかないと、それに気づくのに5年かかった」と武井壮との対談で語っている。

動きに対してただ反応するだけ

これは天心vsメイウェザーの時も天心が言っていましたね

「ちょっと動いただけでもぴくって反応してくる」って

反応することはやはり大事なんだと思います!

武道の観点から見ても、「反応」について、達人が詳しく解説してくれている。

文章もまた同じではないだろうか。文章にも死に体と生き体があり、生まれる文章と作る文章がある。自然に生まれる文章が反応だとしたら、目に見えない重圧を押し分けるようにして書いていく文章は死に体である。それは何時間粘っても日に数行しか書けないばかりでなく、書き上げたところでデカいガラクタが出来上がるだけである。文章は身体で書くと保坂和志さんが言っていたように、ボクシングも文章も同じだろう。何を書いて何を書かないかは、どのパンチを打ってどのパンチを打たないかに似ているし、手を出さずに向かい合っている状態は、文章における行間を意味しているとも言えそうだ。一説では神は行間に宿ると言われている。外に現れるものは内面の結果でしかない。その逆はない。

反応で生きるとはどういうことか、反応で書くとはどういうことか、「反応しない練習」という本がバカ売れした記憶は久しい。別に俺には目標も何もない、ただ神との合一を試みているだけである。自分の人生を決定的なものにしようとして、決定的なものを企てて、ゴールから逆算するように行動を試み、その種の努力をしてきたが、どうもそれだと全てがうまくいかなかった。なぜだろう? やはり、反応だからだと思う。今、このボクシングの努力は反応でしかない。努力しているわけではない。やりたいからやっているわけではない。頭では、もっと金になりそうなことをやった方がいいとはわかっているけど、ボクシングを完全にすること、反応を完全にすることの方が重要な気がしてならないからやっているだけだ。やることもやりたいことも自分の頭で考えないで、ただ静かにしていて反応に任せてみようと思う。起こることは起こるに任せ、起こることは起こるのだから、俺はただそれを見ていようと思う。自分の試みで行くとボコボコにされることは、ボクシングでも人生でも嫌というほど味わった。もし、「今を生きる」というものが悟りなのであれば、ただ静かにしていて、起こることを眺めていることをいうのではないか。自分の動き、反応の動き、二種がある。反応は神の動きであり、人生もまた反応に落とし込むことが可能ではないだろうか。

と言いつつも……。まるですべての問題を打破したような物言いになっているが(いつものことだけどねw)、現状はプロにボコボコにされている最中である。そして、まだこの「反応」を試せていない(笑)この考えが正しいかどうか答え合わせはできていない状況だ。これでダメだったらもう知らん(笑)銃を持ってジムに行ってプロを全員撃ちまくるしかない、不貞腐れて、寝て、次の妙案がやってくるのを待つだけだ。これから仕事の都合で実家に帰るのと、友人とキャッチボールする予定や、網戸を買って、実家の網戸の交換の仕方も調べなきゃならんし、利用者さんが使っている古時計の修理と、利用者さんのスマホの契約などがあって、月曜日はジムが休みだから、次にジムに行けるのは最短で来週の火曜日になる。

こんなことをしたって、今さら世界チャンピオンになれるわけでもないし、仕事や金や女が手に入るわけでもない。むしろ律儀に月謝を払っている立場だ。心拍数を速め、頭を打たれ、寿命と脳細胞を減らしているだけに思えなくもないが、ジムに行くのが楽しくて仕方ない。あっというまに時間が過ぎていく。家に帰ってきた後でも、YouTubeでボクシング動画や解説動画を見たり、ほとんどの時間をプロと戦っている様を夢想している。マスの後は足がガクガクになるので、夜中は走り込みをやって、ケンケンジャンプや四股もやっている。マスの後、これは一体どこの部位が疲弊してガクガクになるのだろうと思って、ちょうど同じ状態になるような運動を狙って試しみたところ、ケンケンジャンプをしているときに同じようになった。だからボクサーは縄跳びをするのかなと思った。単純にリズムの養成だけではないらしい。そのため、余計に負荷がかかるように、片足でケンケンジャンプをしたりしている。

しかし、宮本武蔵の五輪の書には、「あくまで狙って斬らなければならない」と書かれてある。これは忠告だろうか? これは、無想とか、無想剣とか言われている他の流派の行き着いた境地の不完全さを揶揄する試みで記したと思われるが、俺が今やろうとしていることもそれに含まれるだろうか? 反応を、狙って反応を引き出して、当てることができれば、狙っているとは言えそうだが。ちょうど相手の意識の起こりに合わせて攻撃することは狙った反応と言えるだろうか? まぁ、まだちょっとわかんねぇなあ。ちょっと? ちょっとじゃねぇなぁ。わかんないことばっかりだ。そこらのプロにボコボコにされている分際で言っても……ねぇ? まぁ、こうして毎日殴り合いに付き合ってくれる人がいることは嬉しい。働かない村をやることになったら、大ちゃんと楽しくキャッチボールしたりマスごっこに毎日付き合ってもらう気でいるが、その時を楽しみにしている。

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