霊的修行

プロを全員ボコボコにする

部屋でじっとしているというのも悪くないが、やはり実践で修行の成果を確かめたくなる。

部屋でじっとしているだけで、自分が強くなっているのか、弱くなっているのか、確かめようと思ってボクシングジムに入門した。最近はボクシングばかりやっている。

ボクシングは大学の頃にやっていたけど、大学を卒業してからジムはやめて、それからは10数年間、せいぜい一人でシャドーをやるくらいだった。しかし、ボクシングはもともと二人でやるものだから、一人でシャドーをしていてもたかがしれている。

サンドバッグを打ってみせたら、「うまいですね!」と、トレーナーに褒められた。会長にも褒められた。このジムに決めるまで、いろんなジムに体験に行ったが、サンドバッグを打つとどこでも褒められた。パンチは体重さえ伝えられればよくて、脱力して、体幹から生まれた力を伝えることさえできればいい。単に体重を伝える技術である。これは剣道だろうがテニスだろうがボール投げだろうが、全てのスポーツに言えることだ。全てのスポーツは体重の操作の技術でしかない。

普段から原始的な部分に注目して生きているせいか、物事の本質を見極めるのは人より長けているようで、サンドバッグ打ちに関しては、大学時代にちょっと練習しただけでわかってしまった。ブロガーに求められる点もここではないだろうか? せいぜい、この、嘘が蔓延る世界で、周りより少しでもマトモであること。ゴーギャンの言うように、いつだって間違っているのは世間であるから、物事の本質を正しく見極めて発信することが優れたブロガーである。

体重操作に関しては一人で練習してきて、ボール投げだったり、テニスの壁打ちだったり、いろんなスポーツを通じて連関させたものが、俺の中では形になってきている。しかし問題は対人である。山岡鉄舟は、剣道を十数年やっている者が未だに身体の使い方について心を費やすことは恥ずべきであり、もっと見なければならないものを見なければならない、と言っていたが。そして山岡鉄舟は、剣の奥義とは、ちょうど箱の中身を明らかにすることであると言っている。俺は部屋で一人で箱の中身について考えていても、ティッシュケースの中のティッシュ程度にしかわからないところがあった。やはり対人を通してでしか学べないものがある。相手の意識の起こり、相手が攻撃してきたときに、反応する感覚や、動いている、あるいは止まっている相手にちゃんと攻撃を当てることや、この見えない部分の駆け引きを完全なものにしたいと思った。それは体重伝達よりもっと大事なことである。 文章を通じて、この方面の勉強をしているけれども、やはり文章はどうしても曖昧で、進捗がわからないところがあるから、スポーツのような目に見える形ではっきりさせたかった。だから俺がジムに入門した目的はもっぱらスパーリングにあった。

一時間くらいサンドバックを打っても、それほど疲れるということはなかった。この際だから、限界まで体力を尽くしてやろうと思った。もう指一本も動かせない、というところまで生活の中でなることはないから、夏だし、中途半端に汗をかくより、全力でかききりたいと思った。しかし、息が激しく乱れるような運動は良くないらしい。人間が呼吸できる数は決まっているらしく、激しく呼吸をすればするほど寿命を縮めるというのはよく耳にする話である。これに関しては、ヨガナンダ先生も肥田先生もパパジも、 第一級の人たちは口を揃えて言っている。これは運動だけを意味するものでもなく、昨日読んだ老子の本にも、「無理をすれば寿命が縮まる」とあった。 貝原の本にも、同様なことが書かれてある。「例えば科挙などの難しい試験のために、凄まじい努力をした青年は、それで精魂が尽き果ててしまい、人生の後半にはエネルギーが残らず、凡俗に終わってしまう」と。

無理をしなければならないこともあるが、無理をするというのも一種の甘えのような気がする。刮目しなければならないならない場所は、無理から遠い部分にあり、それを怠ると無理をせざるを得ない状況に追い込まれるような気がする。俺だってヤマトの軽貨物ドライバーを1日に200個ぐらい配達して、それを週に5、6日もやれば、25,000円くらい日給を稼げると思う。そうすれば、月給50万とか60万とか手に入るかもしれないが、やろうと思えばいつだってできるが、あえてやらないようにしているのだ。

俺はいつもエネルギーを温存している。いつも休んでばかりいるから、どんなことにも対応できる自信がある。合コンの誘いがあればいつだって行くし、ボクシングだろうが剣道だろうが恋愛だろうがなんでもござれだ。週5日で働いている友人たちを見ると、一日くらいだったら代わりに働いてあげたくなるくらいだ。ボクシングだとか剣道だとか、テニスの壁打ちをしているとかいうと、すごい活動的だねとたいへん驚かれるが、 俺から言わせれば、週に5日働いていることの方が驚いてしまうし、活動的に思う。彼らから、「俺たちは仕事でそれどころじゃないよ……」と苦笑されるのが常だが、おそらく読者の皆さんも、愛だの恋だの瞑想だの神だのボクシングだの、俺がブログで話したところで、「俺たちは明日も仕事だからそれどころじゃないよ」と苦笑することだろう。じっさい、「修行する時間があることが羨ましい」と言われることも少なくない。 あらゆる制約を取り払って、精神修行だけをやっていられたらどれだけ幸せだろう! と、夢見ている人は、いることはいるのだ。

いちばん静かにしていて、いちばんゴロゴロしていて、いちばんエネルギーを温存している状態で、さて、今日は何をやろうと思って、毎日生きているわけだが、ボクシングをやりたいなと思った。剣道もやりたいと思った。そして野球サークルなるものにも入りたいと思っている。日中暇なときに連絡を取り合ってキャッチボールする会らしきものもあり、それにも興味がある。こうして書いてみると運動ばかりだ。「この世は行動の星」という斎藤一人さんの言葉がよくついてまわる。 我々は行動するために生まれてきた、行動だけが真実、やりたいと思ったことは全部やれ! やっぱり、思ったことはなんでもやるのがいいのか? しかし、いまいち俺は、行動することがいいことか悪いことか未だにわかっていない。老子やマルクスアントニヌスは、何も行動する必要はない、己の心に、不動を見出しなさいという。 どちらかと言うと、あれこれ行動したり、旅をしたり、外側のものから何かを見いだすと言うよりも、いつだって自分の内側に俺が求めているものはあると思っている。 今だって、自分の中に余計なものを自分で作り出しさえしなければ、すぐに俺は答えにたどり着くのだ。

こうして、ボクシングをやって、剣道をやって、ボールを投げて、一生懸命に汗かいて、指一本動かなくなるほど体力を消費して、それについて溌剌とした気分と、同時に一抹の後悔を感じる。時空において正しい運動をしているのか? 正しい精神活動をしているのか? 正しい時間の使い方をしているのか? やはり、肉体も精神も、中心の中心、核なる核を練り上げることが真実ではないのか? わからないけれども、わかるまでやればいいし、それが真実である以上は、わかるために、その方面に専念しなければならないのではないか? できれば、俺だって、肥田先生のように、人間の身体と精神の中心一点を鍛えて、 それを完全にしたい。この研究を進めれば、西洋文化のボクシングだろうが、スポーツ化された剣道だろうが、応用できるはずである。応用できなければ嘘である。じっさいに肥田先生は立派に応用してみせた。大学時代、剣道部に在籍した頃は、一突きしただけで相手を5mほど吹っ飛ばし、柔道においては、師範がどんなに肥田先生を動かそうとしても、肥田先生が姿勢を決めたら、どんなに押してもピクリとも動かせなかったそうである。学校のマラソン大会では、 2位を一周遅れにさせて1位になったという。 そっかぁ。肥田先生は大学生の頃にはもうそんなことができたのかぁ。俺は人よりちょっと運動が得意なだけだ。 本当に身体の正中心を鍛えるだけで、それを応用するだけでそんなことができてしまえるのだからすごいことだ。俺はまだまださっぱりわからない。

脳も身体だから、正中心を鍛えることによって脳も強化され、授業を一つ聞いただけで全部暗記できるようになってしまったというから、やはりここに答えがあると思っている。それが真実である以上、その道を進むとして。だが、対人練習というと困ってしまう。山岡鉄舟のいう、『箱の中身を見る』ということは、対人がないと始まらない。

で、プロとスパーリングをやったらコテンパンにされてしまった。

リングに上がって、もう、初めて相対した時から、(ああ、これは負けるな)とわかった。体重は同じくらいだったけど、身長差はかなりあって、俺が178㎝で相手は168㎝くらいだった。このプロの相手は、兼トレーナーであり、 先ほど俺のサンドバッグ打ちを褒めてくれた人である。歳はまだ20歳で、頭髪は緑色である。俺は入門してから3日か4日ぐらい、彼にずっとつきっきりで面倒を見てもらっている。毎日ミット打ちをしてもらっている。20歳にしてはやたらと落ち着いている。

びっくりした。プロがこんなに強いと思わなかった。 俺は本気でプロをボコボコにできるつもりでいた。 プロのパンチを全て見切って、1ラウンドはすべて避けきったところで、2ラウンド目にボコボコにするつもりでいた。しかし、反対にボコボコにされてしまった。

なぜこんなことになったのだろう?

・簡単に懐に潜り込まれた

・スタミナがもたなかった

・グローブを前にだ抑えつける

体重を伝えるジャブは会得しているつもりだったので、重いジャブを頻回に与えてやれば、それだけでダメージを与えられ、優位に運べるように思っていたが、そうはいかなかった。今回はマススパーリング(軽く当てる程度のスパーリング)だったので、せいぜい牽制のようなジャブしか打てなかったのも原因として大きいが、もっと打ち込んでいい条件だったら、間違いなく俺の方が不利に働いていたと思う。

そのため手を抜いたジャブしか打てないから、相手もなめてかかって踏み込んできた。しかし、実際には当たらなくても、入るときは入ったとわかる。ちょうどタイミングあって、ピタッとこちらのパンチが入った時は、相手の動きも止まる。ああ、当たったなと、お互いにそれはわかるから、そういう意味で、ちゃんと当たったパンチをカウントしていた。カウントできたのはたった一つだけで、ボディジャブ一つだけだった(悲)このボディジャブだけは相手の虚を打つことができた。2ラウンドスパーリングをやったけど、有効打はその一発だけだった(悲)

止まった状態で打ち合うのは好きではなく、踏み込んで攻撃するぐらいの距離をとって戦っていた。そのため、だいぶ距離をとって、左に旋回していたが、相手は真ん中に立ってグルグルしているだけで、俺だけが一生懸命に左に旋回していたので、それだけで疲れてしまった。なぜだろう? サンドバッグはさっきまで一時間以上打っていても疲れなかったのに、スパーリングだと数十秒くらい左に回っているだけで、異様に疲れた。そして疲れて集中力が切れたところに打ち込まれた。相手はボディワークはほとんどせず、避けたり交わしたりすることなく、グローブを前に突き出していなすことばかりやっていた。あれはおそらく体力の温存も兼ねていると思う。いいやり方だなと思って、すぐに俺も真似してみた。そしたら二人で両手を突き出し合って、二人で壁のパントマイムをやっている格好になった。しかし、これによって最小限にパンチを外すことができて、たったこれだけで精神的に楽になって、相手の動きが見えるようになった。ああ……。ここで思ったことは、精神練磨するよりも、スポーツ上の効率的な動きを覚えた方が、相手の動きをよく見えることにつながるのだなという悲しい理論だった。

友達とスパーリングごっこをするとき、相手の動きはぜんぶ見えて、自由に動けたけど、プロだと全然そういう風にはならなかった。逆に見破られている気がした。相手が止まっている時ですら、次の動きの予想も、何も見えなかった。逆に止まってられると恐怖を感じた。むしろ俺の方が動きを全部把握され、見破られているような感じだった。この人はいつでも俺を好きに倒せるんだということがわかって悲しかった。このプロ兼トレーナーとは、ふだんよく会話をするけれども、殴り合っている時の方がずっと本気で会話しているような感じがした。

なんとなく、俺の中ではこうすればパンチは当たるだろう、こうすれば避けられるだろうという理論が(理論というより感覚が)、頭の中でできあがっており、それを絶対的に信頼していた。ジムに行かなくても、ほぼ15年間ずっとそれを頭の中で作り上げてきて、それはプロに通用すると思った。しかし、やってみると想像と全然違った。もっと相手のことがわかると思ったし、相手の意識の起こりや揺らぎをもっと感じ取れるつもりでいたけれども、岩を相手にしているようで、相手のことが全然わからなかった。山岡鉄舟のいう、『箱の中身を明らかにすること』 それは普段の生活面からも育成が可能で、ある程度のところまで来たと俺は思っていたのだけれども、やっぱり実施面は実施面の中でしか育まれないものがあるのだという当たり前のことを気づかされた。マッチングアプリでも、前よりいい男になったと思って女の子と会ってみたところでも、前に抱いた同じ思いを抱いて終わる結果になってしまうものだし、自分一人の中で計画したものと、じっさいに現場の中で感じるものと、雲泥の差があるものだ。そんなことを100回も200回もやってきたけれども、恋でも、ボクシングでも、宗教でも、ブログでも、同じことを繰り返ししまう。

たくさん殴られて、目を覚まさせてくれてありがたかった。本当に遠い。こりゃ勝てんわと思った。これは、恐ろしいほどの差があった。2ラウンド目なんて、疲れていて立っているだけで精一杯で、あとはもう好きに殴られるだけだった。まだ20歳くらいで若いから血気盛んで、「どうします? もう1ラウンド行きます?」と気色悪いニヤニヤした笑みを浮かべながら、楽しそうに聞いてきやがった。絶対に殺してやると思った。

目の前に相手が対峙していて、この瞬間は踏み込んだ方がいいとか、打ち込んだほうがいいとか、今は打たないほうがいいとか、今は少し左に旋回して様子を見たほうがいいとか、すべて身体が情報を教えてくれて、それらの情報が一つに集約された一点なるものがあって、 サンドバックを打つときは、なんとなくそれがわかるけれども、スパーリングとなってみるとわからなくなってしまった。友達と殴り合いごっこをしている時はわかる気がするから、相対的な問題なのか? 相対的でいうなら、文章はどうだろう? 俺はこうして文章を書く時も、何を書くべきか書かないべきか、それを一点の感覚にすべて任せている。この一点が見えないことには何も始まらないのだ。

頭を白紙にして、その時訴えてくる身体の情報だけを信じれば、まず悩みなんて起こらないだろうと思っていたが。相手は何も動かずただ俺の方を見ていた。そして俺も相手の方を見ていて、ずっとお見合い状態が続き、最初の1分くらいはどちらもパンチを出さず、ただお見合いしていた。あんまりこの時間が続くので、その緊張に耐えられなくて、自分からつい申し訳程度にパンチをしてしまうところがあった。出会い系に似てるなと思った。マッチングアプリでもそうだ。やっぱり無言が続くと苦しくなってくるから、それに耐えられなくて、ついジャブ程度に適当な質問をしてしまう。いくら一人の中で理論を完成させても、やっぱり現場に出ると、その時に流れている空気に従わされる羽目になってしまう。

スパーリングが終わった後、「ここをこうしたほうがいいとかありますか?」と聞いたら、「うーーーん」と非常に困った顔をされた。「うーん……。そんなに急に強くなるようなことはないからなぁ……」と苦笑しながら言われた。「基本的な打ち方はしっかりしているから、後はもっと捨てパンチを増やしたりだとか、たまにぜんぜん逆の動きをしてみるとか、引き出しを増やしていって、相手の予想外のことをしていかないと、当たらないと思いますね」と言われた。まぁ確かにそうだと思った。今の自分の手持ちのものだけだと、当たる当たらないの前に、殴る前からあーこれは当たらないなっていうのがわかってしまっていた。

「あと、何を目指しているかによりますね」と言って笑われた。 まぁ確かにそうだろう。37歳の男が急にボクシングジムにやってきて、急にスパーリングを挑んできて、ボコボコにされて、どうしたらいいですか? と聞いてこられても、(こいつは何を目指しているんだ?)としか思えないだろう。もちろん何を目指してるかと言ったら、このジムのプロを全員ボコボコにすることである。もちろん、手始め目にこの男をボコボコにしてやろうと思っている。今回は負けたけれども、あと30回くらいやれば倒せると思っている。今はひたすらボクシングの動画を見たり、この男との戦闘を脳内シミュレーションして、どうやって倒せるかそればかり考えていて、飯も喉を通らないほどである。 少なくとも、今はこの男を倒すこと以外は考えていない。37歳の変な男に目をつけられて、彼にとってはいい迷惑だろう。

多分こんなことになるだろうなと思っていたから、あまり落胆はしていない。あと30回ぐらいやれば、勝てるようになると思う。 そう思いながら、「ちなみに坂田さんはこれまで何回くらいスパーリングしたことありますか?」と聞いたら、「えー!? 何回……!? 何回……? えーっと、高校の部活の頃からやってるから、もう3000回くらいにはなると思うけど……」

「3000!?」

3000は、ちょっときついなぁ。3000の経験値があるって、俺だって、ブログ記事を1000個ほど書いていて、この3倍の経験値があるってことだろう? そりゃ勝てんわ。ブログを5や10しか書いたことがない人間が、勝とうとしたって無理な話で、そうか、3000かぁ、3000かぁ……と思ってしまった。

やっぱり、あと30回で倒すってのは難しいか。しかし、どうすればいいだろう? もっとうまくピンとくるもの。それは実践を重ねていくことでしか養われないのか? だとしたらひたすらスパーリングをするのみである。 必ず、物事には芯がある。できるだけ単純に、いろんな法則があって、いろんな面を注意していかなければならないが、それらはたった一点に集約させることが可能だし、集約されなければならない。俺はそうやって記事を書いてきたのだ。俺にできないはずがない。

成功したいならシンプルに考えよう。
成功する人は物事をシンプルにしようとし、失敗する人は物事を複雑化しようとする。考えるということは実行しやすい形に自分のやるべきことを単純化することだ。実際に人ができることは限られているのだから。

とメンタリストDAIGOも言っている。

絶対に倒してやる。絶対にボコボコにしてやる。絶対に許さない。絶対に復讐してやる。

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