俺はなんの因果かわからないが、神からフルタイムの労働を免除させてもらい、一日に2時間の労働で生きている。
フルタイムの労働はやっぱりみんな嫌なようだ。 最近になって、二人の友人が面接をボイコットしてしまった。
いつも電話で話している友人なのだけれども、彼は一年以上ニートをしていて、やっと最近就活を始めたのだけれども、面接直前になってキャンセルの電話を入れてしまった。熱心に準備していて、一年以上の空白の言い訳なども用意して、俺も面接の練習に付き合ったりしていたのだけど、彼は直前になって、どうしても働きたくなくなってしまった。彼は10年ぐらい理学療法士の仕事をしていたのだけど、俺は彼が働いてる時から、いつか神経が切れて、急にパタンと仕事を辞めてしまう日が来るんじゃないかと思っていて、 それを彼によく言ったものだったけど、本当にそうなったので驚いている。老子が言うように、無理をすると続かないらしい。老子は、 無理というのは、無理をした分だけ、その分量が後になって必ず自分に跳ね返ってくると言っている。
もう一人の友人も、コールセンターでの新しい仕事の初日にボイコットしてしまった。彼もまた、朝起きた時に、フルタイムの仕事が嫌で嫌で仕方なくなってしまった。この人は、前職は清掃業をしており、その職場では、仕事の腕や勤務態度を買われて、上司や上層部から、お願いだから辞めないでくれと引き止められたほどであり、通行人からも、「突然お声かけしてすみません、遠くからあなたが便器を磨いている姿をずっと見ていて、その凄まじい仕事ぶりに声をかけずにいられませんでした。 あなたほど真摯に仕事をしている人を見たことがありません。今はしがない清掃業をしている身かもしれませんが、あなたは将来必ず大物になるでしょう」と言われたほどである。この人は結婚しているのだが、勤務初日にボイコットしたことで、離婚の危機らしい。俺は不思議なのが、どうして朝起きたら仕事に行きたくないというパートナーに向かって、働かないなら別れると怒ることができてしまえるのだろうということだ。俺には単なる材料にしか見えないところがある。そうか、そんなに嫌なのか、じゃあどの仕事でどの時間なら続けることができるんだろう? 朝起きて嫌だと思わないでいられるんだろう? と。今回ボイコットしたことで、自分の天職について考えられる材料が一つ増えただけのような気がするが。パートナーが朝起きて、嫌だと思わずに仕事に向かえることが、一緒に暮らしている彼女(彼)にとっても一番重要なことのような気がするが。
ふーむ。そうか、やはり嫌なのだなぁ、やっぱりみんな、そんなにフルタイムで働くのが嫌なんだなぁと思った。時代の趨勢を見れば、こんなに働くことに嫌気がさす社会というものは、現代に限れたごくわずかな期間でしかないように思う。昔はもっと働くにしても、ここまでシステマティックで、工場の部品のような仕事ではなかったはずだ。分業化はまだまだ進んで、人間はさらなるロボット化に向かわされているけれども、それでも緩和の改革は進められていて、例えばアマゾンのフレックスなんかも、週に50時間以上は働いてはいけない決まりになっている。たとえ配達物が残っていても、一秒でも時間が過ぎる事は許されない仕様になっていて。
コールセンターの仕事にしたって、本来AIがやるべきことであり、人間がやるべきことではない。 俺はAmazonで購入しては返品して、しょっちゅうAmazonのカスタマーサービスに問い合わせてばかりいるが←(笑)いつもAIや外国人の対応が酷くて困っている。この前もスイッチボットの商品があまりにもひどくて企業に問い合わせたところ、AIに対応されて困ったことになった。しかし、これも今だけだろう。もう少し時代が進めば、AIも、物質的な繁栄も板についてきて、ようやく我々は精神面にシフトできるようになり霊的生活に入っていくだろう。世界の歴史で、いちばん過渡期の時代をわれわれは生きていると思う。
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俺が神だの愛だのボクシングだの、あるいは生活に対する弱音を吐いたとしても、けっきょくお前仕事してねーじゃねーか、それがどれだけ幸せなことかわかってんのかよ、という読者の視線には気づいている。しかし俺にフルタイムの労働をしてほしいともみんなも思っていないだろう? ただでさえ更新も遅くなっているし、フルタイムで働いたら余計に遅れることはわかりきっている。やはり他人から求められていることをやった方がいいし、俺も自分がものを書いたほうがいい人間だと思っている。社会に出て働くと、かえって迷惑になることが多いから、これは他人の為でもあるのだ。こんなことをいくら続けたところで、一銭にもなりはしないが、それでも人間には適材適所というものがあって、それに従って生きていくことが望ましい。
さて、適材適所だが、もう一人紹介したい人がいる。最近noteで見かけたのだけれども、26歳の清掃業の仕事をしている女性のブログである。
とにかくアイコンが可愛らしい。このアイコンだけで満点である。そして彼女の文章はアイコン以上に素晴らしい。まだ26歳かそこらであるのに、若い頃からずっと清掃業の仕事をやってきていて、その日々の仕事について発信している。 彼女は清掃業の仕事を天職だと自覚しており、便器を磨くことで精神が磨かれていく様について綴っている。
↑この顔がいっぱい並んでいるだけで幸せになれる。
特筆すべきは、彼女はいつも熱く清掃業について語っていて、それによって挨拶も洗練され、人間関係も良好になり、
るけれども、そんな彼女ですら、働く時間が多すぎると、辛くてボロボロになって、恋人に当たってしまうこともあるようであり、その働く時間についての厳正さについても熱弁しているところにある。彼女は清掃業を天職だと自覚しているけれども、これ以上働くダメになってしまうという線引きをいつも考えながら仕事しているのである。 どんなに好きな仕事で天職だと思っていても、適切な時間というものがあるのだと考えさせられる。
俺も一緒で、出前館で1日8時間もやるのは厳しい。おそらく日に8時間も働けば2万円を超え、月に50万ほど稼げるとは思う。そんな人はTwitter上でいくらでもいて、わざわざ収益表をアップロードして見せてくれる。でもやはり、この暑い中は、夕方の2時間しか働きたくないから、それしか働かないようにしている。生活費が極端に少ないからではあるのだけど、先月も今月もいちおう黒字である。俺の体験から言える事は、苦痛でない仕事を苦痛でない時間内で仕事をして、支出を減らせば、黒字で生きているということだ。
彼女のブログを見てると、彼女はどんな仕事でもできるように見えてしまうが、清掃業以外の仕事だと、どうしても飲み込みが悪く、他人に迷惑をかけてばかりで、周囲との関係も悪くなってしまって辞めるしかなかったという。ここが興味深いところだ。こういうところを我々はブログから学ばなければならない。やはり人は天職に就くように定められているような気がする。天職というものは、そんなに苦労しなくてもできてしまうことをいうのではないか。彼女に限らず、俺は他人の仕事体験談が好きである。単純にその仕事内容に興味があるし、その仕事をどんな精神状態でどんなふうにこなしていっているのかというところに興味がある。自分の人生の時間を限られていて、他人の人生を体験することができないため、こうしてブログを読むことでその人の仕事を追体験できることはありがたいことである。
俺は、この人たちを見ていると、仕事というのは、根性とか愛では、どうにもならないような気がしてくるのである。俺は、朝起きてトイレ掃除しに行くなんて死んでも嫌だけど、それが好きでやっているという人が、二人もいるのである。たぶん彼らも、出前館なんて死んでも嫌なんじゃないかと思う。
こういったものはどうやって見つけるのか。難しいかもしれないが、 俺は、バイクでなくても軽貨物ドライバーでもうまくやれていく自信がある。どうやら配達系の仕事がしっくりくるらしい(他人からは、運転下手とよく言われるけどね(^◇^;))。やはりこういうのは、やる前からわかるような気がする。俺は出前館をやる前から、なんとなく、出前館が自分の天職なんじゃないかと思っていた。実のところ、小学生の頃から気づいていたところがある。小学校5年の頃に書いた作文があるのだが、『将来の夢』というタイトルで、タクシーの運転手になりたい旨のことを書いた。当時は出前館などなかったからタクシーだったのか。きっと、この頃から、何も考えず、ぼーっと仕事していたい、という気持ちがあったのだと思う。この作文は授業参観の時に教室で発表したことを覚えている。みんな、医者とか芸能人とかサッカー選手とか公務員とか言っている中で、俺一人だけタクシーの運転手になりたいと言ったから、ブルーワーカーを称える美談につながったのか、それとも俺の文才があったからか、教師や生徒たち、後ろに並んでいた保護者の方々から盛大な拍手喝采を受け、大賞なるものを与えられたのを覚えている。きっとお母さんも鼻高々だろう、たくさん褒められると思ってワクワクして家に帰ってみると、「バカ!! バカヤロウ!! 恥ずかしい! 本当に恥ずかしい! ねぇ私の立場わかる!? タクシーの運転手なんて、あんな恥ずかしい! みんなの前で発表して恥ずかしい! 佐鳴まで通わせているのに! いい加減にしろ! ふざけるな!!」そして俺はタクシーの運転手になるのはやめようと思ったのである。 しかし、バルザックやゲーテの言うように、自然の修正能力と言うものは、その人を天職に向かわせる。
バルザック
「人間はいかなる方へ向かって進んで行くにしても、またどんなことを企てるにしても、常に自然が彼に一度予定したその道に再び帰って来るものであろう。」ゲーテ
Johann Wolfgang von Goethe. 詩と真実 完全版 (p.175). KotenKyoyoBunko. Kindle 版.
俺はやったことはないけど、シュノーケリングが好きで、シュノーケリングみたいな感じで、海のずっと深いところで、変な酸素カプセルを背負って、ずっとプシュー、プシューとやっていたい願望が昔からある。その状態で、そんな感覚で、仕事ができたらいいなぁと思っていた。出前館の仕事はそんな感じである。クモの巣のような道路を走っている時、俺は深い海の底に潜っているような気分になる。そして事故に遭う。
しかし、出前館の仕事はドローンにとって代わられるだろう。訪問マッサージの仕事も天職だと思っているが、おばあちゃん達だって90歳とかだから明日にも死んだっておかしくはない。しかしその90のおばあちゃんがスマホを使っていて、このスマホが年寄り向けのよくわからない、ドコモのスタッフに押し付けられて買わされた奇妙なスマホで、ものすごく強くタップしないと反応しない、アプリもどこに何が入ってるのかわからない犬畜生みたいなスマホで、おばあちゃんは、これを月に10,000円以上払わされている。恐ろしいことに、このスマホはおばあちゃんにとっても使いにくいようで、「どうしてこんなに力強くタップしないと反応しないのかしらねぇ?」と言っている始末で、本末転倒もいいところである。どう考えてもiPhoneの方が年寄り向きで、ノーマライゼーションになっている。それでも、「スマホっていいわねぇ〜! 私、スマホがないともう生活できないわ!」とおばあちゃんは楽しく笑っている始末で、この糞みたいなスマホがやっと2年経って期間が満了するから、今度は一緒にiPhoneを契約しに行って、iPhoneの使い方を教えてあげなければならない。そんな時間がとても楽しい。 フルタイムで働いていたら、こんな時間を過ごせなかったと思うと、やはり俺はこの生活スタイルがいいなと思っている。