後藤のことは、まぁ、ずいぶん前に書いたことがあるが。
最近ちょっと松葉杖で歩行していたら、歩くスピードが激減して、横断歩道を青信号の点灯時間内に渡りきれなかったため、後藤のことを思い出した。
高校の同級生の後藤。天然パーマの角刈り、潰れたようなぺっとりした髪質で、たこ焼きのソースみたいな髪型をしていた。両頬にはそばかすがあり、そばかすのせいで余計にたこ焼きっぽい見た目になっていた。チャイルドプレイのチャッキーを可愛くした感じと言えばいいか、アメリカの子供みたいな顔をしていて、体型は中背中肉のやや太め、筋骨が弱そうなおばさんみたいな太り方をしていた。サイズの合っていないピチピチの制服を着ていて、学ランの上から三段腹の腹のラインが見えていて、無理やり縛っているボンブレスハム、包茎クリニックの広告の画像のような、苦しそうなファッションをしていた。大きな四角い眼鏡をかけていて、おそらく小学校の頃からずっとかけている物だと思う。誰にも頼まれてもいないのに、一つ一つが最低点の要素を取り入れていた。
後藤は存在しているだけで面白かった。面白いことを言える人間ではないが、いつもいるだけで爆笑をかっさらっていた。この面白さが恋につながって結婚につながってくれれば、すべてが幸福に向かうのに。人生の折り返し地点の年齢となって、同級生のことを思い出すことがある。みんな、どんなふうに歳をとっているか。坂口安吾が、「文学も、まア、そうだ。その人の限界は、だいたい二十代にそのキザシが確立されている。あとは技術的に完成するか、迷路を廻り路するか、そんな風にして、ふとっていくだけのことだ」と言っていたが、 これは人生についても同じことが言えるのではないだろうか。みんなの将来はだいたい予想がつくが、後藤だけは想像つかない。
後藤には悪いが、俺は後藤のことを知的障害者と健常者の中間にあたる存在だと思っていた。一応は普通学校に通ってみんなと一緒に机を並ばせているが、本当にいいのかという疑問を抱かずにはいられなかった。かといって、山奥の施設に連れて行かれて、奇声を上げたり、持ち場に留まっていられずに歩き回ってしまう者達に囲まれて過ごすのも違う気がした。いま流行りのADHDとかアスペルガーとかいうものとも違う気がする。いつも思う。このグレーにあたる存在はどこでどうやって過ごしていくんだろう。社会におよそ後藤の机が用意されているように思えないのだ。
後藤は昼食を食わなかった。お弁当も持ってきていなかった。昼休憩の時間は日当たりのいい場所に座り込んで、一人でジャンプを読んでいた。ジャンプは月曜日に発売されるので、月曜日に読むのはわかるが、火曜日から金曜日まで、その週に発売されたジャンプをずっと読んでいた。後藤は誰ともつるまなかった。会話らしい会話をする相手が誰もいなかった。クラスカーストの低い位置にいる者でも、同じランクが寄せ集まって過ごすが、後藤はこれに当てはまらなかった。「へぇ、漫画を読んで面白いと思う感性があるんだ」と女子に揶揄されていたのを覚えている。後藤は昼食は食わなかったが、よく水を飲んでいた。授業が終わって休み時間になると、廊下に出て、水道でガブガブ水を飲んでいる姿が目撃された。「ごっちゃん、めっちゃ水飲むじゃん」と同級生にニヤニヤしながら話しかけられると、後藤は「うん」と答えて、「水しか飲まないの?」と聞かれると、また「うん」と答えていた。「え? ほんとうに水しか飲まないの」ともう一度ニヤニヤされながら念を押されて聞かれても、「うん」と答えていた。この広い世の中には水しか摂取しない人間がいるかもしれないが、後藤はそうではない。俺は実は中学も小学校も幼稚園も後藤と一緒だったので知っているが、後藤はみんなと一緒に給食を食べていた。
「うんこしたことある?」と聞かれても、後藤は「ないよ」と答えていた。ただ普通に「うん」と答えれば済むところを、変に頭をこねくり回して斜めの答えを出して、周囲に亜空間のような雰囲気を与えてしまっていた。ウケを狙っているのか、何か爪痕を残さなければならないと思ったのか、普通に聞かれたことを普通に答えるということができない人間だった。みんな、小学校の低学年の頃から同級生に揉まれる中で、共同体感覚というか、集団における最大公約数的な発言の仕方を肌に覚えさせていくが、後藤は高校生になっても受け答えの法則のようなものが確立されていなかった。しかし、誰だって幼い頃はこういうところがある。「おはよう」と言われて「おはよう」と言えなかったり、「うんこしたことある?」と聞かれて「ない」と言ってみたり。みんなが後藤のことを面白がって笑うのは、自分の過去を思い出すからではないだろうか。同級生達にこの論理を話しても納得してはもらえないだろうが、俺はそう思っている。笑っているのが何よりの証拠だ。
後藤はバスを使って登校していた。バスで登校してくる生徒は後藤だけで、サラリーマン達に紛れて後藤がバスから降りてくるだけで爆笑が起こった。後藤は自転車に乗れなかった。きっと練習したことがないんだろう。自転車に乗れないことを恥だと思っている様子もなければ、克服しようとする様子も見られなかった。自転車に限らず、目の前のどんな問題も、どうにかしようとする様子が見られなかった。それに加えて、歩くのがとても遅かった。バスの降車場から学校に向かう途中に、一つだけ横断歩道があるのだが、歩くのが遅すぎて、横断歩道の中間に差し掛かった時には青信号が点滅してしまい、そうすると、後藤はもとの地点に引き返していた。「引き返してどうすんだよ」「半分戻るのも半分進むのも同じ距離だろ」と言って、みんな笑った。学校名物だった。
このように後藤はいつもみんなに笑われていたが、先生から助けてもらえない生徒だった。例えば、体育の授業で50メートル走があった時に、 後藤は50メートルを半分ほど走ったところで(走ったとはとても言えない走りだったが)、 とつぜんスタスタと歩き出してしまった。怪我とか病気でもなく、教師に理由を聞かれても、「いや」とか「別に」と答えて、「別にってなんだ」と教師に聞かれても、首を振ったり、泰然とした顔をしたり、どうでもいいよという顔をしたりして爆笑が起こった。この時の体育教師の怒り様は凄まじいものだった。後藤が「よくわかんないです」と言うと、教師は「よくわかんないってなんだ」と、目を血走らせて唇をふるふると震わせて、長い時間、そうやって後藤を見ていた。後に控えていた者たちの計測は次週に持ち越され、残り時間は「わからないってなんだ」「よくわからないです」「何がわからないんだ」とずっとやる時間となった。体育の成績で1を取るのはこういう奴なんだろうなと思った。
ある日、不良たちが学校をサボって映画を見に行ったのがバレたとき、なぜか後藤もサボって映画を見に行っていて(不良たちとは別行動の単独犯だが)、彼らと同じ悪事を働いたというのに、後藤だけがめちゃくちゃ怒られていたことがある。ヤンキーやお調子者よりも、根っからのグズ、生産性のない昼行灯キャラ、仕事のできないサラリーマンの卵のような生徒の方が、教師の神経を逆なでさせるらしい。中学の頃、家庭訪問に来た教師を二階の窓からエアガンで狙撃した生徒がいたが、それはまぁ、悪ふざけと言っていいのか、年齢も年齢だし、意図や狙いみたいなものが一応は見て取れるが、後藤の場合は悪さもなければ意思もない、何もない。何もないとしか言えない。何もない奴が得体のしれない行動原理から何かをすると、怒られてしまうのか、笑われるのか。不良よりナチュラルな社会不適応者に見えた。学校にいる間はずっと同じ顔をしていた。たぶん家でもずっと同じ顔をしていたと思う。授業中に音楽プレーヤーをポケットに忍ばせて音楽を聴いていたり、教科書を立ててその下でポテトチップスをコソコソと食ったり(水しか飲まないと言ったくせにやっぱり食っている)、たまに悪いことをすることもあった。授業中にヘッドホンをつけていたこともあって、授業が始まってすぐに廊下に連れて行かれて説教をされて、やっぱりみんな爆笑していた。
がんばっても遅いとか、がんばっても上手くいかない、がんばっても人と同じようにできない、がんばっても……。そういえば、後藤が何かをがんばるという姿勢を幼稚園の頃から一度も見たことがなかった。生きていくセンスが鈍いというか、持っていないというか、自分から放棄しているというか。しかし、これより下の人間を見つけるのが難しいのか、素直というか、潔いというか、後藤の潔く青春をかなぐり捨てる有様は人気があり、どんな人気者にも必ず不支持者がいるものだが、後藤を嫌う人間を幼稚園の頃から一度も見たことがなかった。まぁ、あれを嫌いだとか、ムカつくとか、反発意識を燃やしていたら、それはそれでおかしいというか、犬や猫にマジギレするのと同じことになってしまうのか。しかし、学校はそれでいいのかもしれないが就職したらどうするんだろう? いや、就職できるのか? 社会で何一つまともに就けそうな仕事がない。当時から俺は後藤の将来が気になってしかたがなかった。後藤本人よりずっと考えていたと思う。
さて、ここまで長く後藤について語ったが、後藤が起こしたことで語り継がれている二つの伝説がある。もうここまで話した内容が伝説かもしれないが、最後に二つの伝説を話して終わりにする。
●「わざとだろ」事件
高校当時、昼休みになると、7〜8人の男子で体育館に集まって、「ワンバン」というゲームをやっていた。この「ワンバン」というのは、みんなで輪になってボールを蹴ってパス回しするもので、プロのサッカー選手の練習でノーバウンドのボールのパス回しをするのを見るが、その簡易バージョンとでも言おうか。専門用語をよく知らないのでパス回しとしか言えないが、手を使ってはいけず、ワンバウンド以内で輪の中のメンバーにボールを渡さなければならず、2回以上ボールをバウンドさせてしまったら罰ゲームとなる。昼休みはほとんど毎日、体育館でワンバンをやっていた。
罰ゲームの内容は、メンバーのそのときの思いつきで決めるのだが、例えばこんなものがある。教室の扉を思い浮かべてほしいのだが、廊下の方から扉に立って、自分の身体が廊下の扉に隠れるようにする。その状態からちんこだけを扉からはみでるように出すというもので、廊下の方から見ればもちろん丸わかりなのだが、教室の方から見ると、ニョキッとちんこだけがはみ出している絵になる。クラスメイトたちが普通に弁当を食べている中、扉からニョキっとちんこだけがはみ出していて、それがいつバレるか冷や冷やするスリルをみんなで楽しむというものだった。俺も三回くらいこの罰ゲームを履行した。他の罰ゲームの内容としては、授業中にずっと教師をにらみ続けて決して目をそらしてはいけないとか、自転車で廊下を走るとか、保健室に入っていって「生理痛です」と言うものもあった。事前にみんなで可能なギリギリのラインを設けてゲームを始めるので、拒否権はなかった。
ある日の罰ゲームで、後藤の机をめちゃくちゃにするというものが決まった。とにかく後藤の机をガンガンに蹴飛ばして、後藤の机の中の教科書やらノートやプリント類をめちゃくちゃに散らばさせるというものだった。罰ゲームの役者が決まり、みんなで体育館から教室に向かうと、教室はいつも通りの風景で、クラスメイトたちは弁当を食べたり談話したり机に伏せて寝る者がいたり、その中に後藤の姿もあった。後藤はいつも通り、窓側の日差しが強い場所の地べたに座ってジャンプを読んでいた。
罰ゲームの男は、後藤の席の前に立つと、めちゃくちゃに机を蹴り飛ばした。普段からプリント類がためこまれていた後藤の机の中身はいっぱいに周囲に広がって、机は逆さまになり、四本脚は天井を向いた。後藤は教室の隅で自分の机が蹴られている様を見ていて、ことが終わるのを見届けると、自分の机を蹴った男のところまで近づいていき、「お前、わざとだろ」と言った。すると、それまで談笑したり、ボケーッと後藤の机が蹴られている様子を眺めていた者たちの空気が止まり、教室は猛烈な静けさに襲われた。全員「?」という顔になった。「わざとって」「わざとって何?」と、女子たちもヒソヒソ声で、「?」という顔をして、互いの顔を見合わせていた。「わざとじゃないの?」「わざとじゃなかったらなんなの?」という声が教室中のいたるところから静かにわいてきて、「わざとじゃなかったらなんなんだよ、偶然があるのかよ」と、とある男子生徒が一言いうと、教室中に爆笑が起こった。
俺は今でも考える。わざとってどういうことだろう。わざとって言葉は出てこないなぁと思う。なんであの時「わざと」って言葉が出てきたんだろう。
●「西友カゴ配り事件」
日曜日の朝、スーパーから帰ってきた母親が、「ねぇ、あんたのとこの後藤君だっけ? 同級生にいるでしょ。あの子、今日、西友に行ったらカゴ配ってたよ」と言った。
「カゴ?」
当時の俺は反抗期で、親に質問で返すことなどなかったが、思わず聞き返してしまった。
「うん、買い物カゴが積んであるところに後藤君が立ってて、お客さん一人ひとりに配ってたけど」
「それは、バイトじゃなくて?」
「私服だったし、そうは見えなかったけど」
俺は翌朝、同級生たちにこの話をした。するとみんな猛烈に爆笑した。「後藤が西友の入り口の買い物カゴのところに立って、客の一人ひとりにカゴを配っているらしい」と言っただけで、「それは店員じゃなくて?」とか「ボランティアじゃなくて?」とか、そんなふうに理由を聞かれることもなく、みんな一発で要領を得て笑ったことに驚いた。なぜ皆まで言わなくても理解できるのか。まぁ、「休日の朝に西友に行ってカゴを配っている」というワードに反応して、絵を想像して笑ったのだと思うが。カゴを配っている店員なんてものも見たことはないし。
今でも高校の友人と電話していて後藤について話すことがあるが、そういうとき、「あの〜あれ、いたじゃん、西友でカゴ配ってた奴。なんだっけ名前」と友人は言う。後藤といえば高校の頃あれだけ色々あったのに、自分が見てもいない、俺から又聞きした内容の(俺だって見てはいない)、西友でカゴを配っていた件を持ち出してくる。俺は、ここでも後藤がなぜカゴを配っていたのかを考えていた。承認欲求? まぁ、確かに「ありがとう」と言ってもらえるだろう。やっぱり小さい子供が、近所のおばさんに「マー君、偉いねぇ」と言ってもらって喜んでいる時期から抜け出せていないように思える。「なんでわざわざ休日に西友に行ってカゴ配ってんだよ」と、みんな笑って完結してしまっていたが、理解できたから笑ったのか、理解できないから笑ったのか、みんなもカゴを配ってみたい気持ちがあるのか。知的な意味での発達障害ではなく精神的な意味での発達障害か、ただのひねくれ者か、ただの素直か、発達が遅れていることに変わりないが、遅れているということは進むことはあるのか。「わざとだろ」もそうだ。なんか子供の匂いがする。ブーブークッションを椅子に置いたりして、「おいわざとだろ〜」って、子供にそんなやりとりがあるような気がする。あれがまだニュートラルになっているんじゃないか。がんばるということが恥ずかしい、今でもそうなのか? 後藤のようなタイプの男は、時間の一新に失敗しているんじゃないかと思う今日この頃である。テレビのタレントなんてみんな似たり寄ったりだから後藤を出してほしいと思う今日この頃である。