ドトールには、勉強しにやってくる看護学生やら、高校生、レポートを書きにくる大学生、フリーライターやら、ノマドワーカーやら色々いるが、結局みんなすぐにスマホを見て手を止めてしまう。手を止めないのは、おじいさん達だけである。
ドトールにも小説家がいる。なんと二人いる。見たところ、二人とも80歳くらい。一人は痩せ型、一人は太っちょ。痩せ型の方が神経質そうで、太っちょの方が豪快で、ガハハハ! という笑い方をする。やはり心理学のいうように、体型というのは性格を表すのか。
二人とも、俺がデイサービスで見てきたどんな老人よりも頭がしっかりしてそうだ。議論したら負けるかもしれない。知性、英気がそこらのジジイと違っており、宮崎駿や養老孟司みたいな、ジジイだからといって舐めてかかれない雰囲気がある。羞恥心というものが根強く残っているようで、針で突っついたら、若者と変わらない敏感な声を上げそうな、シャイというか、10代の頃の感性を忘れないようにしているというような、生娘感。生々しい心臓の鼓動が伝わってくる。いまだに、初恋の人のことを思い出して、心や紙に書いたりしていそうだ。
そして二人とも毛量が多い。そこらの30代よりびっしり髪が詰まっている。小説家というのは、なぜかハゲが少ない(白髪の人は多いが)。五木ひろしは別格として、文章を書くことと毛根の血流は相関性があるのか? 画家や漫画家はハゲがいるし、スポーツ選手も結構ハゲが多いが、小説家だけは少ない。あ、意外にボディビルダーやウェイトリフターもハゲが少なく、活きのいい髪をしている。重いものをグオオっと持ち上げるときに、脳の血流を促進させるのか。
服装はというと、痩せ型は普通のきれい目なシャツ。太っちょは、泥棒のような、プールの清掃員みたいな格好をしており、いつもオレンジ色のポロシャツを着ていて、その上に黒いジャンパーを羽織っている。オレンジ、やはり年寄りは派手目な色を着た方がいい。寿命も伸びるだろう。太っちょの方が長生きすると思う。
文章なんて書いている輩は根暗と相場が決まっていると思うものだが、そういった例はむしろ少なく、快活の方が多い。彼らを取ってみても、他の同年代のジジイ達よりずっと快活で愛想がよく、とてもフランクに店員に話しかける。家族にもああやって話している様子がうかがい知れる。家族からも尊敬されているだろう。これはおそらく、文章を書いていると、愚痴など、溜まっていた精神の澱みが雲散霧消されていくからじゃないだろうか。手塚治虫も一週間に2、3日しか寝なかったというが、誰よりも快活だったとアシスタント達は話している。ボケ防止にも、これほど最適なものはないだろう。そして、知識がありながらも、話すときは短そうだ。大抵のジジイは話が長いが、このジジイ達はそういう塩梅をわかっている。だから家族からも好かれるのだろう。
二人とも午後3時くらいになると自転車でやってきて、ホットコーヒーをブラックで飲む。プリントアウトしてきたA4用紙の活字の山に、線を入れたり数行の書き込みをしたりしている。ここで初稿を起こすわけではない。自宅でプリントアウトしてきたA4用紙を校正するためにやってくるのだ。ここは二人とも一緒だ。時間もやることも飲む物も一緒。校正作業は家でやるよりも風通しがいい空間の方がやりやすいと聞いたことがある。
二人とも、ふでばこは持って来ず、胸ポケットに蛍光ペン、赤ペン、鉛筆、万年筆の4〜5点を引っ掛けており、胸ポケットをふでばこ代わりに使っている。書き込んだり、線を引いたりしているところは見るが、白紙の紙に初稿を起こしているところは見たことがない。
二人は、ここまでやることなすことが一緒なのに、会話しているところを見たことがない。俺がドトールに来る前からやって来ていることだけは確かで、ずっと長いことドトールに執筆しに来ていることだけはわかるが、なぜ話さないのだろう? 互いの小説を見せ合って感想を言い合えたら、良さそうなものなのに。もうその段階は過ぎたのか? 議論に白熱し過ぎて仲が悪くなってしまったのか? 過去に何かあったのだろうか? ライバル? こんなにやることなすことが一緒で、何十年?顔を合わせても、話さないなんてことがあるのか? いや、普通に考えて話さないものか。まぁいい。
太っちょの方がちょうど俺の隣に座っていたので、原稿をチラ見してみた。小説だったら縦描きでプリントアウトしそうなものだが、横書きでプリントアウトしてある。いちばん最初の書き出しが「人間とは〜」から始まっていた。人間とは〜? ってことは、論文かな? と思ったが、やたらと「」(カギカッコ)が多い。こんなにカギカッコ(会話分)が多い論文というのはきっとないだろうから、やっぱり小説だろう。小説だとしたら、「人間とは〜」から始まる小説か。そいつはずいぶん直接的な小説じゃないか! 直接的。もうこのくらいの老境に達すると、余分が抜けて、真に迫ったものしか書きたくなくなるのか。「ガハハハ!」と豪快に笑ってはいるけど、「人間とは〜」から始まる小説を書いている。本当は小難しいことを考える性格だけど、他人の前では愉快な態度を貫く。意志的。思想で生きている証左といえよう。
二人の間に意志が働いているように見えた。自分の内面がどうであれ、外側のすべてに対し意志によって明るい生命体を演じなければならないという、物書きというのは書斎で暗い生き方をしているようでいて、これを実践している人が多い。すべての最高の書物にはこの生き方が説かれているから、本から学んだのか、経験から学んだのか、どちらにせよ、二人は思想で生きているということだ。
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この二人は、プロの小説家なのか? だとしたら印税は入っているのか? 年金に加えて印税が入ってるなら、そこらの若者より収入は上かもしれない。俺と違ってドトール代など痒くもないだろう。他にぜんぜん金を使わなそうだし、月に20万以上は入ってきてそうな感じだから、ドトール代なんてタダみたいなもんだろう。おじいさん達が書いた本は、本屋の一体どこのコーナーに置かれてあるんだ? 何部印刷されてるんだ? 読者層は? やっぱりおじいちゃん同士? 今、本屋潰れてばかりいるけど、大丈夫か?
しかし、普通に仕事していたら、この時間帯にこういったおじいさん達がいることを知ることはできなかった。本当に、一切、手を止めることなく書いている。まぁ、たぶん校正作業ということが大きいんだろうけどね。校正作業はほとんど手が止まることがないから当然といえば当然かもしれないが。俺だって校正をしているときは止まらない。漫画家だって一度ネームができれば止まらないだろう。だが、俺は初稿を書きにドトールに来るんだなぁ。そこが反対だ。多分、おじいちゃん達は、初稿を集中して自分の部屋で取り組めている気がする。できれば初稿を起こしている時の方を見たいんだがなぁ。このくらいの年の人が、どれくらいのペース配分で文章を書いているのか、老人になってもやはり思うように進まないものなのか、初稿でないとわからないところだ。
不思議と漫画を描きにくるような人はいない。文章の方がカフェという形式と適しているんだろう。もう欲望という欲望は尽きて、最後に残った出涸らしみたいなもので行動しているように見える。まるで植物のようだ。これは望む望まないを問わず、ただ年月だけを必要とするもののようにも見える。余計な憂いも煩悶もこえて、楽しい楽しくないもこえて、この域に辿り着くには、あと何年必要なのか、それとも今可能なのか。
ちょっとYouTubeをひらけば、『生産性がアップする5つのツール! 決定版!」とやっているが、二週間もしないうちにまた決定版が出ている。その生産性というのは、生産性について生産する生産しかしていないようで、じっさいに何を生産しているのかは見えてこない。スタンディングデスクだ、かなでもののラバーウッドのテーブルだ、ゲーミングチェア、ウルトラワイドモニター、アルミ製のマウスパッドだの言っているが、結局のところ、それを使って、『生産性がアップする5つのツール! 決定版!』という動画を作っているだけだ。まぁ、役に立ったがね。
年を取ってもテレビ見て過ごすんじゃなくて、こういう趣味があるということはすばらしいことだ。俺もジジイになっても、こうして毎日ドトールに来て文章を書いていたいと思う。俺の成れの果て? というのは、少し失礼か。俺はドトールじゃないと初稿が書けず、推敲のためだけに来ている彼らと比べて負けが確定している。
気になっているのなら、声をかけてみれば? と思うかもしれない。本当に人柄が良さそうで、しょっちゅう店員とも気さくに話しているし、元来人間が好きそうなので、俺が話しかければすくに仲良くなれるような気がする。向こうも、若い人間と、書き物について話をしたい、という顔をしているような気さえする。
まぁ、話しかけないがね。
話しかけるわけねーだろ、バーカ。
本当に、毎日合わす顔だ。これまで書いてこなかったのが不思議なくらいに。向こうも飽きるくらいに俺のことを見てきた。4年かな。毎日だ。いつも午後になると同じ時間にペンを走らせ、知らない人が見たら孫がおじいちゃんに会社の仕事を手伝わせていると思うかもしれない。しかし、俺がジジイ達のことを書くことがあっても、ジジイ達が俺のことを書くことはないだろう。俺の方が遊び心は大きいかもしれない。単に暇なだけか。ジジイ達は今日も小説を書くが、俺はそれを書いているジジイのことを書くしかできない。俺がジジイ達のことを書いて、ジジイ達が俺のことを書いて、見せ合ったら、さぁ、どっちが上かねぇ? こっちだったら俺が勝つかもしれんぜ?
この爺さんたちは、俺のことをどう思っているかはしらないが、なぜ働き盛りの男が午後3時にドトールにいるんだろう? 仕事してないのか? ニートなのか? 学生? しかし、このジジイ達くらいになると、ブロガーやYouTuberについての文化も詳しいかもしれない。最近の若者の働き方改革云々をどこかで読んだことがあるし、ワシらの若い頃とは違うんじゃろう、ホッホ、という感じで、片付けられている気もする。
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ちょうど俺が喫煙室でタバコを吸っていたら、太っちょの方が、トイレから帰ってきたその足で、ガラッと喫煙室の戸を開けた。びっくりした。喫煙室は1名しか入ってはいけない決まりなのである。向こうもびっくりした顔をしていた。その顔が人間らしくて、やっぱり物書きの方が人間らしい顔をするなと思った。ジジイは近くで見たらガマガエルみたいな顔をしていた。「ああ、ごめんなさい」と言って、ガフフと笑って、カエルが下唇を震わせるような動きをした。声が低く、老練のAV男優を思わせる、上品ながら官能的な響きを持っていて、ひょっとしたら官能小説を書いているかもしれないと思った(「人間とは〜」から始まる官能小説か)。古ぼけた洋館で、召使いの女を裸にして、「宝石みたいだ」と言っている姿がとても似合う、そんな声だった。俺は、「ははは」とニコッと笑って返した。
「「「「「僕がタバコ吸ってるのに、どうして開けるんですかぁ〜〜〜!!!!!!!!!!!!!」」」」」
なーんてこともありえるからな。俺みたいな奴の対応もわきまえてやがる。膨大な読書から得た引き出しの中に用意されてあるのだ。平日に関わらず毎日ドトールにやってくる男だもんな。そんな男に対しても、ぬかりなく、最大限の愛を実行する。ちょっと怪訝な顔をしただけで何されるかわかった時代じゃないからな。つーか、扉を開けたのはジジイだ。責任はジジイにあるが。
まぁ、俺はジジイ達と話すことはないだろうし、ジジイ達が書いた書物も読むことはないだろうが、せいぜい気になるのは、この文章をジジイ達に見せたら、なんて感想が返ってくるのか、ということぐらいだ。
やはり年寄りというのは、家に自分の書斎を持ち、蔵書に囲まれ、そこだけは家族が足を踏み入れるのに覚悟を要するような、侵しがたい威厳を放っていなければならない。「ダメ! そこはおじいちゃんの書斎でしょ!」という台詞は、もう長いこと聞いた試しがない。たまに孫を抱えて高い高いとやるのも必要だが、古代ローマのように、若者を切り株に座らせて叡智を説いた長賢のように、時代が時代だったらそういう立場にあっただろうジジイのように、本当は誰もがそんなふうに年を取らねばならないのだ。それは紛れもなく老人の品格であり、若者に舐められるでもなく、媚びるでもなく、人間がその時間分を生きた価値を問われるには、神と通じた絶対量において他はない。