「ボケはね、やかましくされるからボケてしまうんだよ。本人だって自分が悪いのはわかってるんだよ。だけど、言い合いもしたくないから、つんぼのフリをしてやり過ごす。それが一番早く切り抜けられるからね。でも、そうやってつんぼのフリをしているうちに、本当のつんぼになってしまう」中村天風
これは本当で、自分のおばあちゃんや、よそのおばあちゃん達を見ていて漠然と思っていたことだが、天風先生が言語化してくれたことで、理解が進んだ。
だいたい、その人の顔を見ていれば、その人が理解しているかどうか分かりそうなものだが、これは仕事においてもそうだが、他人がちゃんと理解しているかどうかまで確かめる人は少ない。「今言ったこと、もう一度復唱してみて」と言うのは、相手を信用していないようで失礼に当たるからかもしれないが、おばあちゃん相手になら、失礼に当たらないと思う。
俺は理学療法士として、いろんな家庭を出入りして、おそらく200件以上の家庭を見てきたけど、老人が大切にされている家庭は一つもなかった。
本当に、どうしてあんなにガミガミ言うのだろう。言ったってわかりっこないのに。どこの家族も、ボーダーラインを高く見積もっている。俺ははっきりとおばあちゃんを下に見ていて、多分あれもできない、これでもできないと腹を括っていて、何もできやしないと諦めていたが(おばあちゃんからしたらその方が悲しいかもしれないが)、直系の子供にとっては、母親として、父親として、すべてのことから自分を守ってくれた、精神的な支柱だったあの頃の記憶がそうさせているのかもしれない。
マッサージのお出迎えのために、利用者さんの家に行くと、「先生来てるわよーーー!!!」「どうしてそんなに荷物がいるの!」「どうしてトイレ済ませておかないの!」「この時間に先生が来るのはわかりきってるでしょ!」と毎度のように怒っている。どの家庭も、俺が目の前にいるというのにお構いなしに怒鳴る。怒鳴ることが生活に溶け込み過ぎていて、俺の前で猫を被る理性よりも身体の反射が追い越している。俺は舐められているのか? ところがどっこい、俺の前だからこの程度で収まっているのだ。間違いなく、俺がいないところでは……もっと……、想像するのも恐怖でしかない。そりゃボケるわけだ。怒鳴れば怒鳴るほど自分の親が馬鹿になっていくのに気づかない。その後、にっこり笑って、「それでは先生、よろしくお願いします」と言われても恐怖でしかない。
こういう家庭であればあるほど、ボケの進行は著しい。「そんなに怒らないであげてください」なんて言おうものなら、俺は仕事を失うだけだ。自分の保身だけで言ってるわけではないよ。誰一人得をしない。救うどころか、余計にひどい目に合わせるだけだ。ドトールでも有線放送がかき消されるほどの大声で子供を怒る母親がいるが、あれも子供の頭を悪くさせる。仕事でも、みんな怒られると、つんぼのフリをしている。「はい! はい! わかりました!」と言って、怒られたくないから、早く会話を切り上げようとし、聞いているポーズに夢中になり、そして彼らもまた、そうしているうちに、本当のつんぼになっていってしまう。
「先生! これからは私たちがこちらで手渡しでお支払いします! 昨日も、財布からお金がなくなってるって、まるで私たちが盗んだかのような言い草で言うんですよ! もう母には財布を持たせませんので!」
万事がこの調子だ。人間、若かろうが老いてようが、気力が削がれることがいちばんダメで、そばにいつもガミガミ言う人間がいるだけで、できることもできなくなってしまう。この辺りはブラック企業や教育ママと同じだ。人生の最後の階段に、どのおばあちゃんもこの踏み面が用意されていることは本当に気の毒だ。俺も、「承知しました」と、ただただ首肯する他ない。どの会社でも、ここは同じだ。ドトールでもそうだ。こうして、この空気に丸呑みされていって、いちばんヒステリックでいちばんギャーギャー言ってる人間に周囲は丸め込まれるだけ。夫も孫も、お母さん側につくしかない。
うちの場合もそうだった。たとえば、ババアが朝、必ず雨戸を開けるのだが、「雨戸を開けるのだけはやめて! 落ちたら危険だから!」と母親は気狂いのように怒り、それだけはババアに約束させた。それでもババアは雨戸を開けた。「どうしてわかってくれないの!?」と母親はいつも泣きながら怒っていて、「開けるな!」という張り紙を窓に張っておいたにも関わらず、それでもやはり開けられていた。俺もそばで見ていて、「おばあちゃん、落ちたら大変だから、雨戸を開けるのだけはやめよう」と言ったが、ババアはうんうんと頷いて「わかった」と言うが、俺はその時ババアの顔を観察していたが、絶対に明日も開けるなと思っていた。
そしてまた次の日も、そのまた次の日も、やっぱり雨戸は開けられていた。俺がびっくりしたことは、雨戸が開いていたことではなくて、それに怒る母親の方に対してである。どうして怒れるのか、壁に向かって怒るのと同じだ。なんで怒れるんだろう? よく本気で怒れるもんだなぁ、といつも思っていた。こんなのは犬や猫に怒るのと同じだ(このくらいまで期待値を下げなければならない)。しかし、これがどこの家庭でも見られるのだ! 近所も全部そう。いつも怒鳴り声が聞こえてくる。四方八方、文字通り、右も左も前も後ろも、ババアが住んでいて、みんな怒鳴られている。実家に帰ると、昼も夜もずっと怒鳴り声が聞こえてくる。そして、見なくてもわかるが、ババア達はみんなつんぼのフリをしている。
まぁ、朝になって、ババアが庭に落ちて死んでいたら、悪いのはうちの母親ということになる。どうしてババアを一人にしたのか、家にいたのならどうしてババアを一人にしたのか、家にいなかったのならどうしてババアを一人にしたのか、ということになる。世間の声はうるさい。家で死なれるのは困るが、デイサービスで死なれるのはいいのだ。
俺はどちらかというと、母親の方が不思議でならなかった。どうしてボケ老人と約束を交わせられるのか。子供時代、あらゆることから守ってくれた、人ごみのなか、その背中を見失わないように、ソワソワしながらくっついていたあの頃の記憶がそうさせるのか。怒るということは、期待しているからだろう。信用しているからに違いない。「これだけは守ってくれるだろう」という消しクズのカスのような淡い期待さえ裏切られたから怒っているのだと思う。
俺からしたら、両方ボケてると思った。例えば会社においても、相手がわかっているかを確認しないで話を進める上司がいるが、仕事ができる人ほどそれをやることが多い。東大卒とか講師とか先生とかいわれる人ほど、大抵話していることはわかりにくく、書かれている本は読みにくく、覚えがよくて、物事を何でもスイスイと吸収できてしまえるから、頭の悪い人の気持ちがわからないのだと思う。物覚えが悪い人間の方が説明が上手いことが多い。自分がたくさんつまづいてきたから、他人がどこでつまづくのかよくわかるのだと思う。
放っておくこと、自由にやらせておくこと、料理を自分で作らせること、賞味期限が切れたものを食べていたとしても食べさせておくこと。うちの場合は、ババアの冷蔵庫の中が賞味期限が切れているものだらけになっていたことに母親が悲鳴をあげ、そこからババアの飯を作るようになった。当然、買い物まで母親がやるようになったが、そこから急速にボケていった。
賞味期限が切れたものを食ったって死にはしないし、死んだら死んだでしょうがない。一人暮らしのおばあちゃんでボケている人はいない。ボケてたら一人暮らしできないから当たり前だがな。90歳以上でも、一人暮らしのおばあちゃんはみんな頭がしっかりしている。それに反し、実家暮らしで置き物のように置かれ、料理も運ばれてきて、見てるだけで何も頭に入ってこないテレビを見続け、そんな生活をしているうちにすぐにボケてしまう。ボケは、家族が作っているのだ。
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もう一つ、病院について。
さて、何の縛りかはわからないが、このような生活の中でも頻回にババアを病院に連れて行かねばならない。病院に連れて行かなくて済むババアはいない。ババアを病院に連れて行けば、だいたい3時間は待たされることになる。家族は(たいてい母親だが)、日中忙しく、イラ立っている中、もっとも一緒にいたくない相手と、「は〜いお薬出しておきますね〜」というセリフを聞くために、 3時間、待合室で待たされることになる。とうぜん、準備や行き来を加えれば、半日潰れることになる。若者に比べれば少し数値が高かったり低かったりするだけできまって薬が出される。医者の金儲けで終わっていればまだいいのだが、病院に連れていかなかったら世間がうるさい。連れていかなきゃ殺人と同じとみなされる。俺は連れて行かない覚悟を持っているけど、覚悟を持てる人は少ないだろう。ここでもソーシャルアプリのような、監視の目が働いている。
元はと言えば、病院に行かなければいいのである。薬を飲まなければいいのである。高血圧はその必要があって高いのであって、薬で無理に数値を下げたところで解決にはならない。下げた分は別のところで上げられ、今度はそっちを下げるための薬が必要になってくる。目薬ひとつとっても、余計に目を乾かせるだけだし、胃薬も同様。肺に水が溜まっていたら溶解剤は必要になってくるが、パーキンソンなり難病はこの限りではないが、本当に薬が必要なババアに出会うことは滅多にない。昔の人は浣腸を用意しておいて、だいたいの場合は浣腸頼みだった。
うちのおばあちゃんはどうみても健康だったけど、7種類の薬を飲まされていて、週に2回のデイサービスを利用していたが、それだけで保険費用が年間100万かかっていた。頭以外、ほとんど健康のうちのババアで、年間100万だ。とうぜん、若い人の毎月の給料から天引きされているわけで、「こりゃあ若い人が貧乏なわけだわ」と母親もたまげていた。
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愛情について。
しかし、もうひとつ気になったことは、愛情についてである。
ボケても、好き嫌いや、愛情については、残るものらしい。
ある朝、ババアが、「靴がない! 靴を隠された! ○○(うちの姉)に靴を隠されたから外に出れない!」と騒いでいた。靴は、いつもと少し配列が違っただけで、2、3足へだてて普通に置かれていたのだが、ババアは猛烈に騒ぎ立てていた。母が靴を見せたら落ち着いたのだが、近所の人には、姉に靴を隠されて外に出れなかったと触れ回っていた。それどころか、俺が見つけてくれた、ということにまでなっていた。
姉はババアの前で悪口を言うことはなかったが、母に同調するときは、合わせる形で言っていた。こういうのは、本人の前で言わなくても、伝わってしまうものらしい。ボケ老人に対してでさえ。
愛情というのはやっぱり伝わるのか、俺は本当にババアが好きだった。俺は病院に連れて行ったり、料理を作ったり、何か一言、優しい言葉をかけてあげることすらしなかったが、心では、ババアのことが好きだった。ただそれだけである。それだけの仕事しかしていなかった。実際に、いつも、ババアの世話をするのはすべて母親で、病院に連れて行き、ご飯を作って、うんこが便器から外れていたら、戻すのも母親だったのだが、しかし、ババアは俺の前だと理性的になり、ボケをひそめ、いいおばあちゃんを演じ、どこで誰と会っても、俺を褒める以外をしなかった(なぜか俺が29歳なのに関わらず、ババアの中で俺は大学生で止まっていて、毎朝、東京の大学まで通っているということになっていたが)。
母も姉も、「男だからだね」と言って、「やっぱり女同士だとダメだね。デイサービスのお迎えにくるのが若い男だと、それだけで機嫌がいいもん」と言っていたが、さぁどうだろう。まぁそれもあるか。
そこで俺は友達に電話して聞いてみた。「というわけで、母親が全部やっているけど、何もやってない俺の方が幸福感を与えている。どっちの方が偉いと思う?」と聞いたら、「母親」と言われた。
しかし、それにしても、林真理子は母親の介護をしながら、一日に14000字を書いているそうだから、頭が上がらない。林真理子は母親にガミガミ言ったりするのだろうか? 人格を生業にしなければならない作家は、いったいどんな介護をするのか気になるところである。