さいきん、出前館がこのエリアで精力的に展開していて、割引クーポン初回2000円とか、次回も1500円引きとか、ピザ半額とか、どう考えても利益が出なそうな企業努力をしている。
ドトールも、いくら貰ったのか知らないが、出前館専用の窓口を用意して、受け入れ態勢が万全である。俺はドトールに午前4時間、午後4時間いるが、この8時間の間に8人くらい見る。だいたい一時間に一回くらいの割合だ。同じ奴が何度もやって来ることがある。
彼らはみんなTシャツがよれている。一人の配達員を目にして、何でこんなにシャツがよれてるんだ? と不思議に思ったが、次の配達員も、その次の配達員も、みんなヨレている。出前館の制服はヨレているデザインなのか? いや、業務委託だから制服はない。彼らはほとんど完全な自由業で、赤い帽子さえ被れば服も自由、時間も自由、一生運転して過ごすも自由。貧乏になるのも自由。
いくら洗濯機みたいに社会の波に回されていたって、グルグル配達していたって、服がしわくちゃなのとは関係がない。しかし、すぐにわかった。寝てたからだ。注文がない時はいったん家に帰って仮眠していたのだ。赤い帽子をかぶってるけど(出前館は赤い専用の帽子を被らねばならない) 、隠せない寝癖頭がカールしてはみ出ている。
ふーむ。やはりというか、どこから見ても、人に指図されたり、環境や組織の中でうまくやっていけそうにない奴らだ。やっていけないこともないんだろうが、それがすごく嫌だと顔に書いてある。怠け者ってはたから見るとすぐにわかるなぁ。すごく漫画の匂いがする。
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われわれは皆、自分の源に戻らねばならない。すべての人間は自分の源を探し求めているし、いつかある日そこにやってくるにちがいない。われわれは内部からやってきた。われわれは外部に出ていったが、いまや内部に戻らなければならない。瞑想とは何か。それはわれわれの生来の真我である。われわれは想念と激情でわれわれ自身をすっかり覆ってしまった。それらを脱ぎ捨てるために、われわれは一つの想念、真我に対して集中しなければならない。真我は強力な磁石のようにわれわれの内部に隠されている。それはわれわれを徐々にそれ自身へ引きつける。われわれは自分でそれのところへ行こうとしているように想像しているけれども。われわれが十分それに近づいたとき、それはわれわれの他の活動を終わらせ、われわれを静かにさせ、そしてわれわれ自身の個人の流れを吸いこみ、そのようにしてわれわれの個性を殺す。それは知性を圧倒し、全存在に充満する。われわれはそれに対して瞑想しており、それに向かって発展していると思っている。ところが真実は、われわれは鉄の削りくずのようであり、それ自身に向けてわれわれを引っぱっているのはアートマンである磁石なのだ。このように真我発見のプロセスは神の磁化作用の形をもつ。一日中習慣としていつまでも続けられるような状態が生ずるまで、頻繁に規則的に瞑想を実行することが必要である。それゆえ、瞑想しなさい! あなたの瞑想の心構えが生得のものとならなかったがために、またヴァーサナ(vasana)が繰り返し生じてくるがために、あなたは至福を見失ったのだ。あなたが習慣的に熟考するようになったとき、霊的至福を自然に体験できるようになる。アートマンの目標に到達するのは、「私は身体ではない」ということをただ悟ることによってではない。われわれは王様を一度見て知るだけで、王族になるだろうか。人は絶えずサマーディ(samadhi)の状態に入り、その真我を知り、真我を知る前に古いヴァーサナと心を完全に絶滅しなければならない。もしあなたが真我への思いをもちつづけ、一心にそれに注意を向けるならば、集中において焦点として用いてきた一つの想念さえ消え失せ、そしてあなたは、「私」あるいはエゴをもたない本当の真我、ただあるだけだろう。真我に対する瞑想は、われわれの生まれつきの状態なのだ。それは、われわれがそれを恣意的で特別な状態であると思い描くことが難しいと感じているからにほかならない。われわれはすべて、生まれつきの本来の状態にはない。真我の中に安息している心がその本来の状態なのだ。しかしそうではなくて、われわれの心は外部の対象の中に安息している。名と形を取り除き、存在、知識、至福の状態にとどまった後に、再び心の中に戻っていくことを許さないように気をつけなさい。真我に対する瞑想のあいだに、想念は実際、ひとりでに消えていくのである。瞑想はさまざまな対象に向けることができるが、本当の真我に向けられたとき、それは最高の対象に、あるいはむしろ主体に向けられているのである。
書くときは、点から出発しているか、話す時も、点から出発しているか、逐一確認してばかりいる。運動する時もそうだ。
いずれはこの一点の中に吸い込まれいくような妄想をしながら散歩している。陽の光にそのまま溶けていくような。たまに、天気のいい午後に、人通りも少なく、自分だけのために用意された道のように思えて、事実、この世界は自分のために用意された世界、自分が創り出している世界。光の粒子でしかないのだとして、本当の本当の部分に焦点を合わせて歩いていたら、ある時ふと、目の前の全てが光の粒子となって溶けていきそうな気がする。俺自身も一緒に溶けて。
しかし、気がするだけで、そんなことは一向に起きない。もう4年間もそうやって散歩しているけど、夏は夜になると3時間ぐらいは散歩できてしまえるし、冬だって歩く。寒いなんてとんでもなく、冬の午後2時辺りは誰が歩いてもこれ以上ないほど気持ちいのいい時間だ。まぁ、その時間に歩ける自由がある人がいないだけでね(笑)無職で一日8時間ドトールに寄生して、日に3時間も4時間も散歩する、か。我ながらゾッとするほど不気味だ。神を求めて夜も昼も徘徊しているのだ。チャールズディケンズは午後は全ての時間を散歩に費やし、日に30km以上歩き、少なくともこれくらいは歩かないといい文章は書けないと言っていたが、俺もそう思う。きっと、半分溶けてたんじゃないだろうか。作家は溶けるのが仕事だ。
誰だって、心地いい陽を浴びれば、溶けていきそうな気はするだろう。今日こそは溶けていけるはずと思って、毎回、終局のつもりで歩いているけど、やっぱり昨日もダメだった。今日は溶けられるだろうか。運転中に溶けたらどうなるのか。どうしてもこの奥に進めないでいる。起こったこともなければ、確証だってないのにもどかしいと言ったら変だが、もどかしい。このもどかしさがずっと続いている。
YouTubeを見ているときは、溶けていける気がしない。本を読んでいる時もしない。人と話している時もしない。しかし、歩いている時、座っている時、じっとしている時、ゆっくり下腹部に緊張を入れながら運動をしている時、四股を踏んでいるとき、こういう時は、溶けていけそうな予感がある。やはり、そう考えると、純粋な自分の時間が流れているときか。
俺はずっと夢見ていたことがあって、水深10メートルぐらいのところで、酸素ボンベを背負って、熱帯魚たちに囲まれて、そのまま一歩も動かず静止していたいという願望があった。
バイクに乗っていた頃は、いつまでも信号のない道路を走っていたかった。北海道だと、そういう道が普通にあるらしく、北海道の人の話を聞いた時はうらやましかった。バイク通勤で、片道一時間の道が終わると、もっと長く走っていたいと思った。人によってはトイレ掃除など、無心でずっとゴシゴシやってられる人はいるようだが、やっぱりそういう感覚で無心でやってられる仕事がいいと思った。今俺がやってるマッサージの仕事も、無心でやれないこともないが、対人だから、いくらか気を張っていなければならない。全く気を張らず、海の底に沈んでいくようなつもりで仕事をしたい。
麒麟の川島氏は、高校時代のアルバイトで変な模型を組み立てる仕事をしていたそうだが、その際、大喜利のお題を頭の中にいくつか用意しておいて、頭の中でその答えを出すということをやりながら作業していて、平均200個作るのが常とされているのが600個作ってしまったらしい。こんなふうに自由に頭の中で展開させたり、遊んだり、大喜利したり、溶けることを期待しながらできる仕事がないかと考えていて、出前館がいいかなぁと思った。ウーバーイーツと似たようなシステムだから(うちの地域はウーバーイーツはやってない)、好きな時間で仕事をすることができて、ちょうど天気のいい昼下がり、ちょうど溶けられそうな気分になってるとき、バイクに乗り、運転中にそのまま溶けていけそう気がする。
(笑)
俺が昔働いていた印刷工場はここまで単純作業というわけでなく、ある程度全体の工程を意識したり、周りとちょっとした会話を挟まなければならなかったから、全てを放棄して溶けるための集中する時間に適用することはできなかった。溶けようとして、ただでさえダラダラしたやつが、より自分の内面に入っていって沈思黙考されたら、そりゃあ腹が立つだろう。俺はいつも溶けようとしていて、それでいつもイライラされた。社会というのは、いつだって周りを気にしてほしいのだ。仕事ができようかできなかろうが、周りを気にしてあたふたしてほしい。リアクションが大きく、いつも小走りで、電話が鳴ったらすぐに取りに行くような、いつも周囲を気にして緊張感に溢れている小物を演じなければならない。
別に今となっちゃあ、それをやることに抵抗はないし、いくらか楽しみでもあるけど、わざわざ溶けられそうな仕事がある中で、そういった仕事を選ぶ必要もないか。週一だけだったらデイサービスで働きたいとも考えているが。出前館の方がいいか。
外部から見ても何も起こってないように見えても、人は内部にある、その人をその人にならしめている本体、霊魂、それに、偶然にしろ、故意にしろ、フワッと一致した分だけ前進する。たくさん本を読んで、たくさん考えたからといって、根本の部分の、その人の波動が一新されるかどうかは別問題なのだ。ゲーテは一週間たびにシラーに会うと、シラーは全くの別人のようになっていたと言っている。
やはり出前館しかないか。出前館ならやれそうな気がする。まぁ、自分で買いに行くのが面倒臭い食いしん坊さんのお家を探さないとならないから、溶けてる暇もないかもしれんが。それなら新聞配達のがいいかもしれないが。
となると、バイク買わなきゃならんなぁ。バイク! 楽しみ! 楽しみ、それも欲か。ククク! 出前館の奴らも、溶けようとして運転してんのかなぁ? 俺もなぜかTシャツがよれているから、出前館のスタッフじゃないのにTシャツがよれている。