一応、毎日ドトールに来て執筆してはいるが、ほとんどが上の空で、ずっとポカンとしている。別にネットをやったりするわけではないが、そのままボーッとしてしまう。特に何も思いつかないので、ポカンとしていることについて書くしかない。
例えば目の前にいくつかの窓があって、それらを開いたり閉じたりして、外部と結びついたものを書くこともできるかもしれないが、それよりもずっと無色透明なものを書きたい。色がついているものが余計なもののように感じる。
この二ヶ月間、例の通り更新が滞っていたが、何をしていたかというと、何もしていない。何か頭に浮かぶことは余計なものだと思って、なるべくシャットアウトしていて、本も、パソコンも、食べ物も、誰かと会うのも、余計なことに感じられ、本当に何もしないでいた。本当にボーッとしかしていなかった。ドトールでも、何もせずに3時間も4時間もボーッとしている客は俺くらいなもんで、店員からはいつも気味悪く思われているが、いつも以上に気味悪く思われただろう。しかし仕方ない。どうしてもそうする他なかったのだから。一応テーブルの上に紙とペンを置いてカムフラージュしているが、寝るわけでもない瞑想するわけでもない、静かにすべての機能を停止してしまうというのは、
二ヶ月サボったあげく、書かれるものがボーッとしていたこと……じゃあ、読み手も困ってしまうかもしれないが、おまけに何が進歩したとか、そういったものは何もない。しいて言えば、欲が少なくなったことくらいか。外側のことに興味が失せてきて、どこまで無色透明になれるか、それだけを楽しんでいた。今は、それだけが楽しみである。
と言っても、そんなジジイみたいじゃダメか、もっと全力で生命を燃やして駆け抜けて見せないとダメか、俺もそれを望んじゃいるが、何だかね。これじゃあダメか。愚痴なんて書きたくもないが、これじゃあダメだなぁ。無色透明がどうとかダラダラしてることを正当化したってダメだ。でも自分をダメダメ言うのもダメだ。じゃあ寝るか、と思っても、しばらく何も食べてないし何も食べたくないから、寝るにも寝られない。寝るために食べろと言ったって、それも解決にならない。食べて寝て、それがいちばんだと思って何度もこの問題に立ち向かったが、一度も勝利したことはなかったからな。宿便とやらが出れば少しはマシになるだろうか。これは腸の状態が悪いからこんなことになっているのか、身が綺麗になれば心も綺麗になるか。心と体の毒素をすべて吐き出してしまいたい。ただ好転反応でずっと痺れてる身体を引きずりながらボーッとしてるだけだ。馬鹿馬鹿しい。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて、このまま座ったまま餓死できたらどれだけ幸せだろう。
みんな、こうなるのがわかってるから働くんだろう。だけど俺にとっちゃ、働くことはもっと地獄でね。多くの人はこうして部屋でじっとしていることができないから働きに出るんだろう。働かないのにYouTube見ていたって楽しくない、ゲームしたって面白くない。一時間ボーッとしているなら、一時間働いた方が1000円もらえる。こういう計算をするだろう。
こんな感じで、どうも何を見ても聞いても全くはねつけてしまって、情報も食べ物も吸収できないでいたのだが、ヴァージニアウルフの言葉だけは、この短い文章を何度も読み返してしまった。
最愛のあなた
また自分の頭がおかしくなっていくのが分かります。私たちはあのひどい時期をもう二度と乗り切ることはできないでしょう。それに今度は治りそうもありません。声が聞こえるようになって集中できないのです。だから最善と思うことをします。あなたは私をこれ以上ないほど幸せにしてくれました。あなたは誰にも代えがたい人でした。二人の人間が私達ほど幸せになれることはないでしょう。この恐ろしい病気が始まるまでは。もう戦うことができません。私はあなたの人生を犠牲にしています。私がいなければあなたは自分の仕事ができるのですから。あなたはできるはずです。もうこの文章さえきちんと書けません。読むこともできません。言っておきたいのは、私の人生の幸せはすべてあなたのおかげだったということです。あなたは私に対してとても忍耐強く、信じられないほどよくしてくれました。他の人たちも分かっています。もし誰かが私を救ったとしたら、それはあなたでした。私にはもう何も残っていませんが、あなたの優しさだけは今も確信しています。これ以上あなたの人生を無駄にするわけにはいかないのです。今までの私たち以上に幸せな二人は他にはありません。(レナードに宛てた書き置き)
まぁ、俺はこれほどひどい状態でもないし、Twitterみりゃ大半の人間が病気だ。俺より酷いのがいくらでもいる。
自分でも一体何がしたいのか、何の時間を過ごしているのか不明だ。と言っても、ずっとこんなふうにして生きてきたが。36歳になってまでやるとは思わなかった。俺はこれを早く終わらしたいから、悟りだの神だの言ってるにすぎない。他人任せ、神頼み。悟ればこの無為な人生から逃れられると思ってる。自分で何もしたくないから神にやってもらいたいだけだ。バガヴァッドギーターはそれでいいと言っているし、それだけを俺に求めていると言ってくれた。それが嬉しくて、それだけが嬉しくて、だからこうして希望を持って生きていられる。しかし、本当に、真剣に、望め、と言っているがね。こんな状態じゃ夫にもお父さんにもなれないから、おちおち結婚もできやしない。「助けてください! 怠けてばかりいる私を助けてください!」と言って二ヶ月を終えてる男と誰が結婚したいんだか。俺が女だったら死ぬほど嫌だなぁ。恋愛も結婚するためにやるんだから、恋愛もできやしない。恋愛だって、二ヶ月も、「助けてください! 今日もYouTube見てすき家行ってタバコ吸ってオナニー2回してしまいました! 助けてください!」って、二ヶ月それをずっとやってるだけなんだもん。恋愛だって無理だよ。まぁ、今は身体が痺れてて女を見ても何とも思わないけどな。少し食べただけで欲情してしまう男は、このように食制限するしかないのか。まぁ、そうすりゃ、性犯罪は確かに減るだろう。
何も特に話すことがないことは黙っている方がいいように、俺は今日も特に語ることがないから黙っている。すべての外側が憎いし、すべての色がついたものが憎いから、何物とも結びつきが起こらないから、何も話すことがない。憎い憎いと言っているこの俺が、べったり色がついた人間か。しかし、あまりにも暇だ。暇すぎて死にたくなる。死んだ方がずっと楽しそうに思える。坂口恭平さんの自殺志願者の電話相談サービス「いのっちの電話」によると、自殺志願者たちに「退屈してない?」と聞くと、全員決まって「退屈しています」と答えるそうだ。まぁ、そうだろうな。これは精神的な便秘だ。心の糞便が心中をまわり、自家中毒を起こしている。みんな忙しいと言っているけど、退屈なんだ。働きゃ退屈から回避できるわけでもなく、その証拠に俺は正社員時代ガッツリ働いてた時も、退屈以外の感情の何物も持たなかった。
さて、どうするか、特にやりたいこともない。剣道やりたいかなぁ。こういう、ちょっとやりたいと思うことをすぐに手を出してみることが重要なんだろうか。いつもこのブログで偉そうに、人生のコーチング記事みたいの書いてるくせに、結局自分が自分でいちばんわからないや。ま、ブログ書いてるやつなんてみんなこんなもんだ。ブログなんてね、ネットの文章なんてね、世の中には特殊能力使える人がいるんだよ。宙を浮いたり、透視ができたり、水の上を歩いたり、不食だったり、そういう能力持ってる人は、誰の門下に下っていいか自身の能力で判断できない盲目の民を、ちゃんと導けるように、目に見える証拠として、神が指導者としてふさわしいと思って与えたものなんだ。その人の言葉だけ信じればいいって。文字通り、神通力。神を通して使われている力、神の力だ。だから極論、特殊能力の一つも使えないような人間の教訓など受けてはいけない。俺は特殊能力を使える人の本しか読まない。
これは弱音でもなければ悲観して言ってるわけじゃない。楽しいから言っているにすぎない。心優しい読者方は心配して声の一つでもかけたくなるかもしれないが、別に何も気にしちゃいないんだ。全部どうでもいいことだ。本当にどうでもいい。憎くもない。何もない。何もないだけさ。(笑) 今書けるものを書き散らして、それで終いさ。
しかし、こんなのはやっぱ気分だからなぁ。またちょっと散歩でもすれば、15分も経たないうちに、ちんこ出してカラーコーン被ってグラウンドを走り回ってた高校時代と同じテンションが、内側から溢れてきたりするんだから。やっぱ、この辺りも、自分で自分をコントロールできてないだけだな。悲観主義ってのは気分的なものだ。楽観主義は、意志的なものだ。気分で生きていると、こうして乱気流に飲み込まれてしまう。
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。気分に任せて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。それだけでは済まない。やがていらだち、怒りだす。本当を言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服によるものである。(アランはすべての感情が悪いものとさえ言っている)気分に逆らうのは判断力の成すべき仕事ではない。姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、我々の中で、運動を伝える筋肉だけが我々の自由になる唯一の部分であるから
実際には、幸福や不幸の原因というものはなんでもないのだ。いっさいは我々の肉体とその作用とにかかっている。そしてどんな頑丈な体格だって毎日、緊張から沈滞へ、沈滞から緊張へと、しかもたいがいは食事や、歩行や、注意の努力、読書、天気の具合などにつれて、移っていくものである。君の気分は、それによって上下すること、まるで波の上の舟と同じことだ。そういうものはたいていは取るに足りないものである。何かしているあいだは、少しも気にならない。ところが、それを考える暇ができ、丹念に考えだすと、たちまち小さな理由が大挙して押しよせてくる。
アラン