生玄米生活を2週間ほどやって、気力が減衰したりやる気に溢れたり、上下の変動があったけど、頭ははっきりとしていた。本当に欲が少なくなる。母親が大腸を悪くした時、完全なローフード生活を勧めたことがあったが(さすがに生玄米ではない)、「これをやっていると、生活そのものが楽しめなくなる。生きていてつまらない」と言っていた。まぁ、そうだろうと思った。それは俺も常々感じることだ。病院で嚥下食を食べている老人たちもそんな顔をしているし、生玄米をやってると、確かに人生がつまらなくなる。何の楽しみもなくなる。すべての楽しみの導火線は食にあると言っていいと思う。おいしいものを食べられなきゃ、人生など何も楽しくないのだ。
でも俺はそこがいいと思っている。食事に楽しみを抱くと、そこからすべてが崩壊していく。風俗やポーカーゲームみたいなものだと思っている。しかし、同時に、向かうべき欲には働きかけてくれる気がしている。欲には、向かうべき欲と、向かうべきない欲があって、向かわなくていい欲をすべて排除してくれる気がするから、生玄米にこだわっている。体重は61kgから54kgまで落ちた。俺は2週間あれば、平気で10kgぐらい上下する不思議な身体だ。一週間あれば元の体重に戻る。俺はほとんど水でできてるんだろうか。いつも半分くらいは餓死を期待しているが、全然死ななくて困っている。
二ヶ月、買ったり買わなかったり、食ったり食わなかったり、欲と戦う以外、何もしない、無限に湧いて溢れてくる水泡にレーザー光線を当て続ける馬鹿げた戦いだ。欲はやっぱり向かい合って戦うものではないね(笑)アンチのように無視していなしてしまうのがいい。自分の中に入れないことが重要だ。まぁ、ここで言っている欲というのは、物欲や食欲に対して言っているわけではない。自分自身を制御できないことについてだ。人間は欲があって当たり前、決して乗り越えられるものではない。かけばかくほど広がっていく傷口みたいなもので、放っておくしかないのに、頭の中からスッと抜いてしまう以外に方法はないだろうに、一生懸命、欲と、欲の反対を追いかけた。
それでまぁ、2週間ぶりに火食をしたわけだが、玄米一合半食べた。一合にしておけばよかった。やはり火食は食べすぎてしまう。あんまりウマイからバクバク食べてしまった。納豆を3パックを2個買って、6パックも食ってしまった。15口くらいまではウマくて頭がしびれたが、途中からはグナからくる背後のエネルギーに突き動かされ、箸をすすめる手を止められなかった。これは俺じゃなくてグナ(タマス)が食べている。タマスが何なのか知らないが、悪きエネルギーが悪を貪っている。俺とは違う何かだ。こんなに頭がボーッとするものかとびっくりした。何も考えられない。寝転がってYouTube見る以外何もしたくなくなった。まぁ一合半に納豆6パックだから、火食がどうというより、食べ過ぎなんだろうが。
物質的なものをもう追いたくないし、追いかけられたくもない。いや、やはり俺が追いかけている。精神的なものだって追いかけたくもない。酒、タバコ、女、食べ物、愛、人間、ただ波動だけで幸福でありたい。
こんなに違うものかとびっくりした。たとえばポテトチップスの袋を開けて、袋の中のポテチを2つか3つ食べるだけで済ますくらいだったら、最初から何も食べない方がずっと楽だろう。いつも、一合で済まそうと思っても、2合食べてしまう。一食で2号といったら、なかなかの大食漢だろう。その上に納豆6パックだから、なかなかの食いしん坊だ。タレはつけないようにしようと思っても、2合もタレなしで食えるわけねーだろ(笑)そう、半分以上進んだところで、味変とか称して、やっぱりかけてしまう。「さるかに合戦」というふりかけも、地球上でいちばん美味しいふりかけと知り合いから勧められ、食べた。地球上でいちばん下品な味だったが、確かに、地球上でいちばん美味しいふりかけかもしれないと思った。こういうと、皆さんも飛びつきたくなるだろう、あれがウマイ、これが美味しい、これがお得、そうやって次から次へと欲望を追いかけて終わるだけだ。
これは何でもそうで、ちょっと酒を飲んだり、ちょっとタバコを吸ったり、ちょっと人の悪口を言ってみたり、ちょっとちんちんを弄ってみたり、このちょっとほど危険なものはなく、俺も友人からもらった一本のタバコから、一年もダラダラと吸い続けることになってしまった。また、良いことも、ちょっとやってみるだけで、意外と続けられてしまうこともある。今だって、ちょっと昨日の食生活について書いてみようと思って、というより軽くメモだけしておこうと思って、1000文字以上書いてしまっている。俺はちょっと美味しいものを食べるぐらいだったら、限界まで食べてしまいたくなるから、もう、ちょっとも食べたくない。
本当に、クスリのように、味を楽しむことなく、ただ命を繋ぐ、うちの猫もそんな顔をしてキャットフードを食べているし、羊やヤギも、不味そうな麦を生のまま食べている。あれはどんな気持ちで食べてるんだろう。ライオンもそうだ。塩が振られていない、焼かれてもいない、シマウマの生肉や内臓を食って美味しいのか? 何百匹のアリが自分の何倍ものあるスズメバチの死骸を運んでいるけど、あれはご馳走だろうが、美味いと思って食べてるのか? うちの猫でいえば、キャットフードはまずそうに食っているが、猫チュールはとても美味そうに食べている。動物にも味覚はあるのは間違いない。
俺の場合は、金の節約もあるが、欲を制御できるように、バガヴァッドギーターにはうるさく欲を制御しろと書かれているし、いつも、いつも、この欲によって苦しめられてきた。タバコもそうだろう。言わなくていいことを口走ってしまったり、昔理学療法士として働いていた時、よく深く、いつも自分のことを優先する人間は、周りから信用されなくなる。確かにウマイものを食べりゃ美味しいし、セックスすれば気持ちいいし、たくさん食べて13時間寝るのも気持ちいい、ポテトチップスとポップコーンとコーラを用意して一晩でポケモンを全クリするのも楽しい。適度に欲を満たす方が、俺はよっぽど難しい。すべての不幸や苦しみは欲からきている。すべて外側にあり、色がついていて、まるで神に、「私のところにくるか、それともそれらの塵芥のもとに留まるか」と試されているようだ。酒やタバコやギャンブルをする人を人は見下すが、手を替え品を替えみんな同じことをしている。一人で欲望を満足させるのに耐えかねなくなると、二人でツーリングに行ったり、恋愛したり結婚したりする。他人に欲を満たしてもらおうとする。
最低限、クスリのように、食うだけで命を繋いで(別に繋がなくたっていいのだがw)、無駄なものを排除し、必要なものだけを整え、外側にいたずらに意識を向かわせず、ただ内側の気海丹田、中心からくる光のみを食して生きていくことはできないのか。そこから、そこだけから最高の幸福感を得て、あとは何もいらない、と、そういう状態になることはできないものか。俺が尊敬する多くの偉人たちはそれを成し遂げたのではあるが。
風呂も、毎回長く入り過ぎてのぼせる。身体を悪くしに行っているようなものだ。水浴だったらこんなことは起こらない。何でも楽をしようとしてばかりいる人間が周囲に迷惑をかける。ぜーんぶぜんぶ、欲だ。もし、物質的な欲をこえ、内側の至福だけを味わい、それによって一切を苦行と思わず、常に至福でいられたら、俺はそれが幸せだと思う。欲は悪いものかどうかと、ずっと思考実験したところ、やはりすべて悪いものだった。地獄への片道切符でしかない。