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身にたのしみをたくまず

ずっと前から、いい加減に肉体と心の暴政から解放されたい、いや、卒業しなければという思いに駆られていて、やっと少しスタートを切れた。生玄米生活も板についてきて、タバコもやめれたし、自分で自分の生活を意のままにコントールできるようになると、それだけで幸せである。

なぜこんなにも自分を意のままにコントロールするのが難しいのか、怒りたくなければ怒らなければいいし、苦悩したくなければ苦悩しなければいいし、思うことを少なくしたかったら少なくすればいい。俺はいつも肉体と心の支配下にあって、その主人になれない。いつも肉体と心から発令されるものに従って、後手後手に周り、彼らの命令の通りにしているにも関わらず、心身を消耗させるだけだった。この間、一度も幸福だと思ったことはない。というより、ずっと地獄だった。俺の人生は、このままだと、肉体と心にされるがままで終わってしまう。

怒りも苦悩も、楽しみを覚えなければやらないものだ。苦悩でさえ、楽しいからやっているのだ。本当に俺はそんなことしか楽しみを覚えられないのか、この地上で、そんなことをするために生まれてきたのか。笑ったり怒ったり泣いたり、感情をいたずらに動かして、感情をいちばん上からいちばん下へ動かし、それが充実しているということか? ふつふつと小虫みたいに沸いてくる雑念に組み伏せられ、一体、本当の本当の本当のところは、何なのか、人は本当の本当の本当のところだけを生きていけばいいはずだ。それがこの地上にいる理由だ。それを困難にしているのは何か、考えればすぐにわかることだ。欲だ。俺はいつも欲に邪魔されている。欲のために苦しんでいる。

欲というものを、皆さんは決して悪いものではない、生きていく上で必要なもの、人間にとって必要な生理的要件だと考えていて、忌むべきものではないと考えるだろう。じっさい、マッチングアプリを開いてみても、プロフィール画像は食べ物の写真ばかりで、デートにしたって綺麗な景色の中で綺麗な食事をすることが当然だと考えられ、恋愛それ自体の性格が、互いに欲を満たし合うものでしかないとつくづく感じる。エゴとエゴのシーソーゲームというより、欲と欲とシーソーゲームという方が今はしっくりくる。

誰だったか、理学療法士の後輩の男だったか、そいつが彼女とデートしているとき、「私たち、楽しいことしかしないね」と別れを切り出されてしまった。「楽しいことしかしなかったらダメなの?」と、未だにその時のことを思い出してよく落ち込んでいたが、それを聞いて俺は、女もまた、ただ楽しいことだけをしていたいわけでもないんだなと知ることができた。

欲は3つに大別される。肉体の欲、感情の欲、霊性の欲、その他の欲はすべて排除して、無色透明の中心の中心にある、真芯、気海丹田でも神でも何でもいいが、肉体も心もそのための道具にすぎないのだから、道具は楽しみを覚えるためにあるものではなく、必要なことをするためにあるのだから、ただ手入れだけをすればいい。

正直な話、玄米菜食の一日二食で、よく噛んで食べ過ぎなければそれで十分だと思う。しかし俺は、食べ物に対して美味しさだったり、味覚を楽しませようという気分が全くなくなってしまった。そういう考え自体に嫌気を指すようになった。食べ物は薬と同じと考え、単に飢えをしのぐもの、本当に必要な最低限だけ摂ろうとしか思わない。そのため、俺にとって玄米納豆ご飯はあまりにも美味し過ぎてしまうため、食べ過ぎてしまう。一杯だけだと我慢できなくなって、3杯も4杯(2号)は食べてしまい、納豆も6パック使い切ってしまうため、おまけにそうなると付属のタレをつけてしまうし、まぁケンタッキーで食べたりするよりマシかもしれないが、案外そうでもない。色々な本を読んだ結果、食べ物は質より量の方が大事ということを学んだからである。

中村天風先生は、このように長年食生活について自分の身を使って実験してきたけど、それが本当に正しいか証明するために、自身が80を越えるまでは決して公に語らず、いくら頼まれても本を出版したりはしなかった。天風先生でさえ80歳まで待ったんだから、俺ももっと焦らずゆっくりじっくり研究するべきなのだが。

そんなに身を楽しませることが大事なのか、おいしいことが大事か、おいしいから何だというのか、本当に身体が喜んでいるか、心もそうだ、思考もそうだ、今、頭にあること、心にあること、それがそんなに大事だというのか、

俺なんて別にどうなったっていいじゃないか。俺がなんだっていうんだ? 死のうが生きようが、その辺でくたばっていようが、何を食べようが、砂を食べようが土を食べようが、どうでもいいことだ。大事に世話をしてやる必要もない、ただの36歳、ニート、静岡一市民だ。

結局どれもこれも、自分の身と心を楽しませようとする欲から全部苦しめられている。俺の現在が、暴飲暴食していた頃に比べ、今の方がずっと楽しいのだから。

まぁ、皆さんに生玄米を勧めているわけではない。ほとんどの人は無理だろう。うまくも不味くはないから、食べ物に対して味覚を求める旅をやめよう、と決意した人間にしか、無理である。

この美味しさがいつまでも続くものならいいが、一時的なものである。そして食べた後は頭がぼーっとして気持ち悪くなって、ねむくなったり、ダラダラしたくなることがしばしばだ。そしてまた眠気が覚めてきてやっと活動的になろうとした時に、また食べたくなってきて、当然、また食べて眠たくなる。食べて寝て、食べて寝て、これの繰り返しだ。事実、こうして一生を終える人は少なくないだろう。俺のこれまでの半生など、こんなものだった。大学4年間は三食肉を食って、一日14時間寝ていた。

多くの人は、タバコや酒やがギャンブルに依存している人を馬鹿にしているが、砂糖や塩分における依存の方がずっと大きい。こちらから抜け出す方がずっと大変だ。塩漬けにされている。

では生きることは苦行か、ただ霊性における食事を楽しむ。霊性に栄養を与え、霊性の喜びを糧にして生きていきたい。何だか、こうして書くと、ストイックに頑張ってるなぁと思ってしまう人もいるかもしれないが、働きもせず、食って寝て、食って寝て、うおおおおお! とやっていただけである。

「欲望にはね、苦しい欲望と、楽しい欲望と、二つあるんだよ。

叶わない欲望を心に描くと苦しいんだ。しかし、これは欲望の格好をしている、違ったものだと私は言いたいんだ。本当の欲望というのは欲しがりゃ欲しがるほど楽しいものなんだ。

そこで、人間の心に燃える欲望というものを、分析的に分けて考えてみよう。

四つあるんです。

第一が本能の満足

第二が感覚の満足

第三が感情の満足

第四が理性の満足

この四つが普通の人間に絶えず燃えてる欲望なんであります。気のつかなきゃならない事柄は、この四つの欲望には、際限がないということ。

これでよいという際限がないために、それがどうしても、苦しい欲望と変化しちまうんだ。

楽しめる欲望で、どんなにしても不満足を感じないで、いつも何とも言えないエクスタシーを感じて、取っ組んでいける欲望というのは、霊性の満足を目標とする欲望だってことだ。

霊性の満足とは、自己の言葉や行いで、よろしいか、他人を喜ばせることを目的とする。霊性の満足ぐらい、生命における消耗と疲労の率が少ないものはないんだよ。

ただ誤解しちゃいけないよ。本能や感覚や感情や理性の生活を断然しちゃならないと言っているんじゃないんだよ。

ただ、それに執着しちゃいけない。

執着しちゃいけないとよという執着から離れようと思ったら、それを離れようと思わないで、霊性本位の生活の方へと自分の心をふりむけていくと、しぜーんと離れちゃう。

だから、キリスト教にもあるね、恵まれたときよりも、恵んだときのほうが喜びが大きいと。

とにかく人の世のため、いやでも誠と愛というものがでてくる思いやりの状態のまんまで生きてごらん。

もっとはっきり言っちまうと、あなた方の本当の心の姿で生きてりゃいいだけなんだよ」

中村天風

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