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UFOキャッチャー

自分の中にもう一人の自分が内観される。

怒り、悲しみ、苦悩、感情、心、不満、愛、感傷的なもの、無色透明でないもの、色がついたもの。何でもいいが、何と多くの色がついたものが目の前に浮かんでいることだろう。

この中のどれを一つ掴んでみたところで、容易く別の誰か、知らない人間となってしまう。

掴んで離して、掴んで離して、いや、ほとんど、掴みっぱなしと言えないだろうか。

もう何も掴みたくはない。掴まないまま、生活を送ることはできないだろうか。

何か食べたい。シュークリームが食べたい。シュークリームが頭に浮かぶ。すると、シュークリームが食べたい人だけの人になってしまう。

近所に、30年ドイツで修行したパティシエが地元に戻ってきたらしくケーキ屋を開いている。そこのシュークリームが美味い。歯応えのあるがっしりとした生地で、それでいて、惜しみないほどクリームが詰め込まれていて、そこに30年の工夫があるのかはわからないが、つい買って食べてしまう。一つ食べるだけだと物足りなくてストレスになるだけだから、一つ食べるだけなら絶対にいらない。一つ買うだけならうんざりするから、買うときは3つ買う。一つ250円だから、750円だ。

スーパーのレジの前でおばさんがSuicaのカードを出して、ああこのカードじゃない、あれじゃない、これじゃないと財布を開いてバタバタしていて、俺は別に急ぐわけじゃないのに、この後の予定は散歩しかないのに、俺は残念ながらイライラしてしまった。ここで自分の内部を観察したところ、イライラしている自分と、全く動じない自分と、二人の自分がいた。ババアのカゴの中には白菜、にんじん、トマト、ブロッコリー、レタス、キャベツ、刺身のパック、いかの唐揚げ、焼きそばの麺、カップラーメン、1.5ℓのお茶とコーラ4本、米10kg、味噌、ポテトチップス、キノコの山とたけのこの里とが両方入っていて、合計金額が11400円くらいだった。それらはすべて無色透明ではない。無色透明の軌道に従っていると、こういう買い物にはならない。色のついた方に吸収されると、こういう買い物をするようになる。

しかし俺も俺だ。この程度でイライラしてしまって。俺だって色に少し吸収されているからイライラしているんだろーが。ごめんなさい、ごめんなさい、とスーパーのポイントカードが見つからなくて、必死に頭を下げてる分だけ、ババアの方が殊勝なものだ。ババアの買い物カゴ、俺のイラ立ち、キノコの里とタケノコの山(どっちが里だか山だかわかんねーよ、イライラすんなぁ)、色ばかりがある。

怒っている自分と、もう一人の静かな自分と、それらを同時に見ている自分がいる気がするが、だとしたら何だろう、俺は三人いるのか?

人間、何かと結びつかないとダメなものかね。手塚治虫はあれだけ大量の作品を生み出しながら、ほとんどは不満を書いているに過ぎないと言っていた。確かに、不満を書く時がいちばんペンが進む。これも、不満を書いているに違いない。

ただ、何もないと、空っぽの心の中にイメージが入ってきて、そこから書き出せたりするものだ。となると、やはり無色透明がものをいうか。

年を取るにつれて、もういい加減、これらの付き物を剥がしたくなってきて、感情、理念、欲望、宗教、愛、心、ぜんぶ、どんなに軽いものだとしても、発生した時点で邪魔に感じる。このシン……としたままの状態のまま終わらせられないものかと、いつも思っている。はやく死にゃあいいのにといつも思ってる。精神の自殺。俺が苦しんだとか泣いたとか、だから何だと言うのか? 俺が苦しい? 辛い? うーん? 俺の心ってそんなに重要か? 本当かそれは? 本当に俺が苦しんでいるのか? 俺だって俺がどこにいるのか誰かすらわかってないのに? もし何かが起こっているとしたら、それは付き物の方だ。憑き物と言ってもいい。俺は決して動じていない。俺は色の方ではなく、こちら側に吸収されてしまいたい。

生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ、と言ったって、これは意味よりも先に言葉がきたものだろう。シンとした空気の中からやってきたものだ。しかし、生きるべきか死ぬべきかそれが問題だという、謎に頭の中に残るこの言葉の意味は、この、本体への吸収についてを言っているんじゃないか。

しかし、ババアはただ買い物カゴを差し出して買い物をしているだけで、店員は店員でレジを打っているだけで、これだけ見ていると、彼らの方が無色透明な気がする。多分、間違っても、いま俺が書いたことを考えてはいないだろう。

俺はずっと前から思っていたけど、たぶん人より煩悩が多い。煩悩が多いから人より仕事ができず、仕事を教えてもらってるときでも、(こいつは今、自分にちんこが生えていることを忘れている)とか思っている。そうして、この煩悩のおかげで文章を書くことができている。いつだって、頭の中のうるさいおしゃべりを書き出しているに過ぎない。

俺は他の人になったことがないからわからないが、俺の方が雑念が多い気がする。いつもいらぬことばかり考えている。空っぽだからたくさん入ってくるのか、それだったらまだいいが。気づきやすいと言えば聞こえは良くなるが、そういう甘い考え方も、自分の停滞を招くだけだから戒めたいところである。

感情、欲望、怒り、不満、心、愛、肉欲、精神、理性、それらがどうしても外側にあるものとしか思えなくて、どれもこれも眼前に並べられた罠のように思えて、それらはどこまでいっても、付随物、アクセサリーで、自分本体ではない。俺は暗い性格だとか、怒りっぽいだとか、私は能天気とか、神経質だとか、それらの言葉は本当のようでいて嘘くさい。ただ着ている服の感想を述べているようにしか聞こえないところがある。

今は、昔より、(ああ、今、心に○○があるなぁ)と、本体の上に何がどれくらい乗っているかという、差別化ができるようになったくらいで、これも少し静けさを欠くと、すぐに認識できなくなってしまうが、人はいつも何か一つと同化して、それを抱え込んで離さず、そしてそれを自分自身だと見定めていて、その弊害は計り知れないだろう。俺はこれまで、自分の意志で何も持たず、何も持たないまま話す人間を見たことがない。一人いた、赤ちゃんだ。

いつも心に一物がない状態をニュートラルにしておいて、そのありようを実感していれば、何か物を持った時、わかるようになる。はっきり言ってしまえば、何か心に物を持っている時は、自分が馬鹿に見えてならない。

「善は真実の近くにあるが、それでも真実とは異なる。悪によってかき乱されないことを学んだあとは、善によっても幸せになれないことを学ばなければならない。私たちは善と悪の両方を超えている、ということを見いださなくてはならないのだ」スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

徳を積もう、良いことをしよう、他人に優しくしよう、他人には愛を、もっともっと何かしないと……これもどうだろう。聖も邪も愛も幸も不幸も付き物と言えば付き物だ。すべてはもう一人の俺が全部なんとかしてくれる。俺はただそこに吸い込まれればいい。最善は全てそれが行なってくれるだろう。愛だの善だの言ったところで、心の中に曇りが発生して、荷物になれば、本体が正しく動けなくなる。心は捨てることで初めて発揮される。心それ自体が、無色透明で、真、善、美であるから、もう一人の自分が善以上の善を持って対応してくれる。ただくもりだけを取り除けば良いのである。良いものを付け加えようとするのではなく、良いものも悪いものも全て取り払ってしまうことが大事だ。完成された果物に塩や胡椒をかけるのは不躾なように。

この世界には、無色透明とその他しかない。白紙と上塗りされる色しかない。水とコーラやジンジャーエルみたいな関係だ。味が何だと言うのか。感情が何だと言うのか。およそ自分と関わりあるものだろうか。ただ神経刺激が発生し、塩分が塩分を呼び、無色透明から分かれたいくえに続く道があるだけだ。まっすぐの道と、いくえに分かれた道があるだけだ。

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