毎朝5時か6時か、時には11時だったりするけど、毎日ドトールに行っているけど。それはほとんどゼロ秒思考をするためである。家では環境を整えてみたけど、結局ほとんど書かない。部屋にいるとダラダラしてしまうが、ドトールに行くとなぜか身体が勝手に動いて書けてしまう。やはり習慣の力はすごい。なるべくなら自分の意志で全てをコントロールしたいけれども、できないところは習慣の力に頼っている。
ゼロ秒思考というものがあって、とにかく書く。考えずに書く。頭にパッと浮かんだものを、そのまま拒否したりせずにそのまま書く。内容もキャラもストーリーも考えない。デジタル器具は使わずに紙とペンだけ使って書く。本当に内容は何もない。ただ思いつくままに書くだけだ。
こうしていると、日々同じことしか書けない。だけど、それだけ俺の芯にあるものだということだろう。毎日、毎日、だ。これしか浮かんでこない。
俺もこんなことはバカバカしいし、もっと面白いものを人に見せたいし、俺だってもっと面白いものを作って自分で楽しみたい。本当はくだらなくて笑えるような、まぁいったって本当にどこまで面白いかわかったもんじゃないが。自己療養への些細な営みでしかないか。まぁ、確かに頭の中でうだうだやっているよりは、気持ちが楽になる。毎日、これをやらないと気分がスッキリしないくらいだ。
これはもう二年くらい毎日やっている。ゼロ秒思考の作者は、これは人に見せちゃいけないし、引き出しの中にしまっておきなさいと言っていて、まぁ、俺も恥ずかしかったし、見せるもんじゃないなぁと思っていたが、頭やテクニックで書いたものよりも、いいんじゃないかなぁという思いもあった。ブログなんてものはそんなもんじゃないか。日記だ、こんなものは。しかし、書いても、書いても、本当に同じことばかり書いているものだ。紙とペンでたくさん書いて、本当にたくさんたくさん書いて、パソコンに移すのだけが億劫で、本当に同じことしか書いてないし、明るいものでもないし、むしろ暗くどんよりした、読み手の気分もへこませるもんばかりだったから、そのままにして放っておいた。一応は捨てずに取っておいた。案外、読者というのはこっちの方が読みたいものかもしれない。人はその人が見せようとするものより見せまいとするものを見たがるもんだ。
まぁ別に減るものでもないし、更新はまったくする気にならなかったが、このゼロ秒思考を書いてばかりいた。同じ内容が重複ばかりしていて、読んだって別に楽しいものじゃないが、流石に読めるようにパソコンに移す上で推敲はしておいたけど、ブログなんてもんはただの個人日記だ。滅多に見返すもんじゃないが、それでもやはり書き続けてきてよかったと思う。
ゼロ秒思考というのは、もっと箇条書きで、自分だけが読める汚い字で、とにかく速く書き、そのスピードでなければ、嘘が間に合ってしまうから、本当にゼロ秒で、本当に速射で、本当にいちばん初めにくるものをパッパッパッと書いていかなければならないのだが、俺は結局書きながら考えてしまっていたし、コーヒーを飲みながらゆっくりポツポツ書いている意識の流れの方が自分に合っていたのか、結局、気づけば、ゆっくりゆっくりポツポツ書いていた。これと同時にまた別に書きたいことがあって、それを日に一万文字くらい書いていたが、それもキリがついたので、あとはずっとゼロ秒思考をやって過ごしていた。しかし、ゆっくりだとやっぱり嘘が間に合ってしまうんだなぁ〜。
しかし、二ヶ月もゼロ秒思考か。それもなんだかな、書いてりゃ次に行くもんだと思っていたが、まったく次に行かない。何を好き好んで。毎日同じ文章を書いてるのか、どうやら当面はこれしか書けないのか、それともここが終局なのか。わからないが、ぼんやりと点となって、ドトールの一風景と化し、ただただ胸の中心にあるものしか書けなくなってしまった。終わったなぁ、オワコンだ。進もうったって自分の意志で進めるもんじゃないんだから、どうしようもない。今だってそうやって書いている。本当に何もない。生玄米のせいか。まぁ、書いていて気づいたが、文章というのはもともとそういうものなのかもしれない。誰かが、文章とはもともと自己療養へのささやかな営み、だっけか。確か、村上春樹の「風の歌を聴け」にあったセリフだと思うが。もともと文章というのは、今では登場人物が出てきて、人に情報を与えたり、楽しませたり、さまざまな工夫がなされているものだが、ただ胸にあることを正直にポツポツ書くためのものとして、平安時代だっけか? (笑) 全部あやふやで申し訳ないが、5chでどっかの品のない男が、いちばん初めは文章は日記だったと、そんなふうにウンチクを披露していて、なるほどなと思った。
と言っても、文章にこだわりというものはまったくない。俺の文章がうまいとか言う人もいるが、それは本を読まない連中が言っているだけだ。小説投稿サイトだと下手だと言われる。俺は物語的なものを読まないから、背景や状況描写みたいなものは書けないし、この数年、語彙はまったく増えてないし、外側にある言葉や文章を使いたいとも思わない。自分の中ではっきり不純物だと感じられる。外側と言ったって、外に自分を発見するから、外に現れている自分の言葉を見つけた時にしかそれは手に入れられない。手に入れるというより、取り戻している感じだ。自分の再発見、散らばった自分のピースを取り戻しているようなものだ。それ以外は、学んでも学んでも、すぐに忘れる。自分の内側からスッと出るものだけを使って、この数年はそれをずっと洗練させてきただけだ。瞑想的といったらそうかもしれない。心境を書くしかできない。日記しか書けないのだ。
俺は自分のことをよく晒しすぎだと言われるけど、自分じゃとてもそんなことは思っていない。むしろビビりだ。人前でちんこを出してカラーコーンをかぶって運動場や体育館を走り回るのはお手のものだったし、今だって、地球が絶体絶命になって、誰かが全国放送の生中継のカメラの前でちんこを出さなければ救われないとなった時、ノータイムで挙手ができる。(ひょっとしたらこいつ出したいのか?)と勘のいい人には勘繰られるかもしれないが、とにかく一瞬の迷いもない。ただ、自分の本当の気持ちってもんは、なかなか人間難しいものだ。小説投稿サイトなんかみても、みんなキザったらしい。普通に素直に書きゃいいのに、離婚した経験がある人もいるから、喧嘩したこと、思ったこと、相手を責めたり、自分を責めたり、正直にぜんぶ吐露すれば、それだけで立派な作品になるのに、みんな、それが読みたいのに、綺麗な、外装ばかりの、行ったこともないアメリカの大地で車を走らせ「ハーイ」と外人とタッチするような作品を書いたりしている。
別に不満を書きたいわけじゃないし、苦悩を書きたいわけじゃないのだが、どうやら文章という性質がそうさせるらしい。不満やマイナスの感情が、素直や正直となって、人に共感を抱かせる。不満がいちばん強いパワーかもしれない。不満ばっかり書いてりゃいいってことになるが、はたしてどうだか、そこがゴールだとは思わないが、無視できないところだ。そのせいか、無になろうとすると、本当に無になってしまう。書くことも、無だ。文字通り、何もない。じゃあとりあえず不満を書くかってことになる。だから今書いているものは二次的なものだ。一次的なものは空っぽで、仕方なく二次的にある不満を書いている。
まぁ、大して何も悩んじゃいないんだが、いざ書くということになると、苦悩や不満を書いてしまうだけだ。それは潜在意識に刻印されているからか、それとも文章という形態がそうさせるのか、わからないが。このゼロ秒思考が楽すぎて、他の文章が書けなくってしまった、これじゃ情けないけど、事実そうだ。このままずっと更新しないのもつまらない。今日は店主はいるかな? と毎日訪問しにきてくれるお客さんに、もてなしの一つもできないことも残念だ。俺も、今日はさすがに、さすがに……、やってるよなぁ? と思って近所の好きなラーメン屋に行くけど、いつも店主がいなくて、本当に似てるなぁと思う。
この、鬱屈した、ゴミみてーな文章がどれだけもてなしになるかわからないが、何も更新しないよりはマシかもしれないと思って放出した。この後、こんなのが30記事ぐらいが続くが、この後に、ブログ用の記事を書いたりしたのだが、どうもペンが進まない。やっぱり素直に、正直に、今あるものしか書けないか。わかっていたつもりだが、まだまだわからない。