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ただ気づくということ

もし気づきがなかったらどうなるか考えたくもないことだ。

気づきがなければすべてはない。仕事を例にとって考えてみれば分かるとおり、大体バタバタ働いている人はあるべきタイミングを無視して動いている。反対によく気づく人は動作がゆっくりなのにそつがない。どんなに努力も気づかなければ無意味どころか自分も周囲も傷つける結果に終わってしまう。

赤ちゃんには気づきだけがある。赤ちゃんの目を見てみると、気づきだけがあることがわかる。いいか悪いかものを考えたり精査したり思考や感情の世界へ旅立つことはない。泣くときも一瞬で泣く。おっぱいを飲んでいる時でさえ、何かを掴んで離すときでさえ、そこに一切の心がない。

気づきだけの存在にあろうとすると、沈黙ばかりになるだろう。すべてに気づいているには静寂が必要になる。気づきは静寂の中にしかない。

気づきは嘘はつかない。ただあるがままをそのまま映す。そのあとの二次的な解釈はない。余計だ。

多くの場合、Twitterがうるさいのは、解釈や分析がうるさいのだ。気づきなら、ただのそのままの気づきであれば、それはうるさくならない。

神の直感的な啓示はうるさくならないけど、その後の人間のマインド、想念は、人に煩わしさを与える。

そしてその気づき自体が、その人自身に他ならない。

気づきのままの状態で過ごしていると、間違いなく変人といわれる、気づきのままで過ごしていると、沈黙になる。

心ほど人を苦しめるものはない。心を募らせれば募らせるほど、人は不自由になり、そこに創造性もなければ、意味もなく、生命もなく、ただひどく肉体を疲れさせるものである。

心に何もなければ、不思議なことに、より人間らしい表現をするようになり、他者から見ても人間らしい生き物のように見えるだろう。より自然に笑えるようになり、より自然な人間らしい表現をするようになる。

サークシの境地にあるということは、仕事をしないで、家も家族も放り出して世間的な義務を果たさないで、日々を過ごすことを意味しません。そうではなく、例えば子供の学校のこと、勉強のこと、両親の健康のこと、そして妻または夫のことに注意を払いつつも、こうした外的な事のまっただ中にありながらも、起こることに対して、あるいは自分が行うことに対して、鑑賞者の態度を保つということです。サークシの境地にいる鑑賞者であるということです。外側で何が起ころうと内面は静寂を保ち、乱されることがありません。アンマ

私たちの問題は、心に起こった全ての感情と自分自身とを同一視することにあります。その感情と一体化してしまうのです。何かに腹を立てると、私達は怒りそのものになってしまいます。恐れ、不安、興奮、悲しみ、幸せ……。どんな感情についても同じです。それが肯定的な感情であれ否定的な感情であれ、私たちは心にわきおこった感情を自分自身と同一視して一体化するのです。それは仮面と一体化するということです。アンマ

それは俺がこれまでやろうとしてきた事ではあったけど、それがいちばん大事で、今もここにあるもので、完全に心を明け渡して、自分を明け渡しさえすれば、この旅は終わる、俺は本当に自由になれる。今まで何度も同じ本ばっか繰り返して読んできたけど、結局自分が誰なのかというところに帰結する。全ての聖典、すべての聖者、全く同じことを言っている。自分が誰かを知れということ、瞑想も、食事も、それの手助けでしかない。

今話してる時も、書いている時も、それが純粋な意識からきているのか、心からきているのか、感情からきているのか、気づきからきているのか、俺はそこに注意深くする。

デカルトは、人間の認識するすべての対象の実在性を疑った。人間もまた人間の認識による対象なので無論人間の存在も疑った。疑い得ないただ一つのものを己の意識と見い出した。

ぎゃはは! しかし、胃もたれがする文章だぜ!

こーんなことを考えていると、何もできなくなっちまうからな。やはり危険な方にかけるべきだな! 素直にならなくちゃいけない!

なろう系の主人公みたいだぜ!

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