霊的修行 ブログ・文章論

こうしてドトールで座っていると

6月某日。今日が何日かわからない。こうしてドトールで座っていると、みんな手を止めることなく動いている。店員はもちろん、他の利用客も誰かと話したり、ノートパソコンを叩いたり、勉強したり、仕事したり、動いている。

それを羨ましく思う。小生は何をしても止まってしまう。今日も確か執筆をするために来たはずなのに、かれこれ2時間ぐらい止まっている。別に瞑想しているわけでもない。自分の内側に集中しているわけでもない。心を眺めているわけでもない。探求しているわけでもない。ただ座ってしまう。

これもよくない。何もせず、何も生み出さず、ただ無為に時間だけが過ぎていくのは、死んでいるのと変わらない。

しかし、次々とどうでもいいことは浮かんでくる。浮かんでは消え、浮かんでは消え、あるいは浮かんでくるものと一つになり、また時間だけが過ぎ、そうして振り返ってみると、何も残らない。無為な時間だったなと思う。

思えば、人生そればかり繰り返してきた。昨日もそんなことをやった。一昨日も、その昨日も、その前も前もそんなことをやった。何か進歩はあっただろうか? 

自分の尻尾を追いかけ回しているだけで、一向に結論らしいものに行き着かない。そして無駄に疲れを覚える。こんなことを何年も何十年もやってきて、これからもずっとこれが続くと思うと、さっさと人生を終わらせたくなる。

飽きた。

退屈だ。

しかしこれが止められない。勝手に起こる。なぜこんな仕様になっているのかが分からない。いったいなぜ? 最近、それを知ることができて、どうやらこれは、消えるために浮かんでくるらしい。心は、消えるために浮かんでくる。

今この瞬間にすぐにでも完全な幸福に至れそうな気がするが、それはそんなに難しいことでもないような気がするが、たしかにこれまでも、朝目覚めて、もうこれで十分だといえるほどの幸せな気持ちを体感できた。もう大丈夫だと思った。

身体はとても健康で、目もついている。身体が悪い人、目が見えない人を、たくさん見てきた。毎晩二時間もバットを振り続け、ボールを投げ続けてもまったく疲れない身体というのは、一体どれだけの人が羨むだろう?

もし目を失う代わりに100億円をもらえるといって、貰う人はいないだろう。100兆円でも嫌だろう。それは、つまり、すでに100兆円を持っているということだ。

こうして座って、働いてる女の子たちを見ているだけで、とても楽しいのだが、同時に、とてもどうでもいいような気持ちにもなる。

今までいちばん満たされたときの気持ちはなんだろう?

やっぱり自分が心からこれだ……! と思った作品を人に見せたときかな。

そういうときは悩みも心に抱えているものもすべて吹っ飛んで、悟りも何もどうでもいい! 俺はこれでいいんだ! これをやるために生まれてきたんだ! と思うようになる。

やはり仕事は救いだ。別に金なんて一銭も入ってこないけど、やはり、これのおかげで救われている。

しかし、今は何も書けない。

しかし、書けない時には、そのときだけ、ただひとつだけ、書けるものがある。

書けないと書くことである。

自己啓発の言葉が飛び交っているけど、本当に解放されている人を見たことがない。どうしてこんなに難しいのか。どうしてこんなに苦しまなくてはいけないのか。聖者パパジが言うには、これは神を見出すためであるという。この苦しみは神への片道切符。人はこの苦しみから逃れようとしなければ神を求めようとしないからだという。

仕事を辞めて貯めた金があって、暮らしていけるだけの金があって、一日中好きなことを好きなだけやれる時間があって、嫌なことは一つもない。明日も仕事もないから好きなだけ寝ていられる。気になるアニメを見つけたら、その瞬間に最終話まで、何にも憚れずに見終わらすことができる。それはそれでいい。それでいいが、しかしいつだって心にあるものは、早く消えてなくなりたいということだ。

電通の、あの亡くなった女性は、「死にたいんじゃない。起きたくないだけ」と言っていたが、その気持ちはわかる。

みんな寝るのが好きだ。動物だって寝るのが大好きだ。コンセントに繋がれて電気を供給されたわけでもないのに、目覚めると、とても元気になる。

この仕組について、パパジはこう言っている。人は寝る時全てから解放されて、全ての動きが停止される心の活動が全くなくなる、心の活動が停止する時、我々を苦しめるものがなくなる、したがって疲れなくなる、したがって起きていられる、そのため聖者は眠らずとも生きていられるのだ、と言っている。寝ている時、筋肉や内臓の働きが休まるためだという西洋科学の見解はまるで無視である。

確かに日中活動しっぱなしなのに眠らない人はいるし、それが小食だろうが寝る人はよく寝る、心がよく活動した日は自然と眠くなる、聖人と言われる多くの人はほとんど寝ない人ばかりである、それはおそらく起きている間も寝ているからだと思われる。心の動きを停止させているのだ。

そんな小生にも心が静かになる時があって、よくわからないが、たまに、とても静かになる時があって、そんな時は無上の喜びを感じる、外的な要因は何もなく、何かを得たり与えられたわけでもないのに、とても静かで嬉しい時がある。ずっとそんな心持ちでいられればいいのだが、それをコントロールすることが適わず、また気づけば心は何かと一つになり、気づけば苦しんで疲れている。

他人もみんなこんな感じなのだろうか? 俺はみんなのそれぞれの1日の様子、特に家での夜の様子や過ごし方はわからないから、みんながこれほど考えたり苦しんでいるのかどうかはわからない。

しかしこいつら静かだな。人は飯食ってるときは静かだ。飯を食わないでいると、心がずっと語り続けてくるから、一度逃避するために、食ってるとしか思えん。

俺がいちばん心が騒がしい、このドトールでいちばん心がうるさいのは俺だ。ひどく意識的だ。何もしてない俺がいちばんうるさい。

心なんてどうでもいい。本当に心の底から心なんていらない。いつもいつだって早く心がなくなってほしいとしか思っていない。この心がなければ、いったい人はどれだけ幸せになれるだろう? ただ気づきだけがあって、ただ曇り一つない鏡のように、あるいは波風がない水面のように透き通るようなものだけがあれたら、どれだけ幸せだろう?

しかし、この心はどこから生まれてくるのかがわからない。脳か? 心臓か? 何とかして心だけを殺すことはできないのか? いったん殺すことはできても、またすぐにどこからか復活してくる。

まぁ、そんなに心を嫌わないでも、良い心だけを残して、悪い心だけをうっちゃってしまえばいいんでない? というのが多くの人の意見だろう。

苦しんだり楽しんだり、色んな経験や色々な物事があって、色んな人とぶつかる、ケンカして、仲直りして、そうやって色んなことがあるけれども、それら全部がかけがえないことじゃない? 全部含めて、あなたじゃない? それが生きているということ! それが人生だよ! と。

なるほどね。

それはおそらく、心と気づきを一緒にしてしまっているからだと思う。

心ではなく、ただ気づきだけがあって、この透明な静かな中で何もなくなってしまえば、ただ気づきだけがあって、心に何にも干渉されない、ただの純粋な意識だけあると……、それがいちばん幸せなのだと思われる。人はただ心の荷物さえ取り除けば、それが究極の幸せなのだと思う。

6月の頃はずっとそう思っていたが、今はどうだろう? まぁ、似たようなもんかな。

たとえどんなに幸せだと言っていたって、本当に幸せか? と、自分に語りかけてくる声。聞き手側からすると、彼の話す言葉より、そちらの声の方が聞きたくなってしまうものだろう。

平日の朝8時に、働き盛りの35歳が、何もしないで座っているだけで不気味なのだが、姿勢を正されて座られていたら、不気味で不気味で仕方なく、ニートなのに、なんであんなにいい姿勢で座っているんだろう? ということになってしまう。

35歳になって、仕事もせず、毎朝ドトールに生き、「心とはなにか?」と思い、座っているか。

ほう。

そうか。

せめてこれが普通にだらけで座っているのならまだいいのだが、尻を後方へ出し、下腹部を前に突き出し、腰腹の間に最大緊張を与え、仙骨神経叢から大脳基底核部への刺激を実感しながら座っているので、やはり狂人に見えることだろう。

「いってらっしゃいませ!」と店員が客を見送る。

キチガイは……。

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