霊的修行

心とは何か。消えるために生まれてくるのである。

自分とはなにか。

肉体か。

身体が自分ではないことはわかるだろう。手は自分ではない。手が動いたり、上がったり下がったりすることができるからだ。それをみている自分がいるからだ。自分が見ているから、自分が操っているから、自分ではないということになる。

思考か。

では思考が消えているとき、それを見つめているものはなにか?

心か。

心とはなにか。その人の経験、過去、気持ちに蓄積されたもの。愛、思い、怒り、悲しみ、感情、胸に走るもの。

しかしそれを見ている者がいる。観照しているものがある。心とはなんだろう? と心を観察して、心をじっと眺めている存在がある

意識か。

寝ている時に、この意識はない。

ではこの心を観察しているものが自分か?

この観察しているものを観察することは可能か? うーん、それは難しそうである。すると、この心を観察しているものが、自分の本体ということになりそうである。

観照するもの。気づき。気づいている状態。これはずっと在るものであり、在り続けるものであり、増えたり減ったりしない、消えたり現れたりしない。とにかくずっと在る。消えたり消えなかったりするものが、本体だとは思えない。

つまり、こうしてすべて外していって、外していって、最後に残るもの。もうこれ以上は外せないものが、本体ということになる。自分、ということになりそうだ。

心はそれ自体で存在することができない。 試しに心を眺めていると、心は消えてしまう。心は眺めていると消えてしまう。何かに結びついていないと、心はその生命を維持することができない。何らかの思い、執着、思考、対象物、何らかの対象と、結びつくことで、生きながらえることができる。心は心だけで存在することができず、対象がない時、心が存在することができない。

試しに心いうものを、ここらでちゃんと調べてみようと思って、注意を向けると、いつもあれだけ騒がしかったくせに、一向に出てこないのである。なんでもいいから、何か浮かべ、何か出てこないか? と念入りに調べようとするのだが、そういうときは、まったく出てこない。

しかし、ふう、と気を抜いて、ぼんやりしていると、また現れてくるのである。

何もしていないでいると、心はどこからかまた浮かび上がり、勝手に何かと結びついている。そういうとき、我々は心の支配下に置かれ、好き放題にされてしまう。たとえば心がウニ丼と結びついているときは、ウニ丼のことしか考えられない。心を観察しているものは消え失せ、しかし、その心も眺めようとすると、その瞬間に、すぐに消えてしまう。見ようとしないときにだけ、ずっと存在し続けている。

そしてまた観察するのをやめると、また浮かび上がってくる、浮かび上がっても、そのままにしておけばいいのだが、どうしても、気づけばこの心の支配下に置かれてしまう。

心のままに、とはよく言ったもので、心のままにしておくと、人間はどこまでも、心の暴政に屈服する形となる。

心というものは、はっきり突き詰めようとして、その正体を解き明かそうとし、真っ正面からじーっと見つめていると、さらにわからなくなってしまう。消えてしまうのだ。そして何が残るかと言うと、ただ観察しているものさしだけが残る。

怒っている時も、楽しんでいる時も、そこに目をあててじーっと見つめていると、それらの感情は消えてしまう。

この前、家なき子を見ていて、リュウ(犬)が死んだとき、思わず泣いてしまったが、その悲しい感情を眺めてみることにした。すると、味も香りもない、何の感覚もない、悲しいという感情はなくなってしまう。泣くのなんて久しぶりだから、これは面白いと思って、泣いている自分の感情にメスを入れて心いっぱい楽しもうと思って、すべて拾い上げる気でいたら、ただ無味乾燥のものしかないのである。

誰か怒っているのが自分? 誰かを愛しているのが自分? 何かを食べたいと思っているのが自分? なら、自分とは、生き死にを繰り返していると言える。消えては現れて、断続的に誕生を繰り返している。何かを思っている時にしか生を持たないと言える。そんなのは幽霊と変わらない。

苦しんでいる自分を見ている者がいる。その、それを見ている意識すらうるさくて敵わないという人もいるだろうが。

本当に正体不明だ。どこからともなくやってきて、じっと見ていると、 見ようと思うその間に、彼方へと消えていってしまう。そんなよくわからない存在を、われわれは大事に抱えているので在る。

これを大事に抱えるから苦しめられているのである。

例えば何か事件や事故や物事が起こったとして、ただそれだけであれば、ただそれだけに過ぎない。それで完結している。心が意味づけするのである。心が、ただそれをそれとして存在することを許さない。いいことも悪いことも、心がその物事に対して付加価値を与えてしまい、その結果苦しむことになる。

心が自分なのか? 思ったり、感じたり、怒ったり、優しくなったり、この虹のように、七色に似た、いくつもの光線のような、色とりどりのようなものは、何だろう? それが果たして自分なのか?

では、何かを思っていないとき、私は死んでいるのか? 思いと思いの繋ぎ目のところに、生は存在していないのか? その間は何なのか?

食べたい、食べたいと思っていると、食べたかったものを食べた時に心は終わる。そのうち何秒か何十秒か、心はどこかに行ってしまう。そしてまたしばらくも経たないうちに、またどこからが生まれてくる。新たな対象。新たな対象とは欲望である。

心は欲ともいえる。すべて思ったり、考えていることは、その対象と結びつくことで生まれる。いいものも、悪いものも、こうして心は発生し、心を終わらせるために人は活動している。心と対象は、それぞれが独立して存在することはできない。見るもの、見られるもの、見るものと見られるものがそれぞれ独立して存在することはできない。

思うことは、思われるものがなければ、思うことはできない。心が自分だとしたら、何かと結びついているときにしか、生きることはできないのか? 心が何も思わないときは死んでいるのか?

心はどうだろう? 心も動いている。怒っている時、感じている時、考えている時、考えていない時ですら、気づいている。無心でいることにすら気づいている。それを見ている自分がいる。心がないときにすら気づいているのなら、はたして自分は心なのだろうか?

気づいている。

そう、気づいている……。

心の所作に気づいている……?

では、気づきとは?

「心」と「気づき」は別物である。

これを混同してしまっている場合が多いが、この、「気づき」だけが唯一確かに頼れる存在である。

すべてを鑑賞するもの。身体の動き、心の動き、それらにすべて気づいていて、この気づいているもの以上に、気づくことはありえるだろうか? 肉体も、心も、すべての活動を中止して、止まれば止まるほど、この気づきは強くなってくる。

この気づき以上に透明なもの、さらに客観的なもの、さらに鑑賞しているもの、気づきに気づくことはできるだろうか?

この気づきは、誰かを傷つけるだろうか? 誰かを傷つけようとする欲望を持つだろうか? 二元的だろうか? 気づきに、二元的な性質など、ありえようか? 心には、二元的な性質はある。だがしかし、気づきに、二元的なものがあるとは、思えない。いや、ないのだ。

気づきが一元性だとしたら、その気づきは決して悪いことをしようとはしないから、人間の善性は二元的にあるものではなく、一元的にある、ということになりそうだ。

気づきというものは何一つ、価値判断、価値基準、分別を持たない。ただ静かにあるがままにあり、見るものをすべてそのままに捉えることができる。気づきのままで生きていける。その生き方こそが自然である。赤ちゃんがものを掴む時、まったく残心を残さずにその手を離す。赤ちゃんには、気づき、しかない。

では、心はなぜ生まれてくるのか? それは、消えるために生まれてくるらしい。心はなにもしなければ勝手に消えていく。しかし、心は対象とくっついていると、消えることができなくなってしまう。フライヤーにドーナッツを入れると泡はブクブク音を立てて、次第にこんがり焼き上がる頃には、泡は消えているものだが、同じことが心にも言えるらしい。まぁ、この辺は、ラマナ・マハルシが言っていることを、そのまま言っているだけだけど(笑)

そのままフライヤーの中に放置しておけばいいのだが、時期に完成するのだが、気になって取り上げてしまうことがよくないのである。

そうやって、人間の心は、気づきの熱線によって、消滅させられる運命にある。心は気づきの照射で簡単に消えてしまう。そんな簡単に消えてしまうものを自分とみなしてはならない。

心が生まれてくるのは、生まれる意味があるから生まれてくるのである。それは、何の意味があるのかと言うと、消えるために生まれてくるのだとラマナマハルシは言っている。人間はそれ自体が人間の完成のために、心という余剰分や消化物を排泄しているのである。心はその人の完成のために消えたがっているので、消えさせなければならない。それは断食すれば血液の毒素が消えていくように、

この気づいている感覚は、消えないし、消せない。この気づきの上に、感情、思考、妄念雑念が上に覆うだけであり、これらは消えるものだが、気づきだけは消せない。

人間は、本当は、ただ気づいているだけの存在なのだ。

しかし、気づいたら、そのまま飛び込まなければならない。気づいた瞬間に、そのまま手と足が動かなければならない。この辺りが、今後の課題となりそうだ。

消えようとして浮かんでくるものを捕まえて、一つになってしまう。そんな、消えるために生まれてくるものと、一つになってはいけないし、自分と思ってはならない。我々は消えるために生まれてくるものを、自分だと思っているのである。

思考と思考の間にある「間」。感情と感情の間にある「間」。思考と感情の間にある「間」。ところどころ、生きていれば、その「間」を感じることがあるが、それは思考や心が現れては消えて、その消えた瞬間に、気づきだけが浮かび上がるためである。気づきはずっとそこに存在していた。下敷きとして、ずっと存在し続けているのである。

しかし、心は無理に止めようとしてはならず、結びつかなければ勝手に消える性質を持つから、どんなときでも、そのまま流しておく方がいいらしい。

ただ気づいていること、気づきに留まること、それ以上、それ以下は、余計である。その余計なものを、人は自分だと思っている。自分は、ただそこに静かにあるがままにあるものである。それ以外のものではない。 それ以外のものではないが、そのために最高の英知を持っている。

植芝盛平は、試合をするとき、ただ立っているだけでいいと言っているが、ただ立っているだけで、すべてこの気づき、純粋意識が対応するということを言っているのだと思う。

たとえば相手と話す時も、ただ静かにしていると、自ずと勝手に最適な言葉が浮かび上がってくるのである。気づいていればいい。意図的に何かをする必要はない。ただ気づいていればいい。

静かにしていて、それでも静かにしていると、気づきが代わりに全部やってくれる。それが、人間の唯一やるべき仕事だと思っていた。

一番詮索していって、いちばん残るもの、これ以上削りようがないもの、外部の動きにも内部の動きにも影響れないもの、ただ不動なるもの、ただこれと一つになることを目標としてきた。静かになれば静かになった分だけ顔を出し、うるさくなればなった分だけ、離れていってしまう。しかし、限りなく、限りなく静かにしたとしても、確かにその存在感を感じ取ることができるが、まだ完全にそれに溶け込むことはできない。静けさが足りないのか、恩寵が足りないのか、ただ内部の奥深く、静かに根を張って生長する大木のように、ただ蓮の花が開くように、自然発生でしかないのか。しかし、これらの想いも無に帰す以外に、救いに感じられることはないから、すべてを放棄しようと思う。

と、まぁ、これは6月。投稿をサボっていた2ヶ月の間、ずっと考えていたことだが、これも捨ててしまおうと思っている。気づきに執着していると、それはそれで、また書けなくなってしまうのだ。

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