何かものを思いついたり、ひらめいたりしても、そのままやるということはあまりない。一旦落ち着かせて心を静かにさせて、すーっと一番中心の奥に持って行って、そこからやっと形づけることを始める。
それはそれで一番胸にしっくりくることをやっているんだから、あとになって後悔することはないし、いつも大体それでうまくやれてこれたような気がしている。
だが、それが一つの落とし穴なのではないか。
一番最初の訪れる衝動的なエネルギーをそらして、じっくりゆっくり形式的に当てはめていくということは、やはりどこかエネルギーが落ちるようなところがある。
例えば子供なんかは誰にも言わずに勝手に絵を描き始め、よくわからない絵を描いたりするもんだが、俺も昔はそんなことをやっていたのだが、今はそんな絵の描き方がまるでわからない。一体どうやって描いていたんだろうと思う。
やっぱり人の目を気にしているんだろうか? これでも一応、そんなに人の目は気にしてこなかったつもりだ。会社ではきちんと縮こまって自分を小さくして生きてきたが、「死ね。ばーか。チンカスだよお前らみたいなもんは。死ねじゃねーよ、死んでるんだよ。お前らみたいなもんは。本当の部分だけは渡さねーからな」と、流されるふりをして生きてきたつもりだ。
今だって記事を書いたり、動画をやったりして、自由奔放に好き勝手やってんなぁと思われるかもしれないが、まだまだ結構人の目を気にしているところがある。
何かを作ってるとき、何かをしているとき、誰かといるとき、一人でいるときですら、この冷たく刺さってくる視線。この冷たい視線の前に、いったん落ち着こう……という気分になる。なんかハッと我に返るような視線。そして、この視線が言う通りの方へ向かってやっていれば、だいたい失敗をおかすことはなくなる。
パッと思ったこと、でも、恥ずかしいからいいや、と、あるいはそれらしい理由をつけて先延ばしにしてしまいたくなるけど、やっぱこういう気持ちは無視しちゃダメかなぁ。
ここなのかな。この、一番最初にやってくる、やってみたいという気持ち、そんなにやってみたいというわけではないが、どこからか、ふとやってくる。やった後で後悔をしたことは一度もないが、しかしなぜだろう怖じ気づいてしまうのは。やっぱりそんなにやりたくないのか? やりたいことは、自然にやるというし。
今までやってこなかったことを無理してやろうとすると、脳が一生懸命抵抗する。できることばかりやってきた。できないことをやらないとダメなんだ。
もっと、衝動的に、次から次へと、衝動のままに走りきった方がいいのか? そんなことを考えていると、これは自分の欲求の全てを認めてしまうことになりかねず、最近やめていたタバコもまた吸い出してしまって、なんか急にイクラが食べたくなり、セブンの高級おにぎりも買って食べてしまった。
俺の人生はこんなことばっかりだ。みんなだってそうかもしれないがね。同じ人間だ。俺だけに起こることとは到底思えない。
しかし、こんな風に生きていたら、どんどん分別を失っていってしまいそうだ。やはり分別は必要か。当たり前か、分別がなかったら一体どうなっちまうんだ、俺は。ヤケになることは勇気とは違う。しかし、なんかよくわからん充実感だ。クスリをやっているかのように気分がハイになってくるぜ。俺は今何でもできそうだ。分別とかいう野郎にこの充実感まで奪われてたまるか。
分別かぁ。
表現の大敵だなぁ。
いやーどうだろう。
もう少し研究が必要だが……
研究? その瞬間に飛び込むんだろう?
またそうやってビビりになるのか? また一歩も二歩もさがるのか?
ダメだ、こんなんじゃあダメだ。
俺はもっと今の自分を越えていかなければならないんだ! そのために、今あるものを捨てなければならないんだ!
もっと純粋なエネルギー。混じり気のない、いちばん最初にやってくるもの、そこから逃げちゃダメなんだ。俺はいつもここから逃げている。
く、苦しい。
胸が苦しい。
やっぱり他人といるとダメだ。一人でいるといちばん元気が出てくる。そして、この一人の状態のまま他人と向き合ってやるんだ。俺だけはただ一人、冷たい視線の前で言葉を窮しないで話してやろう。やっぱり見すぎちゃダメだな、考えすぎちゃダメだな、臆病だから見すぎたり考えたりするんだ、他人の心がちゃんと見えていなければ何も不安で行動ができないんだ。
なんだろう、いつも感じるこの悔しさは。いつもずっとワクワクして生きていられたっていいはずなのに、子供の頃はそうしていた。生き方がそのまま外に現れているだけなんだ。このままじゃ子供のような絵は一生描けないような気がする。
今も書いていて、ふと思ったのだが、オレは一体何を守ろうとしているんだ? ということだ。失敗すること、ダメージ? どうせこんな生活を続けたって一生金にはなりはしない。俺はとっくに負けている。これからも負け続けるだろう。でも、自分に負けちゃダメだろう。自由の実験室。もっとめちゃくちゃにやったっていいはずだ。
しかし、やっぱりふと思ったことは、何を大事にしているんだろうということだ。これを失ったところで何が困るんだろう。他人の評価、自分の評価、記事のほうがゆっくり見直して書けるから、記事の方に逃げているだけだ。より完成度が高い方へ行ってしまう。いつも冷静沈着で的確で洞察力に優れた仙人みたいな修行者だか悟りだか分かんないが凄い人、そんな風なイメージが崩れていくことを危惧しているのか。気づけばどの記事も、そんな風に思ってもらう為の予防線が貼られているような気がする。
俺はやっぱり全然さらけ出してなんかいない。全然本気になっていない。もっと何かあるはずだ。もっとやれるはずだ。それと分別をなくすことはまた違うだろうが。
くそ、自分の理性の目にイライラするぜ。別にヤケになっているわけではない。ヤケになるということは、弱い証だ。小さな器から溢れてしまっているだけだ。以前、しまるこブログを誰もファンがいなくなるぐらい焼け野原にしてやると発狂してしまったことがあるが、あれもヤケになってるだけだ。しかし、まぁそういうエネルギーも必要かもしれんな。
やっぱり大事なことは、積み重ねるんじゃなくて、なくしていくことだ。
案外それをそれなりにやってきたような気もするし、いろんなものを捨ててきたつもりだったが、まだまだ甘いようだ。それなりに捨てるってなんだよっちゅう話だ。まぁあんまり行き過ぎると、貯金まで捨ててしまいそうで、怖いところがあるから、それはさすがにやらないだろうが。極端から極端へ、こんなことばっかりだ。
あんまり無理しても自分も周囲も混乱するだけだし、もっと落ち着いたらという言葉が、周りからも、自分からも、しょっちゅう流れてくるけど、今はこの声がいちばんイライラするぜ。
といったって、落ち着かなきゃ何もできないんだ。この記事だって落ち着いて書いている。
けっきょくまた、ここに落ち着くのか。
悔しいね。ただただ自分が悔しい。この悔しさはなにか。自分が自分らしく生きれない悔しさか。
こんな事を言っていると、街で気になった女の子をナンパしなければならないようになってくる。ナンパ師のほとんどは、こうやって、自分に負けたくないから声をかけてるだけだ。足が棒になって、もう性欲も失せて、自分に負けたくない一心で声をかけている。途中からはもう、彼女が欲しいとか、性欲どうのこうのの話じゃなくなってきて、声をかけられない自分と戦っているんだ。声をかけさえすれば、もうそれでいいのだ。
ポジティブを履き違えているのか、ポジティブに縛られているのか、もはやわからん。
くそ……俺は壊れ始めているのか……!
悟ろうと思うと悟れないって言うからなぁ、まぁ悟りたくて言ってるわけじゃないんだが。ただ自分から逃げたくないだけだ。ちょっとすべてを捨ててみるか。しかしこのすべてを捨ててみるとなると、それが全くわからないんだ。未知の世界だ。しかしワクワクしてくる。俺はいつも心の頼りを求めて心の中のいちばん頼りになりそうな場所を見つけてそこに安住座臥してきたが、それがよくなかったんだろうか。それを捨てる恐怖か。それがそんなに必要だろうか。よし捨ててしまう!
ククク! こんな思想を持った36歳のニートが世に放たれると思ったら恐怖でしかないだろう。
俺はやれるのか?
やるしかないんだ!
しまるこ! いけ! 行くんだ! しまるこ!
死ね! 死ぬんだしまるこ!
まぁ、それで結局、無理はよくないってところに帰っていくわけだ。いつもそうだ。極端から極端に。だからやはり聖人は中庸と言うんだろう。世界の真理が中庸と言うのであれば。それに従うしかないか。本当にイライラしてくるぜ。でも違うんだろう? 中庸ってのはまたそういうことでもないんだろう? 俺が言っていることよりもずっと先にあるんだろう?
しかし今は中庸という言葉がなによりもムカつくぜ。
瞬間的にエネルギーのほうに向かってやってやる。もっともっと俺は自由にエネルギーのままに突き進んでやらなければならないんだ。それは絶対確かなんだ。まるで自分に言い聞かせているみたいだな。なんなんだこの自分を制してくるこの声は? これは決して他人の声ではない。自分の声だ。俺は他人を気にしてるんじゃなくて、自分を気にしているんだ。誰も俺を止めちゃいない。誰も俺のことなんてどうだっていいんだ。俺だ! 俺は俺の声を気にしている!
自分を縛っている自分。この自分を取り外してやりたい。俺がいまいち俺を本気で好きになりきれないのは、どうやら俺の目に縛られている俺があまり好きではないようだ。
俺はもう全くこの世に未練がない。もうこんな活動を続けても一円も稼げないだろうし、それでいいと思っている。明日にだって別に死んだっていいと思っている。だから食生活や霊的修行の記事を書くのもめんどくさいからやめてしまおうかと思っている。別にいつ死んでもいいと思っている。いつもこんな葛藤ばかりで頭の中がうるさいから死にたくなることもある。こんなことを毎日毎日やっている。聞いてるだけで面倒くさそうだろう? 悟りだのなんだの言っているのは、もうこういったものから解放されたいからだ。本当にいっつもいっつもだ。毎日こんなのばっかりだ。だからもう二度と地上に誕生したくない。全部やめにしたい。ただそれだけだ。悟りだのなんだの言ってるのは、全部おわりにしたいからだ。逃げだ。
もうクソみたいな記事書くのも飽きてきたなぁ。よくあんなクソみたいな記事が面白いとか言う奴がいるなぁ。まったくイライラしてくるぜ。俺はいつも俺にイライラしている。
子供は今俺がここまで述べてきたことを無条件でやれているんだ。それが羨ましい。俺もずっと途中まではそれができていたんだ。あの頃が人生でいちばん楽しかったかもしれない。まぁ俺は子供が嫌いだがな。
しかしだ。そんなに捨てようとか死にたいとか未練がないとか言っている奴が、一体何を怖がってるんだろう? なんでこんなに大事に抱えたがるんだろう? 単に慣れていないだけか。今までなったことのない自分になるのはやっぱり怖いか、捨てるものと残すものをよく理解していないからか。やっぱりめんどくさい? けっきょくそこ? しかしよく理解しながら捨てたり拾ったりしていたら、ダメな気がする。パッとやってしまわないと。そんなことは人間に可能なのか? もう自分でも何を言ってるかわからん。こうやって人は犯罪者になっていくのか? 俺はその一歩手前なのか? 昨日だって銭湯に行った時、冷水シャワーを浴びようとしたら、もう寒くなってきたし、浴びるまで時間がかかった。理屈としては同じかもしれない。朝、パッと布団を蹴っ飛ばせないんだ。
まぁ分別なんてなくしたら記事なんて書けなくなるだろうがな。いやぁそうか? 本当にそうか? わからん。もうそれすらわからんのだ。こういう時、あんまり無理するなって言われると殺してしまいたくなるぜ。まったくやべーキチガイに生まれちまったもんだぜ。
まぁいい! 徹底的にやってやるぜ!
なんかわからんが徹底的にやってやる! 俺は徹底的にやってやるんだ! 警察呼ばないでね(笑)
クソッタレが……
見てろぉ、徹底的にやってやるからな
もうこんな事は言葉では考えたくないし、口にもしたくないから、まっすぐ中心の光に向かって飛び込むくらいしかわからん。もうそれしかないような気がする。
絶対的な積極か。これが天風先生の言っていた絶対的な積極かもしれん。だってどこにも相対的なものが見つからないから。
よし、そうやって生きよう。今決意した!
よーし、なにをやってやろうかなぁ!!!
でも、ダメだなぁ。もっと注意深くならないといけない気がする。俺は注意することから逃げているのか? やっぱりヤケになっているだけか? 今だって注意深く記事を書いているんだ。注意を捨てられっこない。まずいな。このまま道路に出たら車にひかれてしまう。無理に注意を捨てて、分別を捨てようとするのも、逃げか?
けっきょく、取り越し苦労か。なんだったんだこれは。やる前から自分でこうやって頭の中ですべて終わらしてしまう。本当に、これを繰り返していると、自分があんまり好きじゃなくなってくるな。
でも、自分の気持ちに注意して、いちばん正直なところ、いちばん素直なところ、そこからは、逃げちゃいけないんだ。それをやると自分を失うし、記事にだって、現れてしまうんだ。だから俺は昔の記事を読むのが嫌いだ。
俺は人から尊敬されなくなったり、興味を失われることを恐れている。非難より称賛の方がかえって身を縛るものだ。
「うわー」「ねぇねぇ見てあれ」「ひゃー」「見てるこっちが恥ずかしい」そう言われて顔が真っ赤になり、そこから自分が小さくなっていって、それが大人になるっていうことだ。それが今、すべての人間に根付いている。みんな、大人じゃなくて小人になっていってるだけだ。
そういうふうに言われると、逆に燃え上がってくるが、しかしこれは中途半端な不良のようで、自分より強い相手にでくわすと、急に縮こまってしまう。これじゃあダメだ。今の俺はこんなところだ。
それで自分を大きく見せたり小さく見せたりしている。自分を大きく見せることも小さく見せることも変わらない。俺はどちらかと言うと大きく見せることが多いかもしれんが。ありのままがいちばん難しい。が、いちばん簡単なような気もする。ただ正直になる勇気が必要なだけなんだ。生きることも、仕事も、恋愛も、創作も、すべてここにある。
ま、実際のところはそこまで人の目は気にしていない、いや、気にしているか? どうだろう。しかし、もっと自分の気にしている。本当によっぽど自分の目を気にしすぎている。こいつが一番の敵なんだと最近気付いた。
そういえば、江戸時代の天才商人が、頭がものすごくしっかりしている状態の時に、全ての物事を決めてしまって、後はいかなる場合においても、事前に決めておいたことを心を揺るがさないでテキパキやってしまうようにしてから、大金持ちになったと言っていた。それまでは、大きな仕事がやってくると、一回一回不安で心がかき乱されてしまって、どうにもならなかったらしい。山岡鉄舟もその言葉をきっかけに大悟したというが、やはり、これのような気もする。しかし、これから俺がやろうとしていること真逆だ。
確かにこんな風に一回一回立ち止まっていたら、とてもじゃないけど自分の命を生ききることはできない。こうやって立ち止まってうだうだやることほど無駄なことはない。だから、やっぱり間違っているのか、いや、意味することは一緒なのか? しかし間違っていたからなんなんだ? なにを怖がっているんだ? 何をそんなに大事に抱えているんだ? 俺は。
一回一回、立ち止まって、もうこんなことをうだうだ考えるのはうんざりだ。これで終わりだ。俺はただ光の化身になって、胸の奥の一点の光が全身に広がって、光の化身になりたい。光そのものになっていたい。不安も迷いもない、何もない、ただひとつの光でありたい。そのためにはたくさんの試練が待っているようだ。
迷ってばかりだ。
俺が俺に正直であろうとすればするほど、周囲から狂人と思われるようになっていくだろう。しかし、やはり、俺が普通なのだ。これが本来の生き方なのだ。それは俺がいちばんよくわかっている。子供の頃、みんな誰もがそうだったのだ。
瞬間瞬間に自分を超えるために危険な方に飛び込んでみるということ、洞察力なんて相手を見ようとして見えるもんじゃない。自分がそうやって生きて、正直に素直に生きていると、相手が嘘をついて生きているかわかるようになる。だから、目じゃない。魂なんだ。自分がそうやって生きないと、世界のことなんて、何も見えてこないんだ。
自分の行動一つ一つにちゃんと責任を持つ。素直に正直に。その本心が淀んだ分だけ、テクニックに頼るようになる。大きくもならない、小さくもならない、そのまま、そのままの状態で生き抜いてみせるんだ。ここを絶対に曲げない。
すべての行動を、自分から逃げているか、逃げていないか、ただそれだけで考えよう。もうそれだけだ。簡単なことだ。俺はそれを今からやる。そう決意した。
できることをやってちゃダメなんだ、できないことをやらないと。できることばっかやってるから自分で自分の感動を失う。これじゃダメだ。