冬、雪や霜や寒さに閉じ込められた泥のなかからは、なんにも出ないように見えるけれども、春や三月、水ぬるみ出すと、ちらりふらりと泥のなかから草の双葉が芽生え出す。でも、芽生え出す前に、冬の霜、氷の張っているときに、泥の中かき回したら何が出てくるかというと、何も出てこない。顕微鏡で見ればどうか知らんけど、もう普通の肉眼では見られません。それがとにかく春三月となると不思議や、ただたんに泥からばかりじゃない、葉っぱひとつなくなっちゃった木から青い葉が出てきて、そして季節をまちがえないでちゃんと花が咲いてくる、ねえ。
これは宇宙の中に遍満存在する生生化育のエネルギーであるということがわかってます。生生化育、物を生み出しつくり上げる「気」がある、現在でも形は見えないけど、遍満存在してます。
見えないひとつの気が、現象世界にその生命を表現しようとする場合に必要な道具として与えられたのが肉体と心なんです。
見えないひとつの気が、現象世界にその生命を表現しようとする場合に必要な道具として与えられたのが肉体と心なんです。
だから、肉体を使うだけ使えば、この気はその肉体という道具をもう使っていかれないから、肉体から離れるだけなんです。
ここに回っている扇風機、扇風機というものは回っているときが扇風機の生命です。回らない扇風機だったら絵にかいておくに限るもん。さて、扇風機が回って、扇風機としての仕事をしているときに、諸君はこの扇風機の正体は何だと思ってる? 金物でもなければ、中に巻いてあるコイルでもないだろう。それは、扇風機という仕事をするための役割を行う道具立てだけだね。
回っているのは、何が回しているの? 気が回しているんだろ。エレクトロンとプロトンというものが、相結合した際に生ずるところの、押す力と引く力という磁気関係がコイルに反映して、ファンが回ってる。
回っているのは、何が回しているの?気が回しているんだろ。エレクトロンとプロトンというものが、相結合した際に生ずるところの、押す力と引く力という磁気関係がコイルに反映して、ファンが回ってる。
だから、扇風機の命がある、つまり、この扇風機が壊れないかぎりは、この気が入りさえすれば回っているわけだね。しかし、いくら気を入れてもコイルがほどけていたり、あるいはまた銅板のリベットが離れていたり何かしたら回りませんよ。
人間の体もそのとおり五輪五体が全きときは、この気が生きるために必要な役割はつとめる、肉体が。けれど、この気がいくら強い力をもっていても、働かそうとする扇風機が壊れていればだめと同じように、肉体が壊れていたらだめだろう。結局、物の役に立たなくなっちまう。つまり肉体は死という位置転機によってこの現象界から姿を消しちまう物質だから。
けれども、その肉体を今まで使っていた気というのは、永久に無くならない。気がなくなってたまるか、ねえ。いかなる時代が来ようとも、この気であるものは、要するにエレクトロンとプロトンだ。エレクトロンとプロトンというものは永久にこの世から無くならない。これが人間の正体だ。これを、宗教では「霊魂」と言っている。だから、便宜上、その名前をそのまま自分だと思っていればいい。霊魂という見えざるひとつの気体、これが自分なんだ。
だから、今まで自分だと思っていた肉体は、自分ではありゃしない。自分という気体が生きるための必要な仕事を行う道具なんだ。心またしかり。
どんなあわてん坊だったって、道具がそこに転がっているときに、道具が本物だとは言わないだろう。たとえば、絵かきが絵筆をそこへおっぽりだしているとき、そこへ飛んで出てきて、「あ、絵かきがここで寝てる」とは言わないよなあ。ノミやカンナがそこに置いてあるとき、「大工、ここでサボってるな」とは言いませんよ。
それを、人間の場合だけはだね、大工のカンナに等しく、絵かきの絵筆に等しい肉体を、よろしいか、自分だと即座に思っちまう。この思い方を本能階級的自己意識と言う。もっとむずかしい言葉をつかうと、肉体に表現する我の片鱗を自分の全体だと思う思い方。
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あなた方もこの正しい自己意識というものを、常に自分から失わないでいてごらん。勇気凜々として、いかなる場合があってもめめしい恐怖なんか出てこないよ。人間の恐怖心というのは、肉体を考えるから生じる場合が多い。怪我しやしないかしら、殺されやしないかしら。肉体を考えないときには、勇気功々として自分ながら、こうも自分というものが尊い存在かってことがはっきりわかってくるんだよ。
どんな場合であっても、肉体が自分だなんて下等な気持ちで、人生に生きちゃいかんぜ。そうかといって、心が自分だと思うと、人生を生きる場合に非常に生きづらい負担をよけい感ずるという結果がくるのよ。なぜだというと、心が自分だと思うと、精神至上主義に知らざる間に人生観がおちいっちまうんです。一にも心にも心となると、理性を培養してばいよう人生を生きることがいちばん賢いというような断定を知らざる間につくっちまう。そうすると、何でもいい、学問しさえすれば、結局、自分というものは満足に生きられるという、とんでもない寸法違いでさかんに理知を増やそうとする。
すると、その結果はどうなる? いかに理知を増やしても、磨いても、研いでも、この世の中には、わかることとわからないことがあってわかることよりわからないことの方が多い。
よろしいか、心を尊く、強く、正しく、清く生きろ、そういうふうに生かすために、明るく朗らかに、生き生きとして勇ましい気持ち、心持ちをもつようにしなさいと言っているのは、精神至上主義じゃないのよ。精神至上主義っていうのは心がいちばん尊い、心以上に尊いものはないという考え方。私の教えはそうじゃないだろう。人間は心も体も生きるための道具。いちばん尊いのは霊魂というひとつの気体。これがあなた方の正体なの。
気が生きるために体というものをこしらえ、心というものをこしらえたんだ。これをもっと真理のうえから言うと、霊魂というひとつの能動的な気体が、肉体という物質的な表現を一方においてつくると同時に、一方において思想や精神生命が、肉体を本位として心理作用を働かせるために、脳というものを設備したんだ。
肉体は死という一転機でこの世からいきなり姿は消さない。しかし、肉体がもう動かず、語らずとなり、むろん心も働かなくなったというときに、それじゃあいったい霊魂というものには、心はないのかっていうと、ある。霊性意識というものがある。
いわゆる霊感とか霊能とかいう意識が出てくる。要するに正義の実行を行う場合の本心、良心が霊魂の気の動きの心理現象だ。だから、エレクトロン、プロトンのもっている気というものは、本心、良心そのままで何のまちがいもなく、いかなる時代がきても変化がない。あくまでも正当一点ばりなんだ。
それを多くの人々は、肉体について働いている心だけが心の全体だと思っている。人生に生きている場合、しばしばこの本心、良心を発動せしめて生きている人間が寿命がきてこの世を去る場合でも、このエレクトロン、プロトンの根本要素であるところの霊魂というものわは無条件で宇宙に還元する。
宇宙そのもののあり方は真、善、美いわゆる本心、良心なんだから、何らの汚れもなければ、周りもない。ありのまま、そのままなんだ。したがって真、善、美という心の能動は、いずれの時代がきても変わりはない
だが、肉体にまつわって働いていたところの、要するに精神我を本位としたり、肉体我を本位として働いている心は、本能心であったり、理性心であったりするから、人間を非常に迷わせたり、苦しませたりする場合が多いけど、しかし、それもこれもよく考えてみると、肉体を生かすために必要なひとつの働きを行うために、肉体につけてあるわけだ。
あなた方は本心、良心があんまり出ないものだから、正しい使い方をしないで、かえって本能心や理性心のほうに追い使われるような、心の取り締まりがルーズになった状態で生きているものだから、苦しみや迷いが、妬みが、憎しみが、悲しみが、恐れがっていうものでしょっちゅう人生を浮き世苦界とのたうちまわっていたという結果がくるんです。
だから、翻然としてたった今から、「俺は今まで肉体だと思ったがそうじゃなかった。俺は今まで心だと思ったが、そうじゃなかったんだ。見えない気体、いわゆる霊魂、これが俺なんだ」と考えたとき、もう今までとは全然違った気持ちで自分の肉体を考え、心を考えることができやせんか。
ねぇ、諸君。霊魂だとか霊気だとか、あなた方はただ抽象的にそれを考えているかもしれないけれど、これはね、科学的にはっきり、「ああ、そうか」っていうことがうなずけるようになるから。
いいかい。あなた方は、自分ひとりだと思っている。ところが、もう一人の自分がいる。私は、それをインドで初め言われたときにわからなかった。
「お前は、もう一人のお前が本当によく物を考えられるんだから、もう一人のお前に考えさせろ。もう一人のお前が、良い、悪いはすべて天地見通しだ。お前でないものに、お前だと思って考えさせてるから、いつまでたったってお前のほんとうの考え方は出ないんだ。もう一人のお前に頼めよ。頼んで、すべて考えてもらえ」さっぱりわからないんだ。つかむようなことばかり言うと思った。ところが、どういたしまして。わかってみれば、なるほど確かにそうだ。我々は情けないかな、我々の感覚で認識しえる存在を自分だと思い込んでいるという錯誤を、錯誤と思わないで生きてるために、感覚で感じないところにほんとうの自分がいることを知らない。
分光器で見ると、人間の肉体の回りを包んでいるひとつの気のあることが発見されたんです。みんなあるんだ。七つの層をなして。七つのっていうのは、色が七つになってる。
まだこの分光器は世界的にどこの学校にもあるってわけにいかない。東京では東大に一つしかありません。それからドイツのベルリン大学に一つあるのと、聞くところによると、アメリカの私の卒業したコロンビア大学のほかにもう一つ、テキサスの新しくできた大学にも用意したという。
だいだい我々の体を包んでいる気は、太陽の光線と同じ原色、紫と藍と青と、黄色と橙色と桃色と赤、この七色が層をなしている。これは見えない。ルミニュアル・オブスキュル(luminiereobscure=見えざる光体)だから。
ただね、波長が非常に短いために感覚にきません。赤外線と紫外線は感覚にこないでしょう。波長が長過ぎるのと短いのは感覚にこない。
これをアストラル・ボデー(astralbody=非物質な霊体)という。このなかに、いわゆる霊魂が存在して、その気が我々の肉体を守ってる間は生きていられる。死というときは、この気と体が離れる。離れたときに気はどんな格好になるかってことは、まだ私、研究してないが、おそらく人間の格好になっては宇宙の本源に還元しないでしょう。気ですから、あるものから離れたら、気という状態になって宇宙の本源に還元するであろうことは想像ができますけど。
とにもかくにも、普段あなた方は気がつかずにおるけれども、みんな自分の体をきわめて小さな波長で七つの層をなして包んでいるんだ。それで肉体とこのアストラル・ボデーの結合が正確に堅固に行われているときが、肉体も健康、また人間の精神的な状態も非常に堅固だということになる。ところが、この結合があやふやになると、肉体が病をやったり、あるいはまた精神方面が薄弱になったりする結果が生じる。
「ありのままにある世とし生きゆかば」、つまり霊魂のまんまの人生に生きていくとき、そこに何にも悔いも恐れも、いささかも心を動かすものがない。
しかも、あなた方は、そうして生きられるようにできてることを考えてごらん。あなた方の生きてるいちばんの大根大本、いわゆる原動力的要素は見えない霊魂なの。その霊魂はねえ、偉くなろうとか、賢くなろうとか、幸福になろうとか、もっと気楽になろうとか思ってわずらやせん。そのまんまで、何にもそこに心を煩わすものもなく、恵まれもしないかわりに、恵まれないという状態もこないの。つらいこともなければ、つらくもない。何でもない。ありのまま、そのままなの。そこには、煙もなければ苦しみも苦労もない、ねえ。
だから、禅の坊主も、これもインドのヨガからきてるんだけれども、しばしば無我一念、純一無雑の境涯に自分の魂を安住せしめるために座禅をくむだろ。つまり、雑念も妄念も取り除けて、本然の心の殿堂をつくってやると、そこへフウッと霊魂が安住する状態になるという原理を応用してあの座禅っていうものは始まった。
しかし、坊主の説く座禅はあまりにもむずかしい。夏の十三日間の修練会で教わる安定打坐法は天風独特の発見によるところの、だれでもが教わってすぐできる無礙自在、無念無想の境地に入りえる天風式座禅法であります。とにかく、こういう状態で生きる人間にならなという原理を応用してあの座禅っていうものは始まった。
しかも、なるのがむずかしいかっていえば、むずかしくはない。こういう人間になるほうがやさしくって、やれ感情でそうろうの、やあ本能の欲望でそうろうの、やれ理性的な気持ちでそうろうのっていうものに、こき使われるように追い回されて生きる方が、はるかにはるかに負担の多い、願いの多い人生がこようというもの。
さあ、きょうの話、ほんとうに自覚されたらば、むろん努めなくても、ひとりでに気楽な人生に生きられる自分ができましょう。
「我れは霊魂という一気体なり」というこの自覚で教わった心身統一法を行うと、なるほど、心も体も道具か、その道具をまとめて一つにして使えというのが心身統一の根本原則だな、ということが悟れると思う。そうすると、同じ実行する場合においても、心身統一法というものが非常に顕著な効果あるものとなってあなた方に幸いしますよ。もちろんわからなくてやっても相当の効果はあるけれども、この大きな自覚に目覚めて心身統一法を行えば、これはもう、自分でも驚くほどの長足の進歩を現実に味わうことができる。
幸福だとかね、健康だとかってことは、相手のほうに不幸福だ、不健康だって事実があるから、そういうことが生まれるんだよ。わかるかい。
ほんとうの世界ってものは、人間の生まれたときと同じようにタブララサ(無垢)なんだ。幸福でもなければ、不幸福でもなければ、不健康でもなければ、また健康でもないの。そのまんまなの。そのまんまがいちばん万全な、パーフェクトリーな状態なの。満ち足りた状態なの。何にも比較がないんだもの。比較するものがないのが、いちばん正確な存在だということを忘れなければいい。
だから、ほんとうにあなた方が楽しく感じるときは、楽しい気持ちが湧いたときじゃないんだよ。ああ、楽しいなって気持ちの湧いたときはまだ第二義なの。ほんとうに楽しいときにはね、楽しいなんて気持ちが湧かないで楽しい。うれしいなって感情もまたしかり。ああ、うれしいと思ったら第二義なんだ。うれしいと思わなくても、ほんとうにうれしいときはうれしい。
という、ずうっと階段の高いところにほんとうの人生があり、かつまた、その階級の高いところでほんとうの人生が味わえるってことをきょう教わった以上、これを我がものにしましょうな。そして、お互いに優れた人間として生きる模範を、迷える人の世の子たちに知らせてやろう。
世間を見てごらん。泣いてる奴がある。怒ってる奴がある。悶えてる奴がある。恐れてる奴がある。やきもち焼いてる奴がある、ねえ。迷ってる奴がある。苦しんでる奴がある。もう、人って奴はみんなそうだ。あなた方は今までその人間のなかの旗頭をしていたんだから、もうそのほうは辞職しちゃって、今度は、ほんとうの人間の生きる姿はここにありということを示してやってください。
我れあるところに必ず光明が燦然として輝くから。そういう気持ちの人がたった一人そこにいたらどんな濁った人間のなかへ出ていっても、その人の光明で、すべての人間の魂は洗い清められる。今まであなた方は、自分の幸福のためだとか健康のために一生懸命修行してたけれど、この話を聞いたら、もうそんな第二義のことは忘れちまえ。真理に即して生きさえすれば、黙って丈夫になれて、黙って運命がよくなるに決まってるんだから、ねえ。そういう気持ちが出て、本当に人の世のためになる自己というものがつくり上げられる。その第一段階に足を踏みかけたんだということを忘れないで。
我れ因縁あって人としてこの世に生まれし以上、こうした本然の自覚によって、本当の人間らしい人間としてきょうからを生きることに覚悟のほどを決めてください。
※
これは天風先生の講演録の中で一番好きな文章である。この文章を読み返すために、しょっちゅう本棚から取り出してばかりいるので、いつでも読み返せるように、ブログに貼り付けておくことにした。
文章でなく、講演という形なのに、これだけのことを滞りなく話せてしまうというのは、恐ろしいことである。小生は、口はおろか、文章という形で、時間をかけて切ったり貼り付けたりしても、これだけのものを書けない。
さいきん「わかっちゃった人たち」という本を読んでいたが、思考と思考の間にある空白。つまり、ただの気づき、純粋意識にとどまり続けることで悟れると書かれてあり、8人中8人、その方法で悟りに至ったと書かれている。
たとえば肥田先生にしても、姿勢を正して身体をまっすぐにして、ラインを整えて、中心一点に気を緊張させることで、雑念妄念も吹っ飛び、純粋意識だけの状態になると言っている。そして完全に空白になったとき、神の意識が流入するというのだ。
小生もそうやっていると、悩んだり考えたりうるさい心のおしゃべりが一掃されて、何もないただ全体を見渡すような心境に浸ることがあるのだが、これを本体だと考えていた。これが自分の本体。つまり何も無い心が本体だと思っていた。
しかし天風先生は違う。気が本体だという。しかしその気が意味するところは、我々が思う、気持ちが上がったり下がったり、頭に血が上ったり、気遣いだったり、陰気、陽気、自己発電からきているそれらと違って、万物のすべてを生み出している、この宇宙のいちばん原初なるものの存在のことを言っている。相対的な気ではなくて、絶対的な気。宇宙を創生したエネルギー。
確かに、宇宙だって、なにもないところから生まれない。宇宙を作りだすためには、その素となるエネルギーがあったはず。そしてそれこそが万物の根源なる原初なるもの。それは宇宙に限らず、すべての生きとし生けるもの、物体、机、椅子、すべての存在がこのエネルギーによって造られた存在だという。上がったり下がったりするものではなくて、常に宇宙には生生化育の前進的なエネルギーに溢れている。そのため、宇宙にマイナスの波動はないと天風先生は言っている。そして、それこそが我々の本体だと言っている。
気を本体と見るか、無を本体と見るか、気づきを本体と見るか、中心を本体と見るか、何を本体と見るか、未だによくわからないが、結局の所、すべて意味しているところは同じような気もする。
人が何かしないでいられないのも、何か生み出したくなるのも、建設的なことをしたくなるのも、文明の進化に余念がないのも、人間がもともと前進的なエネルギーを絶えず天から送られているためだと思われる。だから、みんなあくせく働くのだろう。
だから、本体は無でなく、気なのかもしれない。無から宇宙が造られたのではなく、気から宇宙が造られた。宇宙が始まる前に気があった。いちばんの根本の根本は、この気なのかもしれない。自分の内側のいちばん核となる部分が本体だと思っていたが、気が本体なのかもしれない。
肥田先生も、自分を空にしたとき神があらわれると言っているが、意味するところは同じだろう。空っぽにすれば、神の意識が勝手に入ってくると言っていて、我々がこの気を頂戴するために、空になる必要があるということらしい。
確かにイエスが水の上を歩いたのも、本物の占い師が何でも言い当てるのも、肥田先生や天風先生がいろいろな摩訶不思議な術を使えるのも、300年も400年も生きることができる聖者も、この物質や自然を構成している原初なる存在、すなわち気にアクセスして、それを自在に操って再構成できるためだと思われる。
人間の正体とはなんなのか、そうか、気かぁ。宇宙は前向きに発展しようとする生生化育のエネルギーしかない。この気は考えたり悩んだりしない。傷ついたり死んだりもしない。ただ前進だけがある。そして、これが我々の本体らしい。
純粋意識、気づきが本体だと思っていたが、気なのかもしれない。しかし気といっても、相対的なものでなく、絶対的な気。それもすべてを促進させるという爆発的な、それこそ太陽以上のエネルギーだろう。
それがわかったところで、何になるんだと思われるかもしれないが。いつ読んでも感動に打ちひしがれてしまう。
宇宙の根本となるものは、すべて前進させようとする意思が働いている。だから、我々が文明を進めようする営みをやめられないのは、決して欲だけではないだろう。前進しようとする宇宙の意思が働いているからだろう。だから我々は止まることだけはできない。積極的でも消極的でもなく、絶対的な積極によって、宇宙は動いていることは確かに実感できる。なんの目的があるのかはわからないが、たしかに、宇宙はどこまでも積極的だ。そして人間も、まったく同じ性質からきている。
天風先生の文章の、この波動はどこからきているんだろう? と不思議に思っていたが、この宇宙の生生化育のエネルギーからきていることは間違いない。
中心一点を指標にして、その一点すらも消え去ることを試みてきたが、確かに目の前の自然を見ていると、無というよりも、生生化育のエネルギーこそが、本体と思えてくる。