霊的修行 恋愛 コミュニケーション

「人間関係はほどほどがいい」と彼女に言ったらフラれた話。ブッダの言葉、メモなど

理学療法士の友人の職場は、仕事の出来ない人間の集まりである。友人自体もそんなに勉強熱心ではないが、とりあえずお金をもらっている以上はやることはやる。しかし、すぐにタバコを吸いに行ったり、トイレに行っては戻ってこなかったり、施術中に寝るものが多く、困っているというが、みんなで見過ごしているという。

小生がむかし働いていたデイサービスも、仕事ができる理学療法士はいなかったが、それでも施術中に寝る人はいなかった。

友人と電話をするときは4時間ほど話すが、そのうちの9割は、友人が仕事のできない連中に対して愚痴をいっている。友人も、基本的には彼らの対応については諦めている。言ってどうにかなるものでもないし、以前は何度も注意したことはあったが、結局仲が険悪になるだけで、彼らが直ることはなかったという。

鴨頭義人さんは、どうしても毎日遅刻してくる部下がいて、彼の遅刻を直すためにどうしたらいいかと一生懸命考えたところ、いくら叱っても直らなかったので、遅刻するところを褒めるようにしたという。彼が遅刻してやってくると、「いいね!」と盛んに褒めるようにしてから、遅刻することがなくなったという。

誤りは、自分の中で正そうという気持ちがなければ、決して直らないと鴨頭さんはいう。

怒ったとしても、周りが怒っているだけで、本人がそれを直そうと心を働きかけることはないけれども、誤りを褒められると、自分の中でそれを悪いことだと認識するようになるらしい。

この話を友人にしたら、「うーん、それはちょっと気持ち悪いからやりたくない」といわれて却下されてしまった。まあ、そうだろう、確かに気持ち悪いかもしれない。そして今も、のらりくらりと、極めてぬるぬるしており、互いのミスや誤りをはっきり指摘することなくやりくりしているらしい。

「別に理学療法のスキルを毎日熱心に磨き上げろとはいわないけども、患者さんの前で寝るのは許されないし、トイレに行って帰って来なくなるとか、その日やらなければいけない単位(だいたい理学療法士は1日18単位やることが基本ライン。1単位20分)の働きはしないのを、ほっとくというのもよくない。ほっとくということはその罪を認めることになるから、それはいわなければならないんじゃない?」といったら、「お前も働いてみればわかるよ」と、低いテンションでいわれた。

理学療法士というのはけっして高等な職業ではないけれども、名前だけは頭がいい感じがするから、品の良い仕事に見えなくもないだろう。

理学療法士の集団はお互いをボロクソにいったりせず、技術職というところもあって、お互いを先生と言い合い、お互いの施術のやり方については触れないことが多い。陰では、あいつのあの施術はどうのこうのと文句を垂れたり、悪口をいったりするけれども、目の前で喧嘩をし合ってるところというのはあまり見たことがない。技術職の職場というものはそういうところがあるかもしれない。

その反面、介護士の職場は罵詈雑言が入り乱れる。友人の病院の介護職の人達は、ひとつ用事を頼むときでも、とにかくでかい声で、下品な言葉、トゲがあり、悪意があり、とにかく目に入るだけでうるさくて敵わないという。この辺りのコミュニケーションは、同じ病院であっても、理学療法士と介護士で、ぜんぜん違うことに驚かされると友人はよくいっている。

小生のマンションの近くに建設中の家があるけれども、そこでは鳶職の連中が、毎日のようにものすごい罵声を浴びせながら仕事をしている。バカヤローとか殺すぞとか帰れとか、朝から夕方まで尽きることなく、凄まじい大声で罵り合いながら仕事をしている。コンプライアンスというか、この時代にはもう許されないはずの言葉が、とんでもないほど行き交っていることに、逆に感心してしまう。そんなふうにして建てられた家に、ぜったい住みたくないが。

あまりこういうことをいうのもよくないのはしっているが、人間的に品格が低い仕事ほど、こういった汚い言葉を罵りあってバランスを取っているように思う。小生が以前バイトした、時給850円のまねきねこのバイトもそうだった。いつも物凄い罵詈雑言でバランスを取り合っていた。「おいてめぇ! なんでクリームソーダ先にもってかねーんだよ! 溶けちまうんだから先に持ってけよ!」「見りゃわかるだろ! ラーメンの注文が多すぎて厨房が手一杯なんだよ! てめーが持ってけバカヤロー!」「ラーメンもこれいつ作ったんだよ! 麺伸びてんじゃーかバカヤロウ!」

アイスのことは気にすることができるのに、それよりずっと体積の大きい目の前の人間に対しては、ずいぶん乱暴だなぁと思っていた。そして、その場にいると、どうしてもみんなそういう風になってしまうらしく、先輩からやられたことをそのまま後輩にやるようになって、組織中に伝染していっていた。

彼らの中に、優しさのために止まるというところが見られなかった。思った言葉をすぐにそのまま吐き出す。そのあまりの直結ぶりに、小生は彼らの中に一種の純粋性を見出した。小生は、仕事が猛烈に忙しかったり、誰かと喧嘩してるときですら、よくわからないエッチなことを考えてしまうことがある。彼らのように頭にあることをすぐにそのまま口に出していたら、小生だったら、エッチなことをいってしまう恐れがある。そのため、一回いっかいよく立ち止まってから話さないと大変になってしまうのだが、彼らにそんな心配はなさそうだった。その反射神経よりも、もともとの純粋性に感動したものだった。

彼らはよく怒っていた。怒られた方も怒っていた。そんなことをやっていたら、殴り合いの喧嘩に発展しそうなものだけれども、案外そういったことはなかった。怒られた方も大きな声で憎しみをもって言い返すから、怒りが発散されるらしい。

言う方も言われる方も、怒鳴ることである程度解消できているというか、慣れてない人間や繊細な人間にとっては、それは心の傷を負ってしまうものだけれども、そういう人間ですら、だんだん慣れてきて一緒になって大声で罵っていた。

しかし、そのあとすぐに、「おー! ラーメン持っててくれてありがとう!」とか、感謝の気持ちもすぐに口に出すのである。嬉しいときや楽しいときも、そのまま口に出す。カラオケの部屋から曲が聴こえてくると、一緒になって歌いながら調理したりする。さっきまで罵りあったのに、笑いあっていたりする。怒られてしょぼんとしていた人間も、その怒った人間に、「おう、かずき! 8号室に新しいDAMの機械が入ったから、バイト終わったらみんなで歌おうぜ!」といわれると、嬉しそうな顔をして「はい!」という。

小生は一度怒られると、その相手をものすごい嫌いになり、何があっても、その恨みを通そうとして、絶対にこいつの前でなんて歌なんて歌ってやるかという気持ちになるが、彼らのようにすぐに怒りが昇華するような単純さがないと、この職場では生き残っていけないのだと思った。この職場では、そういう人の方がよく仕事ができた。一度怒られると、気持ちがへこみすぎて、立ち直るのに時間がかかる人間は、みんな仕事ができなかった。

喧嘩して、また喧嘩して、また楽しそうに話して、という気持ちの切り替えがとても早い職場だった。外国人スタイルというべきか。介護士にはこういうところがあるように思う。理学療法士には少ない。

確かにバランスは取れているようではあったけれども、それでもやはり罵詈雑言を浴びせられた方としては、それがたとえ正論だとしても、それが例え習慣になっていたとしても、心の奥底では、やるせない抵抗感や恨みや傷を、深い部分で残るものである。

こういった品格の階級制は、学歴によく表れる。偏差値の低いヤンキーばっかりの高校だとこういう風になる。基本的に若者の男というのは、こういった罵詈雑言をベースにして会話をする。今でも自転車で通りすがる高校生たちの会話を聞いていると、そんな感じである。これは偏差値と大きく相関するものである。たくさんが東大に行くような灘高校の生徒はほとんど喧嘩をしないらしい。したとしても、非常に静かに喧嘩をする。他人は他人、自分は自分と、簡単に人を諦め、自分を活かす。高校生の頃にこれができてしまうというのは非常に恐ろしいことだ。

小生の大学は偏差値がとても低かったというところもあり、まねきねこのような、誹謗中傷を基礎としたコミュニケーションが成り立っていた。少し野球やサッカーをやると、下手くそ! クソダセェー! ギャハハ! ポンコツ! とか、小生が足をくじいて動けなくなったときも、ギャハハ! おーい! 欠陥品がいるぞー!(笑) といわれた。悪気はないようだったけれども、どうしてもこのやりとりにいつもイライラしていた。

不思議と派手な喧嘩にはならなかったけど、いつも汚い言葉が飛び交っていた。そうやってお互い罵詈雑言を浴びせやって発散していたから気持ちが解消されていたのだと思う。一番口の悪かった友人が、いちばんよく小生の家に遊びに来て、ずっとモンハンをやっていた。小生はモンハンをやらなかった。彼は勝手に人の家に来て、勝手にずっと一人でモンハンをやっていた。割とその時間は好きだった。

小生は基本的に無口だから、小生と二人っきりになりたがらない友人が多かったが、その友人は鈍感だったためか、そういうところを気にしなかった。鈍感なために罵詈雑言を人に浴びせ、その鈍感ゆえに助けられた。

彼らとどう関わっていくか考えていたとき、ブッダの本を読んだ。なぜブッダかというと、ブッダがいちばん優れた人間だと考えたからだ。ブッダがいうなら間違いはないだろうと、すべて鵜呑みにした。ちょうど『龍馬がゆく』を読んでいたのもこの時期で、龍馬とブッダの言っていることは、ほとんど重なっていた。これらの本を読んだことが、コミュニケーションの転機になったと思う。ひどく影響された。影響は今も強く続いている。

影響された言葉は以下のようなものである。ちょうどKindleアンリミテッドでブッダの格言集がダウンロードできたので、引用する。超訳ということもあり、非常に現代的な言葉に書き直されているため、とてもブッタの言葉遣いとは思えないが、意味するところは同じだと思われるので、超訳の文章のまま掲載する。(※あとで自分で見返すためにここでは大量に引用する)

「もし君が敵からいやな目に遭わされて、鬱になったり落ちこんだりするのなら、それを見た敵は、「わーい、ざまーみろ」と笑って喜ぶだろう。 ゆえに「真の損得」を知る人は、どんないやな目に遭わされようとも、嘆かず平常心を保つ。前と変わらず穏やかなままの、君の優しい表情を見た敵は「ちぇっ、がっかりだ」と落胆する。 皮肉なことに、敵を悩ませるための最高の「イヤガラセ」は君が怒らず朗らかにしていることだ」

ブッダのくせに、平常心を保つことが最高の嫌がらせになるとは、すごい言葉だ。本当にブッダがいったのか? それともブッダだからいったのか? 難しいところだ(超訳だから余計ややこしい)。他人の言葉はプレゼントと一緒らしい。受け取らなければ、持ち主は自分の家に持って帰るしかなくなる。

「自分という化け物は、自分自身が心の中で思い描いた欲望、怒り、迷いの思考によって少しずつ汚されていく。汚されていく自分という化け物は、心の中で欲望、怒り、迷いの思考を思い描かないことによって少しずつ綺麗になっていく。こうやって汚れるのも綺麗になるのも、全ては各自ひとりひとりの自業自得、他人が他人の心を綺麗にするなどできやしないのだから、余計な口出しはしないこと」

「他人を非難する悪口の斧が振り下ろす度、真っ先に君の心が強ばって、君の脳内に不快な神経刺激が生まれ、君の内臓に毒素が発生し、君の呼吸には毒ガスが混ざる。こんな風に心の中で怒りを発火させ、いつまでも反復しつづけるなら、その恨みはいつまでも静まることなく思い出す度燃え上がり、君には心休まるときがない。他人を困らせ、苦しめることで、快感を得ようとする習慣が身についてしまうと、怒りの声が心にたくわえられて、ネガティブ思考の牢獄に閉じ込められてしまう」

「君の心に怒りがさっと広がったなら、脳内には神経毒素が放出されて身体中に毒性の異変が広がる。もし君が毒蛇に足を咬まれたら、毒が身体に広がっていくのと同じ、心の中にくすぶっている怒りの、特に冷静さの薬草を刷り込んで、ことごとく消し去ることこそ、本当の命拾いになる。怒りを捨て去ったなら、君はもはや生きる苦しみの連続から軽やかに抜け出すだろう。そう、まるで、蛇が抜け殻を捨てていくかのごとく」

この神経物質というのが肝である。相手に悪口を言われる時よりも、自分が言う時の方が身体に悪い神経物質が出てきて、それがどうしようもなく気持ちが悪いものである。実際に、怒りや不安に駆られているときの人間の体内の血液は、黒く変色するらしい。

「君を嫌っている敵が、君に対してする酷い仕打ち、そんなものは大したことじゃない。君を憎む人が君に対してする執拗な嫌がらせ、そんなものは大したことじゃない。怒りに歪んだ君の心はそれよりもはるかに酷いダメージを君自身に与える」

「相手が誰であっても、うっかり怒りに我を忘れ、攻撃的なことをいわない練習をしなさい。そんな言葉を投げつけるなら、報復の爆弾が君に投げ返されるだろう。『あなたの優柔不断なところが嫌なの』などと、相手の一番痛いところをちくっとさせるなら、言われた相手に怒りが伝染し、相手もまた君が一番言われたくない言葉を返してくる。『あなたこそ自分で決められないくせに』と、こういった興奮から生じる言葉は言われるのはもちろん、いうときにも自分自身の心を傷つけ、身体を疲れさせる」

そう、身体が疲れるんですな。

「他人の悪に気づいても、君がイライラする必要はない。他人がやらかしてしまったこと、他人がすっぽかしてしまったこと、そんなものをジロジロ見るのはやめなさい。その代わり視線をくるっと君の内側へと反転させて、じっくり見つめてみたまえ。自分は何をやらかしてきて、何をすっぽかしてきたのか」

「心を防御するのを忘れていたが故に、耳に痛い言葉をぶつけられてうっかり気づいてしまったとしても、トゲのある言葉で言い返すことのないように。自分の内面をこそ見つめる君にとって、他人と敵対することなどまったく不必要なことなのだから」

「すぐにカッと怒る人、いつまでも恨みを忘れない人、自分の欠点を隠そうとする人、自分を実際より良く見せようと親切を押し付ける偽善者、こういった人々は最低の人間だと知っておき、その仲間入りをしないように」

「『うーん、指摘したいんだけど、どうしよう』と、君が心の中に秘めて隠している言葉が、事実に反していたり、他人にダメージを与える内容だったりするなら、決してそれを語らないように。さらにその秘めている言葉が事実であったとしても、それが他人にダメージを与える内容であるなら、それを語らない練習をすること。君の胸に秘めている言葉が事実であり、しかも相手にダメージを与えず、相手にとってメリットがあるとわかるなら、あくまでもタイミングを見てそれを伝えなさい」

出会い系でメッセージが返ってこなくなるとき、理由はなんだったんだろう。何がいけなかったんだろうと思うときがあるが、無言そのものに答えがあるように思う。だからそういうときは気にしないで大人しく引くようにしている。

「自分の内側を見つめない、自分の心の心理から目をそらす、そんな人とは仲良くしないこと。自分の心を見つめる気のない、いい加減な人とつるまないこと。自らの心を見張り、向上しようとしている人こそ、友や伴侶として親しくすること。心の澄んだ人と一緒にいること」

「自分の内面を見つめることなく、感情をコントロールしようとしていない人とは友達にならないこと。そんな人と親しくするなら君は長らくその人の欲望や怒りに悪影響を受け嫌な思いをするだろう。自らの感情をコントロールしようとしない人と一緒に暮らすのは、それは君にとってずっと苦しみであり続けるだろう。心が整えられた人同士で一緒に楽しく親しく進むのが、君の心の安らぎと互いの成長のためになる」

「他人にいっさい期待をしないとき、君の態度は柔らかく、その場その場に応じて、柔軟に言葉を返すことができるだろう。このように心が深く落ち着いているのなら、特定の宗教や人を信仰する必要もなく、いまさら『心を落ち着けなくては』とがんばる必要もない」

「私の生徒であろうとするならば、世間の評価や名声など放っておいて、孤独の中に自分の内面を探究するように」

「自分の内面を見つめるのを忘れると、知らないうちに君の心には求めてもがきまわる渇愛が増幅する。欠乏感の癌は別のところへ転移していく。満たしたと思えばすぐに足りなくなる、その渇愛を誤魔化したくてわがままという名の植物がどんどん生い茂っては君を苦しめる。欠乏感という植物の根っこを掘って焼き払うこと。この植物が生えたことに、君がはっと気づけたならば、知恵のスコップでその都度植物の根っこを掘り崩すように」

「この思考という化け物をストップする座禅に打ち込むなら、渇愛という悪魔の呪縛から解き放たれる。君が執着して快感と、錯覚していることについて、実はそれらは空しいものだと修行に打ち込むなら、渇愛という悪魔の呪縛を君は断ち切っていける」

非難もそうだが、賞賛もあまりよくないことだ。褒められると、平常心に戻すのに労力がいるので疲れる。褒めると不快になる人は多い。一重に、ただ真実を告げることができないとき、人は賞賛か非難をする。賞賛も非難も、口のはずみから生まれる。

人と分かち合って、溶け合って、最高の状態に達することができると人は信じているから、あらゆる人間関係の誤解が生じる。すべての人間関係の問題は、自分のことを深いところまで知ってもらいたいという期待から生まれているように思う。べつに悲観的になっていっているわけでもなく、無常観を焚き付けたくていっているわけでもない。光に満ちた希望を抱いてほしくていっている。

アドラーのいう通り、すべての苦しみは人間関係から生まれる。人間関係の苦しみは、相手に期待するところから生まれる。よって、相手に期待しないことが大事、という話をしているだけだ。薩長同盟と大政奉還を成した坂本龍馬も、人間関係はほどほどがいいといっている。

人は一人でないと最高の状態に達することはできない。人間関係は、自分の精神の外への現れである。いま自分が見えてる世界は自分が作り出している夢のようなもの。自分の創造物に過ぎない。と、よくいわれる。小生はそれを正しく認識できてはいないが、それを真実だと仮定して進んでいる。自分が怒れば他人も怒る。自分が優しくなれば周りも優しくなる。自分がまっすぐになれば他人もまっすぐになる。ただ、自分の心だけがある。世界も他人も、その中に含まれているに過ぎない。だとしたら、他人を正そうとするのは間違いということになる。

この人生は自分が完璧になるための旅で、過去世で取り組みに失敗した課題を、何度も何度も修正されるまで体験させられるらしく、過去世で仲良くなれなかった相手と、次の生で、友人や家族として関係を持つようになったり、どこの職場でも嫌な人間が必ず一人いるのもそのためらしい。その人間を克服するまでは、必ずどこでも会うように仕組まれていて、そこには神の完全なる計算が働いているらしい。確かに小生の人生を振り返ってみても、一度克服したタイプの人間に煩わされることはない。というより、出会わなくなる。無理して愛そうとしなくても、悪意さえ抱かなければいい。それで十分にその人から解放される。

そういう意味で言えば、人間関係の全ては悪意を持たない自分との戦いの日々といえる。人間の心が『真・善、美』でできている以上、悪意さえ持たなければ、『真・善、美』が勝手に発動される。だから無理して愛そうとしなくてもいいのである。このことは中村天風がいっていた。孫子やヒクソンや桜井章一のいう、『勝つことよりも負けないことが大事』という銘とも似ている。

そんなこんなで、自分が悪意を持たないようになってからは、大学の友人らと上手くいくようになった。親友と電話するときも、喧嘩になることがびっくりするほど少なくなった。悪口はおろか、親友の方も非常に優しくなった。

今では、こういった内容は、どこの自己啓発本でも書かれている。別にブッダでなくとも、世間で流布されている自己啓発の本だったり、あるいは自分の人生経験得た教訓や反省を繰り返して、上記の格言のようなことを守り通している人はいる。そういう人は少なくなく、何度もそんな人間を見てきた。これは芸のレベルと相関するところがあるようである。

あんじゅ先生もそうだろう。あんじゅ先生の記事で、どうしても人の悪口をいえない、彼氏と別れるとき、嫌々ながら頼まれていったが、お互い不快しか残らなかったといっている。あんじゅ先生に限らず、人の悪口を言えないという人は、本能的にブッダ的思想の枝葉を有していると思われる。言わないのと言えないのではまた違うが。

もうお互いに正直になろうとか嫌なのです。

私は面白いことを笑って漫画にしたいんです。否定をアウトプットなんかしたくないんです。

価値観が違うのが面白いのにそこをすり合わせないといけないことが私にとって辛くしんどくて逃げてしまう部分であります。

小生はあんじゅ先生のこの記事がいちばん好きである。小生も人間関係はほどほどにしてカラッと生きようと、そうやって10年以上生きてきて、たぶん死ぬまでそうやるから、とてもよく気持ちがわかってしまう。

その人と強烈に結びつきたいという想いは、(恋人であれ友人であれ)、エゴに過ぎない。自分の中から至福を見出せず、見いだせない分量にしたがって、相手に愛されることを求めるようになる。

恋愛や友人関係になったら、同じ問題を共有して、同じ問題を乗り越えて、同じ価値感情を抱かなければならないと錯覚するが、幸福も、すべての問題解決も、ただ自分ひとりの中にあるものである。

幸福は自分ひとりでなるもので、自分ひとりで完成させた後の余韻として人と付き合うのである。それは恋人だろうが親友だろうが家族も近所付き合いも他人も、すべての人間関係にいえることである。グラグラ揺れたまま誰かと付き合ったり、結婚することは、相手に課題を丸投げしていることと同義であり、夏休みの宿題をお父さんにやってもらうのと同じである。自分ひとりで結婚する気がなかったら、結婚なんてするものではない。

正しい人間関係は自分ひとりで完結させる必要がある。だから機嫌のいいときしか話しかけなかったり、自分の精神がとても安定しているときにしか、恋人だろうが親友だろうが話してはいけない。むしろ、恋人や親友こそ、重要になってくる。

人間関係はほどほどに。カラッとしている必要がある。『竜馬がゆく』で坂本龍馬が何度も口にしていた言葉だ。龍馬ほどよく人間を考えて、繊細で、傷ついたり、激しい戦いのあとが見える人間はいないが、それを自分の中で完結し、人に対してはカラッとすることに努めた。この中庸加減が上手かったから、薩長同盟も大政奉還も成し遂げられた。創作家もそうである。ギャグ漫画だったり、カラッとした作品を描いている人というのは竜馬のような性格である。あんじゅ先生や、ドラゴンボールのような漫画は、内には繊細なものを秘めているが、カラッとした方へ意識的に向かっている。

激しくぶつかった後というのは、互いにスカッとするような気分になるかもしれないが、やはりどこかの遺恨の種を残すものであり、やっぱり何も言わない方がよかったなと思うものである。小生は、正直に何でも話し合って、それでよかったと思えたことは、これまでに一度もない。

何度もいうが、人間関係は自分ひとりのものであり、自分ひとりで完結させるものである。もっと詳しく言うと、人間の心は、真・善・美で成り立っており、それが心の本体であるから、本体で居続けることだけが重要になる。それをどうして他人と一緒にできようか。心に巣食ってくる悪を斬り飛ばして、心が汚れないように努めるだけである。つまり、誰と何をしようが、ひとりで自分の心に巣食う闇を斬り飛ばしていく孤独な作業である。それがコミュニケーションである。

だから、なるべくあまり深く入り込まないように、恨みを買わないように、深い仲にはなりはしないけれども、丁寧にはしようというつもりで関わっていた。高校時代は何でもいいたいことをいい、いいあってばかりいて、多くの友を失った。

大学の3年生あたりから、このようなブッダの卵のような態度を取るようになってからは、多くの人に親しまれるようになった。どこか肩透かしを食らうようで、恨みを買うこともあったが、それでも以前より憎まれることはずっと少なくなった。

人間関係というのはほどほどがいい。しかし、そのほどほどに全力の優しさをこめる。親しくするというよりも、丁寧にする、というやつだろうか。気持ちがオフのときは避ける。オンのときだけ一緒にいる。機嫌が悪いときは一緒にいないだけでも十分である。これが消極的なのか、積極的なのかわからないが、多くの人は消極的に見るだろう。

この頃、付き合っていた彼女に、「人間関係はほどほどがいい。でもそのほどほどに全力をこめている。大学の友達連中には全員そういう態度で接している」といったら、泣かれてしまった。

別れるとき、彼女は泣きながら、「本当に、あの言葉が忘れられない。あの言葉が本当にショックだった。私にもそうなのかな? と思って、あの言葉以来、しまるこ君の一つひとつの言葉や態度が、私に対して、人間に対して、ほどほどなんだな、としか思えなくなった」といわれた。

小生は「いやいや、そうじゃなくて、そうじゃないんだけど、うーん、なんていったらいいかわかんないんだけど、なんていうか、えーと、なんていうか」と、ずっと、「なんていうか」といっていた。

出会い系で女性に会うと、ほぼ間違いなく、すべての女性から、「どうして前の彼女と別れたんですか?」という質問に会う。答えると、じゃあその前の彼女は? その前の前の彼女は? と、とにかく女性は別れた理由を聞きたがる。5人と別れたら、5人との別れを根掘り葉掘り聞いてくる。女性に会いに行ってるのか、この質問に会いに行ってるのか、わからなくなるくらいだ。別れなければならなかったほどの、その欠陥部分を知って、どれだけ結婚(結婚後)の障害に及ぶか知るためである。そういうとき小生はいつも、遠距離になってしまったからだと嘘をついている。

そうして、小生は彼女と別れたが、別れたことをすぐに親友に報告した。このときの会話は、一字一句覚えている。

「その女だいぶ頭悪いね。聞いてるだけで殴りたくなるわ。よくそんな女と付き合ったな。別れて大正解じゃん。人間関係はほどほどにって、お前が普段口にする哲学の中でも相当レベルの低いやつじゃん。もっと引かれる引き出しいくらでもあったろうに。下げて下げて、お前の入門編みたいなところじゃん。普通はもうそんなとことっくに通り抜けて、ずっと遠いところで戦ってるのにな。そんな出鼻をくじかれたところで、引かれたり、言い争いの種になってるようじゃ、先が知れてると思うけどな。別れて大正解だよ」と友人はいった。

友人は続けた。

「まっちゃんが、『ごっつええかんじ』のコントは大体6割ぐらいの力で作っていると言ってた。でもその6割を100%で作る。最初から100%のコントを100%の力で作ろうとすると、誰もついてこれなくなるから、そうしているらしいけど、それと似たようなもんじゃない? 100%と100%でいつもぶつかっていたら、消耗しか残らないし、それは愛とは違うんだけどね。誰だって、100%で付き合ってないからね。みんな、ほどほどにやってるし、ほどほどしかやりようがなくね? お前の大学の連中だって、お前に対してそうしてるでしょ。その女自身もね。セカチューの見すぎなんだと思う。セカチューが悪いと思う」

「あと、倖田來未とEXILE?」と小生はいった。

「そう。セカチューと、倖田來未とEXILEが悪い。ただ、俺だったらいわないけどね、俺はそれをいったら女が引くってことが、なんとなくわかるからいわないけど、まあお前も口が滑っちゃったんだろうけどね。でもそのレベルの口滑りで引かれているようじゃ、この先どこで何が引かれるかわかったもんじゃないから、別れて正解だね。伝え方が悪かったっていうのはあるかもしれないけど。まあ、本当はその言葉が理由じゃないだろうけどね。人と人が別れる時はこの言葉がどうとか、この行動がどうというものは決定的な要因にはならない。本当の原因は、もっと根本的な部分だろうね。単純に別れの理由として一番いい素材だったから、それに利用されただけだと思う」

「それは俺自身がいちばんよくわかる」と小生は言って笑った。

「『ほどほど』ってワードを出したのはまずかったね。『ほどほど』っていう響きだね。セカチューたちは、『ほどほど』ってワードに凄まじいアレルギーを覚えるから。やっぱり『るろうに剣心』を見るべきだと思う。さいきん剣心を見直してたけど、やっぱり剣心は超名作だね。剣心なんてまさにそれじゃん。めちゃくちゃほどほどに接してる。薫、弥彦、佐之助、あいつらが何をいっても、オロロ〜ていってる。剣心が本気出したらみんなついてこれないからね。お前も剣心みたいになればよかったのに。女も、セカチューじゃなくて剣心を見ないと。まぁ、剣心は『人間関係はほどほどに』なんていわないだろうけどね(笑)」

と友達は言った。

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