筆者のマンション近くに現在、建設中の家があるけれども、そこでは鳶職の連中が、毎日、朝から夕方まで、世にもあるまじき凄まじい罵詈雑言を言い放ちながら仕事をしている。「バカヤロウ!」「殺すぞ!」「帰れ!」「殺すぞチキショウがああ」「うおおオオオオらあああああああ」
おそらく、寄生虫のせいだろう。
大脳辺縁系にこびりついた寄生虫がうなり声をあげている。神経系統や脳細胞、シナプスが虫に食われてしまって、変な食べ物ばかり食べているから、また、パソコン、テレビやスマホのブルーライト、発光ダイオード、そういった電磁パルスの悪い影響をうけて、宿生の原因は多々にわたる。
まったく、こんなふうにして建てられた家には住みたくないものだ。
このご時世、よくコンプライアンスをここまで度外視した言葉を言えるものだと、逆に感心せずにはいられないものだが。たぶん今日にでも近所の通報が入っておさまるだろう。じっさい、そうやってある日からパタリと声がなくなる様を見てきた。一般的に品格が低いといわれる仕事ほど、職場で罵詈雑言が入り乱れる。
筆者が以前バイトしていた、時給850円のまねきねこのバイトもそうだったが(いまではどこのアルバイトでも時給1000円を下回ることは珍しいことだが)
いつも物凄い罵詈雑言が飛び交い、それによってバランスが保たれていた。
「おいてめぇ! なんでクリームソーダ先にもってかねーんだよ! 溶けちまうだろうが先に持ってけよ!」
「見りゃわかるだろ! ラーメンの注文が多くてコッチ(厨房)は手一杯なんだよ!」
「おーい! ラーメン持ってってねーじゃねーか! 麺伸びてんじゃーかバカヤロウ!」
「ウオおおおおお」
「ギイイィいいやああああああああああああ!!!」
「うわああああああアアアアアアア!!!!!!」
やっぱり、これらも寄生虫の仕業だ。
笑っちゃいけないよ。こういった擬音も過剰に思うかもしれないけれど、本当の意味で内側の形相のありようとして、ほとんどこのような叫び声をあげているのと同じなのだから。
こんなに文節も長くなかったかもしれない、言葉ももっと不自由で、「クリソダ先もてけよバーロー!」「テメもてけバーロー!」「麺伸びてだバーロー!」
クリームソーダのことは気にすることができるのに、それよりずっと体積の大きい目の前の人間に対しては優しくないと思っていた。
こういった場にいると、どうしてもみんなこの手の化け物になってしまうらしく、もともと正気の感覚を持っていた人間も、半年もすればりっぱに
やめてしまう連中はこの限りではないが、続けられる連中は、彼らの中に吸収される形で、続けることができた。
彼らはよく怒っていた。怒られた方も怒っていた。そんなことをやっていたら殴り合いの喧嘩に発展しそうなものだけれども、案外そういったことはなかった。怒鳴られたほうも、相手が怒鳴り終わらないうちに怒鳴り返すから、怒りが発散されてしまうらしい。つまり、大きい音を出しているだけで、じっさいのところ、そこまで怒っていなかったのかもしれない。
怒鳴っているかと思ったら、「おー! ラーメンもって行ってくれてありがとう!」とか、感謝の気持ちも平気で口にする。さっきまで罵りあったのに、「おう、かずき! 8号室に新しいDAMの機械が入ったから、シフト終わったら歌おうぜ!」とか平気で言っている。
思った言葉をそのまま口に出す。そのあまりの直結ぶりは、一種の純粋性があった。この直結さが仕事のパフォーマンス向上にもつながっているようだった。あんがいコミュニケーションが円滑で素早かった。怒鳴られて、一回いっかい、怒鳴られた意味を立ち止まって考えてしまうものは、いつも間に合わず、そのため、よけいに怒鳴られた。
慣れてない人間や、繊細な人間は、この文化はよほど応えるらしく、プリズンブレイクの新しく刑務所に入ってきた囚人のように、毎晩泣いて過ごすものだが(本当に泣く者が多いらしい)、そういう人間ですら、だんだん慣れてくると、立派に大きな声で罵詈雑言を言うようになっていった。
彼らはいったい何者だろうと思った。
うちの飼っている猫も、しっぽをつついたりすると、「ファー!」って威嚇する真似をするが、次の瞬間には「にゃー♪」と、喉をゴロゴロ鳴らしたりしている。
高学歴の人間は、一度怒られると、その恨みを丁寧に何重にも鍵をかけた厚い箱に入れて厳重に保管しようとするが、彼らのようにここまでフットワークが軽くないと、この職場では生き残っていけないのだと思った。じっさい、そういう人の方が仕事がよくできた。一度怒られて立ち直るのに時間がかかる人間は仕事ができなかった。
※
このように、確かにバランスは取れていたけれども、これを肯定していいものかは、一抹の疑問が残るだろう。
やはり罵詈雑言を浴びせられた方としては、心の深い部分で遺恨を残すものである。
こういった品格の階級制は学歴によく表れる。偏差値の低いヤンキーばかりの高校だとこういうふうになる。基本的に若者の男というのは、この手の罵詈雑言をベースに会話をする。東大に行くような灘高校の生徒などはほとんど喧嘩をしない。したとしても、非常に静かに喧嘩をする。美辞麗句の文章で書かれた相手の欠点をしたためた20枚くらいの手紙を送りつけたりする。
さて、この悪意に付き合っていくには、どうしたらいいか、というものだが。
※
さて、この記事は、むかしに書いたものではあるが、なぜか当時から人気が高かった。
おそらく、それだけ、人間関係に悩みを抱えた子羊たちが、この孤島の断崖絶壁の弱小個人ブログまで訪ねてきてまで、答えを探そうというのだから、由々しき問題だ。
おそらく、筆者の言葉というよりも、ブッダや聖者、覚者の言葉をたよりに人間関係の悩みを克服するための引用をみたいというやつだろう。
いいだろう。そんなに見たいなら、見るがいい。
じっさい、人間関係について、どうやって生きるか、筆者がブッダをはじめとする覚者の言葉から、参考にしたものをあげることにする。
「もし君が敵からいやな目に遭わされて、鬱になったり落ちこんだりするのなら、それを見た敵は、「わーい、ざまーみろ」と笑って喜ぶだろう。 ゆえに「真の損得」を知る人は、どんないやな目に遭わされようとも、嘆かず平常心を保つ。前と変わらず穏やかなままの、君の優しい表情を見た敵は「ちぇっ、がっかりだ」と落胆する。 皮肉なことに、敵を悩ませるための最高の「イヤガラセ」は君が怒らず朗らかにしていることだ」ブッダ(超訳)
「自分という化け物は、自分自身が心の中で思い描いた欲望、怒り、迷いの思考によって少しずつ汚されていく。汚されていく自分という化け物は、心の中で欲望、怒り、迷いの思考を思い描かないことによって少しずつ綺麗になっていく。こうやって汚れるのも綺麗になるのも、全ては各自ひとりひとりの自業自得、他人が他人の心を綺麗にするなどできやしないのだから、余計な口出しはしないこと」ブッダ(超訳)
「他人を非難する悪口の斧が振り下ろす度、真っ先に君の心が強ばって、君の脳内に不快な神経刺激が生まれ、君の内臓に毒素が発生し、君の呼吸には毒ガスが混ざる。こんな風に心の中で怒りを発火させ、いつまでも反復しつづけるなら、その恨みはいつまでも静まることなく思い出す度燃え上がり、君には心休まるときがない。他人を困らせ、苦しめることで、快感を得ようとする習慣が身についてしまうと、怒りの声が心にたくわえられて、ネガティブ思考の牢獄に閉じ込められてしまう」ブッダ(超訳)
「君の心に怒りがさっと広がったなら、脳内には神経毒素が放出されて身体中に毒性の異変が広がる。もし君が毒蛇に足を咬まれたら、毒が身体に広がっていくのと同じ、心の中にくすぶっている怒りの、特に冷静さの薬草を刷り込んで、ことごとく消し去ることこそ、本当の命拾いになる。怒りを捨て去ったなら、君はもはや生きる苦しみの連続から軽やかに抜け出すだろう。そう、まるで、蛇が抜け殻を捨てていくかのごとく」ブッダ(超訳)
「君を嫌っている敵が、君に対してする酷い仕打ち、そんなものは大したことじゃない。君を憎む人が君に対してする執拗な嫌がらせ、そんなものは大したことじゃない。怒りに歪んだ君の心はそれよりもはるかに酷いダメージを君自身に与える」ブッダ(超訳)
「相手が誰であっても、うっかり怒りに我を忘れ、攻撃的なことをいわない練習をしなさい。そんな言葉を投げつけるなら、報復の爆弾が君に投げ返されるだろう。『あなたの優柔不断なところが嫌なの』などと、相手の一番痛いところをちくっとさせるなら、言われた相手に怒りが伝染し、相手もまた君が一番言われたくない言葉を返してくる。『あなたこそ自分で決められないくせに』と、こういった興奮から生じる言葉は言われるのはもちろん、いうときにも自分自身の心を傷つけ、身体を疲れさせる」ブッダ(超訳)
「他人の悪に気づいても、君がイライラする必要はない。他人がやらかしてしまったこと、他人がすっぽかしてしまったこと、そんなものをジロジロ見るのはやめなさい。その代わり視線をくるっと君の内側へと反転させて、じっくり見つめてみたまえ。自分は何をやらかしてきて、何をすっぽかしてきたのか」ブッダ(超訳)
「心を防御するのを忘れていたが故に、耳に痛い言葉をぶつけられてうっかり気づいてしまったとしても、トゲのある言葉で言い返すことのないように。自分の内面をこそ見つめる君にとって、他人と敵対することなどまったく不必要なことなのだから」ブッダ(超訳)
「すぐにカッと怒る人、いつまでも恨みを忘れない人、自分の欠点を隠そうとする人、自分を実際より良く見せようと親切を押し付ける偽善者、こういった人々は最低の人間だと知っておき、その仲間入りをしないように」ブッダ(超訳)
「『うーん、指摘したいんだけど、どうしよう』と、君が心の中に秘めて隠している言葉が、事実に反していたり、他人にダメージを与える内容だったりするなら、決してそれを語らないように。さらにその秘めている言葉が事実であったとしても、それが他人にダメージを与える内容であるなら、それを語らない練習をすること。君の胸に秘めている言葉が事実であり、しかも相手にダメージを与えず、相手にとってメリットがあるとわかるなら、あくまでもタイミングを見てそれを伝えなさい」ブッダ(超訳)
「自分の内側を見つめない、自分の心の心理から目をそらす、そんな人とは仲良くしないこと。自分の心を見つめる気のない、いい加減な人とつるまないこと。自らの心を見張り、向上しようとしている人こそ、友や伴侶として親しくすること。心の澄んだ人と一緒にいること」ブッダ(超訳)
「自分の内面を見つめることなく、感情をコントロールしようとしていない人とは友達にならないこと。そんな人と親しくするなら君は長らくその人の欲望や怒りに悪影響を受け嫌な思いをするだろう。自らの感情をコントロールしようとしない人と一緒に暮らすのは、それは君にとってずっと苦しみであり続けるだろう。心が整えられた人同士で一緒に楽しく親しく進むのが、君の心の安らぎと互いの成長のためになる」ブッダ(超訳)
「他人にいっさい期待をしないとき、君の態度は柔らかく、その場その場に応じて、柔軟に言葉を返すことができるだろう。このように心が深く落ち着いているのなら、特定の宗教や人を信仰する必要もなく、いまさら『心を落ち着けなくては』とがんばる必要もない」ブッダ(超訳)
「私の生徒であろうとするならば、世間の評価や名声など放っておいて、孤独の中に自分の内面を探究するように」ブッダ(超訳)
「自分の内面を見つめるのを忘れると、知らないうちに君の心には求めてもがきまわる渇愛が増幅する。欠乏感の癌は別のところへ転移していく。満たしたと思えばすぐに足りなくなる、その渇愛を誤魔化したくてわがままという名の植物がどんどん生い茂っては君を苦しめる。欠乏感という植物の根っこを掘って焼き払うこと。この植物が生えたことに、君がはっと気づけたならば、知恵のスコップでその都度植物の根っこを掘り崩すように」ブッダ(超訳)
「この思考という化け物をストップする座禅に打ち込むなら、渇愛という悪魔の呪縛から解き放たれる。君が執着して快感と、錯覚していることについて、実はそれらは空しいものだと修行に打ち込むなら、渇愛という悪魔の呪縛を君は断ち切っていける」ブッダ(超訳)
※
アンマ
アドラーのいう通り、すべての苦しみは人間関係から生まれる。人間関係の苦しみは、相手に期待するところから生まれる。よって、相手に期待しないことが大事、という話をしているだけだ。坂本龍馬も、人間関係はほどほどがいいといっている。「およそ他人がする上で最も愚かな行為は他人に完璧を求めるということだ」と言っている。
ここで。あのブッダと同列に位置している。賢者スリユクテスワのあの名文句も引用しよう。
まぁ、あまり期待しないことだね。
もう一つ、
※
さて、あんじゅ先生だが。
あんじゅ先生の記事で、どうしても人の悪口をいえない。彼氏と別れるとき、彼氏に嫌々ながら頼まれて言ったが、お互い不快しか残らなかったとある。
あんじゅ先生に限らず、人の悪口を言えないという人は、本能的にブッダ的思想の枝葉を有していると思われる。
もうお互いに正直になろうとか嫌なのです。
私は面白いことを笑って漫画にしたいんです。否定をアウトプットなんかしたくないんです。
価値観が違うのが面白いのにそこをすり合わせないといけないことが私にとって辛くしんどくて逃げてしまう部分であります。
人間関係はほどほどに。カラッとしている必要がある。『竜馬がゆく』で坂本龍馬が何度も口にしていた言葉だ。龍馬ほどよく人間を考えて、繊細で、傷ついたり、激しい戦いのあとが見える人間はいないが、それを自分の中で完結させ、他人に対してカラッとすることに努めた。これが上手かったから、薩長同盟も大政奉還も成し遂げられた。
ヨガナンダ、他人への
じっさい、大学時代から、人間関係について、どういう間合いで生きるか、確かに、筆者はそれについて頭を悩ませている時期があった。例の如く、それに関するエピソードも挙げておこうと思う。
※
大学時代、付き合っていた彼女に、「人間関係はほどほどがいい。でもそのほどほどに全力をこめている。大学の友達連中には全員そういう態度で接している」といったら、泣かれてしまったことがある。
別れるとき、彼女は泣きながら、「ほんとうに、あの言葉が忘れられない。あの言葉がほんとうにショックだった……。わたしにもそうなのかな……と思って、あの言葉以来、しまるこ君の一つひとつの言葉や態度が、わたしに対して、人ほどほどなんだな、としか思えなくなった……」と言われた。
筆者は「いや、なんというか、そうじゃなくて、うーん、なんていったらいいかわかんないんだけど、なんていうか、えと、なんていうか」と、ずっと「なんていうか」と言っていた。
出会い系で女に会うと、ほぼ間違いなく、すべての女性から、「どうして前の彼女と別れたんですか?」と聞かれる。
答えると、じゃあその前の彼女は? その前の前の彼女は? と無限列車のように聞きたがるのが彼女たちの常だ。女に会いに行ってるのかこの質問に会いに行ってるのか分わからなくなるくらいだ。彼女たちに、『ほどほどに付き合おうとした』と言ったら、どんな答えが返ってくるだろうか。
そうやって筆者は彼女と別れたのだが、そのとき、別れたことをすぐに友達に報告した。いつも電話している友達だ。このときの会話は、一字一句覚えている。
「その女だいぶ頭悪いね。聞いてるだけで殴りたくなるわ。よくそんな女と付き合ったね。人間関係はほどほどにって、お前がふだん口にしている哲学のなかでもいちばんレベルが低い部分のやつじゃん。もっとひかれる引き出しいくらでもあったろうに。お前はとっくにそんなところは通り抜けて、ずっと遠いところで戦ってるのにな。そんな出鼻をくじかれたところで、ひかれているようじゃ、別れて大正解じゃん」と友人は言った。
友人は続けた。
「まっちゃんが、『ごっつええかんじ』のコントは6割ぐらいの力で作ってるって言ってた。でも、その6割を100%で作る。最初から100%のコントを100%の力で作ろうとすると、誰もついてこれなくなるから、そうしているらしいけど、それと同じじゃない? 100%と100%でいつもぶつかっていたら、消耗しか残らないし、それは愛とは違うと思うけどね。誰だって、100%で付き合ってないからね。みんな、ほどほどにやってるし、ほどほどしかやりようがなくね? お前の大学の連中だって、お前に対してほどほどでやってる、その女も自身じゃ気づいていないけど、友達にも、家族にも、お前にも、ほどほどでやってる。セカチューの見すぎなんだと思う。セカチューが悪いと思う」
「あと、倖田來未とEXILE?」と筆者は言った。
「そう。セカチューと倖田來未とEXILEが悪い。ただ、俺だったら言わないけどね。俺はそれを言ったら女がひくってことが分かるから言わないけど、まぁ、お前も口が滑っちゃったんだろうけどね。でもそのレベルの口滑りでひかれているようじゃ、お門は見えているからね。じっさいは、本当はその言葉が理由じゃないだろうけどね。人と人が別れるときは、この言葉がどうとか、この行動がどうというものは決定的な要因にはならない。本当の原因は、もっと根本的な部分だろうね。単純に別れの理由としていちばんピッタリだったから使われただけだと思う」
「それは俺自身がいちばんよくわかるかも」と筆者は言った。
「『ほどほど』ってワードを出したのがまずかったね。『ほどほど』っていう響きだね。セカチューたちは『ほどほど』ってワードに凄まじいアレルギーを覚えるから。やっぱり『るろうに剣心』を見るべきだと思う。さいきん剣心を見直してたけど、やっぱり剣心は超名作だね。剣心なんてまさにそれじゃん。めちゃくちゃほどほどに接してる。薫、弥彦、佐之助、あいつらが何をいっても、オロロ〜ていってる。剣心が本気出したらみんなついてこれないからね。お前も剣心みたいにすればよかったのに。女も、セカチューじゃなくて剣心を見ないと。まぁ、剣心は『人間関係はほどほどに』なんていわないだろうけどね(笑)」
と友達は言った。