他人にかける言葉は、普段自分に向かってかけている言葉と同じである。
他人を責める人は自分を責める。自分を責める人は他人も責める。
自分にきつい言葉をかけている人は、他人にもきつい言葉をかける。他人を傷つけようとしない人は、自分も傷つけるなという態度でいる。
YouTubeのコメント欄で激しい喧嘩をしている二人がいて、通りすがりの人が、「人は少し前の自分がいちばんイラ立つんだよ」といっていた。
どんな喧嘩だったか忘れたが、確かに2匹のカンガルーがボクシンググローブをはめて、ケンケンしながら殴りあっているようにしか見えなかった。互いの思考が連鎖して、二人でひとつの論理を築城しているように見えた。喧嘩というよりも共同作業みたいだった。
人が人に腹を立てるときは、その人の中に自分を見出すからである。少し前の自分が偉そうに語っていて、さもそれが自分より上の論理だと考えているように見て取れれば、いてもたってもいられないほど憎悪が湧いてくる。
これがずっと低位の幼稚な論理であれば、いくら上からものを言われたとしても一笑に付すだけだが、現在の自分に肉迫するような場合は抑えきれなくなる。
小説投稿サイトでは、素人が書いたような文章はもてはやされるが、よくできた作品はコメントがつかず、静かな悪意だけが充満する。
武道の道場においても、生半可にかじっている者や他流儀の経験者より、丸っきりの素人の方を暖かく迎えられる。
天才科学者も、大学教授のようなアカデミックのタイプをいちばんに嫌い、素人の発想に興味を示す。
性善説は性悪説を嫌う。性悪説は性善説を嫌う。
悟りを目指す修行者は、悟りぶった輩をいちばんに嫌う。
ホラティウスは「本当の賢人は愚か者のように見える」といっている。
ネットの喧嘩を最後まで観察していると、「もう終わりだね」「お前はもう終わり」と、その人の将来が絶望的に閉ざされていることが惑星の運行レベルで決まっているように揶揄したがる人が多い。
喧嘩をするときは、相手がいちばん傷つく言葉を選ぶのが常だが、相手がいちばん傷つく言葉というものは、自分が言われたらいちばん傷つく言葉である。自分がいちばん言われたくない言葉とは、将来が閉ざされているということだ。
『神との対話』という本によると、人間の感情は『愛』と『不安』しかないらしい。『愛』の反対は『不安』らしい。憎しみかと思っていたが、不安らしい。憎しみをはじめとした、恨み、辛み、嫉みは、すべて不安の派生に過ぎないという。この本の著者であるニール・ドナルド・ウォルシュは、神がじっさいにそう話してくれたといっている。
不安の最高峰といえば将来への不安。悪意を振りまく人は、強烈な不安を抱えており、他人にも自分の未来を強烈に不安視してもらいたいのである。
内定取消。不採用通知の山。右も左も真っ暗。詰まった。終わった。もう希望の一縷も残ってない。完全に終わった。もう死ぬことしか考えられない。自身があの闇の中でもがき苦しんだあの時間を、相手にたくさん持ってもらいたい。あの状態になってほしい。肉体的に殺すのは犯罪になってしまうから、いかに精神的に殺すか考えるのである。
死ねとか消えろとか、直接的な表現は少なくなってきて、そういった言葉は極めて稀にしか目にすることはないが、それ以上の強烈な悪意は充満していて、相手に猛烈に不安になってもらうために、人は頭脳をフル回転させる。
小説投稿サイトでは、
『自己の可能性を信じすぎた人間の成れの果ての姿を体を張って示してくれてありがとうございます』
『思いついたものを何でも描写する自分を許してしまっているように感じました。自分の言葉はすべて価値があるという思い込み、自己愛からきているのではないでしょうか』
『自己完結型であり、開けても何も出てこない宝箱に何重にも鍵をかけたような作品です』
『いくら自分に対して繊細なものを追い求めても、それを他人に読ませようと投稿すれば、その行為の中に確かなガサツさが存在するというパラドックスがあると思います』
というような、気の利いた絶望を誰がいちばんうまくいえるかという大喜利大会みたいになっている。YouTubeのコメント欄もそう。
ネットは現実である。現実の声が誇張されるのである。
Yahooの知恵袋とか、簡単なトピックのコメントとか、普通のやりとりの中でも、さりげなく相手の人生に希望がないということを言いたくてたまらない感じだ。
挨拶にはじまって、相手を褒めたたえ、相手の長所をつらつら並べて、最後は相手の未来を応援するコメントで締めくくっている文章の中にも、相手の絶望を期待しているものは多い。
人は、少なくない人が、人に人生に失敗してもらいたいと思っている。詰んで欲しい。将来に絶望してほしいと思っている。自分が絶望しているからである。
といっても、本当はだれも怒ってないし、だれも悪口はいっていない。そう見えるとしたら、自分がそんな模様を思い描いているだけである。描かなければ、真っ白があるだけだ。自分の作り出した想念に心を煩わされるほど愚かなことはない。
沢庵は、「どのような徳を積んだ人でも、他人からの悪口は避けられない」といった弟子に対して、「あなたの修行が浅いからです。あなたが未熟だから悪口をいわれるのです」と答えた。神は行動ではなく心を見ている。人にもまた心を見られている。