YouTubeを見ないようにしよう、見ないようにしようとすると見てしまう。食べ物を食べないようにしよう、食べないようにしようとすると食べてしまう。邪念を持たないようにしよう持たないようにしようとすると持ってしまう。
面白いもので、欲望に真正面からぶつかっていくと、倍加してしまうことになる。これはスリ・ユクテスワがいっていた。
ほとんどの人が、今日一日、無駄のない生活を送ることができた、といえる一日はないだろう。
鴨長明が『方丈記』で、「世の中の人が成功しないのは、やることを先延ばしにするからである」といっていた。
最近はずっとボール投げをやっている。ボール投げは2時間でも3時間でもやり続けることができ、やめる方が難しい。バットだってずっと振ってられるし、テニスの壁打ちもずっとやってられる。友達にもキャッチボールを頼んでばかりいる。楽しすぎてしょうがない。深夜にこそこそと公園の壁に向かって投げ、昼はYouTubeで投球の動画を見続ける。この1ヶ月でわかったことは、身体の使い方はバドミントンのラケットを振るときと同じということだ。いろいろスムーズに行かなくて、かなり落ち込んだりはしたが、直線のボールを投げれるようになった。1ヶ月、寝食忘れてやっていたら、66キロあった体重が61キロになっていた。
肥田先生の欲望の克服の仕方は、自身の中心を食らうというものだった。もっとも甘美で馥郁たる香りが自身の中心にあり、これに留まることで、至高の食事にありつくことができる。その結果、地上の一切の欲望に囚われなくなるというものだった。
欲望の下層には、もう一つの精神が眠っており、ここに留まり、ここに集中し、拡大していくことで、表面的な欲求には囚われなくなるということらしい。我慢するのではなくて、高貴なる精神の輝きで下位たる欲望を浄化する試みである。
なかなかこういう方法をとろうとする人はいないだろう。食事だったら、肉の代わりとなるもの、菓子の代わりになるもの、なるべくコンビニやスーパーに行かないようにすること、タバコだってチャンピックスだったり、欲望に応じた対抗策を図ろうとするだろう。
「欲望は悪いものではない」という人は多い。「無理はよくない」とみんないう。中村天風も、断食している青年をみかけると、「あんたみたいな若いのがガツガツ食べないでどうすんだい、一緒に肉を食いに行こうぜ」と誘っていた。しかし天風自体は、肉や魚を人から貰うと、「私が貰ったものだからどうしようが勝手だ」といって、目の前で捨てたことがあったという。
沢庵は、欲望は悪いものではない、もともと人間は頭からつま先まで欲望の塊であるといっている。しかし欲望は肉体が自然な生活を営むためにあるもので、欲を自分の支配下におき、道具として活用できなければ、道具に主人が奪われてしまい、破滅の一途を辿るといっている。
欲望は肉体的なものからきている。肉体的な欲望は、そのときは気持ちいいが、後になってくると活力を奪われ、どんよりとした重たい気持ちが残る。
ショーペンハウアーは「欲望は、欲望ではない。人はじっとしていることだけが苦痛で、じっとしている苦しみから抜け出したいがために、肉体的な欲求に逃避する」といっている。
確かに、YouTubeを見てしまうのも、自分という時間にもう付き合いきれず、自分に飽きてしまい、じっとしていられず、そわそわして、外側の何かに結びついて忘我したいというところからきている気がする。YouTubeとジャンクフードは変わらない。食事と情報の関係はよく似ており、摂取すれば摂取するほど支配される。
人間は何もしていないことだけは耐えられない。これもうろ覚えで恐縮だが、一週間一室で何もしないでいるという実験がある研究機関で行われたことがあったが、三日以上やり遂げられた者はいなかったらしい。
人は動物であり、行動しないということだけは絶対にできない。人間には宿命として植え付けられている天のプログラムがあり、行動をとめてしまうとこれに衝突してしまう。
ショーペンハウアーは、「幸福は消極的なもので、苦悩は積極的なもの」といった。我々が積極的になる行為は自己から逃避であり、幸福を求めているようでいて、苦痛と退屈に耐えられなくて、目の前のものに手を出してしまうだけだという。
この世界は苦痛の世界らしい。この世界は幻で、本当の幸福を見出すまでは、目の前の幻影に消耗させられるだけだという。この世界は夢。欲望は夢の中の夢。夢の中でまた夢を見ている。シェークスピアの、「赤子が生まれてきて大泣きするのは、この苦痛ばかりの地上に産み落とされたからである」という有名な台詞は、これをいっているのかもしれない。
自分の中の大いなる至福に留まれない限り、これの繰り返し。外側の何かに結びつかなければ正気を保てない。外側に立脚した精神で過ごしている限り、欲望の海に溺れ続ける。
人はみんな忙しい忙しい、時間がない時間がないというけど、忙しさの正体はこんなところである。
マザーテレサの元で働く奉仕者が、「私はどうしても華美な服を着たり、高価なネックレスを買ったり、執着が消えてなくなりません、どうしたらいいでしょうか」とマザーテレサに相談した。マザーテレサは「祈りなさい」といった。
マザーテレサは、あれだけ救済活動に熱心でありながら、仕事の開始前に二時間祈り、仕事の終わりにまた二時間祈った。この四時間を活動にあてれば、もっと多くの人を救えるのに、と揶揄されたこともあったという。
ここで、チャンドラーが行っていた執筆法を思い出した。
「私は思うのですが、生命を有している文章は、だいたいはみぞおちで書かれています。文章を書くことは疲労をもたらし、体力を消耗させるかもしれないという意味あいにおいて激しい労働ですが、意識の尽力という意味あいでは、とても労働とは言えません。作家を職業とするものにとって重要なのは、少なくとも一日に四時間くらいは、書くことのほかには何もしないという時間を設定することです。べつに書かなくてもいいのです。もし書く気が起きなかったら、むりに書こうとする必要はありません。窓から外をぼんやり眺めても、逆立ちをしても、床をごろごろのたうちまわってもかまいません。ただ何かを読むとか、手紙を書くとか、雑誌を開くとか、小切手にサインするといったような意図的なことをしてはなりません。書くか、まったく何もしないかのどちらかです。(中略)この方法はうまくいきます。ルールはふたつだけ、とても単純です。⒜むりに書く必要はない。⒝ほかのことをしてはいけない。あとのことは勝手になんとでもなっていきます」
まずデスクをきちんと定めなさい、とチャンドラーは言う。自分が文章を書くのに適したデスクをひとつ定めるのだ。そしてそこに原稿用紙やら(アメリカには原稿用紙はないけれど、まあそれに類するもの)、万年筆やら資料やらを揃えておく。きちんと整頓しておく必要はないけれど、いつでも仕事ができるという態勢にはキープしておかなくてはならない。
そして毎日ある時間を――たとえば二時間なら二時間を――そのデスクの前に座って過ごすわけである。それでその二時間にすらすらと文章が書けたなら、何の問題もない。
そううまくはいかないから、まったく何も書けない日だってある。書きたいのにどうしてもうまく書けなくて嫌になって放り出すということもあるし、そもそも文章なんて全然書きたくないということもある。あるいは今日は何も書かない方がいいな、と直感が教える日もある(ごく稀にではあるけれど、ある)。そういう時にはどうすればいいか?
たとえ一行も書けないにしても、とにかくそのデスクの前に座りなさい、とチャンドラーは言う。とにかくそのデスクの前で、二時間じっとしていなさい、と。
その間ペンを持ってなんとか文章を書こうと努力したりする必要はない。何もせずにただぼおっとしていればいいのである。そのかわり他のことをしてはいない。本を読んだり、雑誌をめくったり、音楽を聴いたり、絵を描いたり、猫と遊んだり、誰かと話をしたりしてはいけない。書きたくなったら書けるという体勢でひたすらじっとしていなくてはならない。たとえ何も書いていないにせよ、書くのと同じ集中的な態度を維持しろということである。
こうしていれば、たとえその時は一行も書けないにせよ、必ずいつかまた文章が書けるサイクルがまわってくる、あせって余計なことをしても何も得るものはない、というのがチャンドラーのメソッドである。 …(中略)…
僕はもともとぼおっとしているのが好きなので、小説を書くときはだいたいこのチャンドラー方式を取っている。とにかく毎日机の前に座る。書けても書けなくても、その前で二時間ぼおっとしている。》 (村上春樹『チャンドラー方式』より)
まぁ、無理して書く必要もないがね。できるだけ人を楽しませたいとは思っているが、
『最大の関心事は、どうやって周りの人を喜ばせるかから、どうやって神に到達するかに移るべきなのです』
『この世界はあなたなしでも進んでいきます。あなたは重要ではありません。自分が考えるほどは! 数え切れない無数の人々が、万劫の屑籠に投げ入れられてきました。私たちが努力すべきことは、他人にどう認められるかではなく、神にどう認められるかなのです』パラマハンサ・ヨガナンダ