糞な人間ってのは後を絶たない。
職場には糞な人間がもれなくついてくる。全ての職場でいなかった試しはない。マクドナルドと違ってアンハッピーセットだ。
いつも、糞な人間に出会って思うことがあるが、糞な人間でも必ずドラマ、小説、漫画、アニメ、映画といった何らかの物語作品を観ることがあるはずだ。
彼らは必ず、物語を観て感動して、涙して、心の中が情感たっぷりになって、魂が洗われる感覚になる。晴れ晴れとした気持ちで、スペクタルな大冒険を終えた顔をして映画館から出てくる。また見識が広がった。これを見る前と後では自分はまるで違う。映画を観てない同僚を見て、こいつより優位に立ったぞと思う。
主人公が悪しき人物の策略や奸計に陥って、窮地に立たされても、誠実なパワーで、やっつけるシーンをみて、やった! と喜んでいる。
あの場面でバスーカを放って飛行機を墜落させたのは間違っていた。たしかに機内にはゾンビが蔓延していたが、操縦室のパイロットまで爆炎に包む必要があったのか? 飛行機が着陸するのを待って、操縦室の窓ガラスだけを叩き割って、パイロットを救い出すことはできなかったのか? といった真剣な考察もしたりする。
彼らは作品を見て、登場人物の気持ちになりきって打ち震えるが、なぜ現実世界ではその主人公のような態度がとれないのか?
大人は職場でみっともないいじめを平気でする。全員で一致して誰かを辞めさせようとする。自分から辞めるっていわせるために、その人だけに強い口調で話したりする。ある一人の権力者が醸し出すいじわるな雰囲気にみんな不本意ながらも呑む。この人達も十分にいじめ側の人間だ。
不思議なのはそれを行う彼らが、【小説漫画ドラマ映画】といった作品を年がら年中見ていることである。
作品は作品の中で完結し、現実の日常生活とは関係がないというのか?
作品であれだけ感動したことはなんだったのか?
滝のように流した涙はなんだったのか?
職場で嫌な人がいて、その人を腫れ物のように扱うとき、あのとき流した涙のことを思い返さないのか?
悪党らしい悪党は少ないかもしれないが、そういう小悪党は職場にはとても多い。北斗の拳のようにゲラゲラ笑って登場し、次のコマでは頭が吹き飛ばされているキャラクターだ。
「あの人、わたしには今日挨拶しなかった。わたしにだけしないようにしているのかしら? わたしも一旦しないようにしましょう」
「吉澤さんは田辺君を怒ってばかりだ。俺も田辺君を怒らないと吉澤さんの心象が悪くなるので怒るしかあるまい。田辺君と二人きりの時に怒っても吉澤さんへのアピールにならないから、吉澤さんのいる前で田辺くんを呼び出して怒ろう」
このような小悪党は大変に多い。
この手の精神レベルの人間は、全て頭が吹き飛ばされる側であり、雑魚キャラであり、主人公を引き立たせるための演出用途に過ぎない。この手の人物はドラマには必ず出てくるが視聴中に誰もがつまらないキャラだと思うし、漫画だったらさっさと次のページに行くために読み飛ばしたくなるキャラクターだ。これらの人物に主人公が足止めされていると怒りを感じるものであり、しかし気づいてか気づかないでか、現実世界のほとんどの人間は、この読んでいて不快に感じるキャラクターと現実世界で全く同じキャラであり全く同じことをしているのだ。彼らは北斗の拳を読んでいるとき、自分はケンシロウだと思って読み進めているが、頭が吹き飛ばされる側だったのだ!
それでいて、うーん楽しかった! 感動した! と言っている。
いったい作品の何を観ているというのか? 作品は作品、あくまで観賞用で、暇つぶしで、切り離しているというのか? なるほどそれならいい。だが視聴しているときのその感動はなんだ? その主人公と一蓮托生して同じ心情になっている心持ちはなんだ? その感情移入はいったいどこからきている? 主人公の足を引っ張る雑魚キャラを見ては、この雑魚キャラをどうにかしないと、と本気で心配していたりする。
『これはすげぇ共感できるなぁ…高一のときバイトしてたとこではマネージャーがとにかく厳しくて時にはまさに意地の悪い悪党みたいな感じだった。それで何人か辞めてった程だったから、「こんなに威張れるならさぞこの仕事に対してストイックなんだろう。きっと家でもマネジメントの勉強しているに違いない』と思ったものだが他のマネージャーとの会話を盗み聞きした時、家に帰ったら速攻Netflixを見て過ごすただのNetflix廃人だということが判明した。」
読者コメントより
それで何人か辞めてった程だったから
上のマネージャーは、「それで何人か辞めてった」あいだ、7作品ぐらいは物語作品を観ていたはずである。
それらの作品の劇中シーンでは、主人公が、「とにかく厳しくて時にはまさに意地の悪い悪党みたいな感じ」の人間と戦い、乗り越えていく展開が山ほどあったはずであり、マネージャーはそれを見て、言いようもないなんとも言えないカタルシスを味わっていたということである。