30年に渡り女性の心を研究してきたにもかかわらず、未だ答えることのできない大きな疑問は、「女性は一体何を求めているのか?」である。ジークムント・フロイト
女が何を求めているのか知りたくて、「アーサー王物語」まで読むはめになってしまった。700年前の物語である(アーサー王物語は5世紀後半から伝承され中世後期に完成されたらしい)。
こんなのを読むぐらいだったら、タピオカの試飲をしながらディズニーのパンフレットを読んだ方が役立ちそうなものである。
なぜそんなに女性を解き明かしたいのか。自分でもよくわからない。女について考え、女について記事にしてきた。現在しまるこブログは630個の記事があるが、そのほとんどは女性に関する記事である(毎日女のことを考えすぎて頭がおかしくなってきそうだ……!)。しかし、そのせいか、こんな汚らしいブログにも関わらず、読者の6割が女性なのである。
そんなに女の心理を知りたければ、『直接女に何を求めてるかって聞けよ』と思うかもしれないが、その女ですら自分が何を求めているのかわかっていない。
だから最古の物語に聞かねばならなかった。文明にねじ曲げられる前の男と女、性差。こればかりは文献に文献を重ねても、重ねた分だけ答えから遠くなっていきそうだったから、最も直感が働いていたころの時代に聞くことにした。小生は自力では無理だった。フロイトでも無理だったのだから仕方ない。
「すべての女性がもっとも望むことは何か?」
数々の冒険を成し遂げたアーサー王ですが、時には失敗することもあります。「ガウェインの結婚」では、自分の領土を取り返して欲しいという女性の訴えを聞いて、悪い騎士の城に乗り込んだまではよかったのですが、城には呪いがかかっていました。そのため、手足は萎え、地面にはいつくばって、命乞いする羽目になりました。
冒頭の問いは、この時、悪い騎士が命を助けることと引き換えに出した謎かけです。王は、1年後に答えを持ってくることを約束して、ほうほうの態で逃げ帰りました。自分の国に戻ると、街や村で出会う女性に片端から声をかけ、「あなたの望むことは何か?」と質問します。しかし、返ってくる答えはバラバラ。
「愛情」「綺麗なお洋服」「やっぱりお金」「健康な子供たち」どれも正解のようであり、不正解のようでもあります。約束の1年はあっという間に過ぎ、王が首をひねりながら、森のなかを馬で進んでいると、一人の女性が声をかけてきました。
「王よ。私はあんたが探している答えを知っているよ」
見るとカシの木とヒイラギの木の間に一人の老いた魔女がいます。窮地の王は飛びつきました。
答えの対価は老婆との結婚
「どうぞレディーよ、教えてください」しかし、魔女はここで条件を出してきます。円卓の騎士から、一人婿にして差し出せというのです。王は愕然としました。だって、年寄りのうえに、とんでもなく醜い魔女なのです。
ひとまず、あいまいな返事だけして、城に戻りました。そして、どうしたものかと城で一人悩んでいると、王の甥で、円卓の騎士のなかでも一二を争う強者、ガウェインが、声をかけてきました。
「どうしたのですか?王様」
王はかくかくしかじかと説明します。すると、ガウェインは自分がその婿になると、快活に答えました。彼は、一本気で、純粋な男なのですね。王は「醜いから」とか「年寄りだから」とか色々言って、止めようとするのですが、最後には甥に押し切られた形になりました。王は、魔女の元へ行き、ガウェインが結婚相手になると伝えます。すると魔女は悪い騎士の謎かけの答えを教えてくれたのですが、さて、その答えは何でしょうか? みなさんも考えてみてくださいね。
魔女の答えは、「自分の意志を持つこと」というものでした。
「自分の意志を持つこと」
不思議と納得させられてしまった。なぜだろう、なぜだかわからないが、これが答えだと感じてしまった。なぜそうなのか、答えについては説明できないけれど、これが答えなんだろうというのを感じる。
無論この答えが正しいかどうかはわからない。小生が引っかかっだけである。アーサー王物語という古典の荘厳さに思考を奪われているだけかもしれない。
700年前から、「女は一体何を求めているのか」ということについて考えられていたことがおもしろい。
昔の女性は現代とは比べ物にならないほど男に隷属させられていただろうから、男や国家、権力者からの解放を希望していたのか。そう受けとれなくもない話だが、小生はそんな単純な話ではないと思っている。
世の街を歩く女性1000人に、「あなたの求めているものをなんですか?」と聞いたとしても、「自分の意志を持つこと」と返ってくることはないだろう。4、5人いるかどうかではなかろうか。
ロダンは、この世で最も美しい女性とは夫の帰りを待ちながら家事をしている女だといっている。
現在、女の方々は幸福は服従することだということ、自由は女にとって悩みに過ぎないということ、また愛するときには男の意思に従うことが最大の喜びだということを会得しません。ニーチェはそれをうまく言っています。男の幸福は「われ欲す」女の幸福は「かれ欲す」だというのです。人が女の方々に教えねばならないことは、服従の喜びです。オーギュスト・ロダン
女性は確かに服従されたがっている。自分の全体重を男に預け、そのまま浅黒い腕の中で永遠の眠りにつきたいと思っている。それが自然である。それが美である。男も女もそれを求めているようにみえる。では、服従されたがっているのに意志をもちたいとはどういうことか。それがよくわからない。
女の献身力は男のそれとは比べものにならず、どう男が努力してもこの方面では敵わない。いわば愛の専門家である。
徹頭徹尾男のために奉仕し、酒便を投げつけられたり、肛門のうんこをほじくり出してやったり、そこには男にどうしても訪れてしまう迷いや抵抗が女にはないのだが、それでいて自分の意志をもちたがっているというのか。
意志とは。
卑弥呼のように国の全権を握りたいなんて思っていない。家庭のイニシアチブすら本当はいらないのだ。恋愛の主導権も。
彼女たちが引越しババアみたいに半狂乱し、始終旦那を怒鳴りつけるのは、一重に男がだらしないからである。彼女たちだって本当は怒りたくない。美しい家庭生活を送りたい。でももう怒ってる姿見られちゃったし。彼女たちも本当は、何重にも着物を重ねて、音を立てずに畳のヘリを踏まずに歩く、そんなことに専心していたいのだ。しかし我々男子がそれをさせてあげられないゆえに女は半狂乱化す。
結婚して子供がいて何不自由ないように思える女性でも、半分幸せで半分不幸といった顔をする。仕事にすべての情熱をかけている女性だとしても、ふと寂しい顔を見せる。結婚も仕事も順風満帆だという女性だとしても、ふと寂しい顔を見せる。
ずっとアキコさんと呼ばれていると、お前と呼ばれたくなってくるし、お前と呼ばれているとアキコさんに戻してもらいたくなる。「お母さん」と呼ばれるのはどんな場合においても嫌だ。
『女医が書いた本当に気持ちいいセックス』という本も、書き手も読み手も本当に求めているものではなさそうだ。なんだか余計にセンシティブになって、社会に冷たい風が吹くのを手助けするだけだ。だったらまだ少女漫画の方が真理に近いだろう。
乃木坂のアイドルの子たちも、果たして本当に満たされているかといったら疑問である。中学生や高校生の女の子も、ふと寂しい顔を見せる。ふと寂しい顔を見せないのは、小学生までの女の子である。
意志。それは承認欲求なのか。
自分の全存在……。当たり前だが人はいつも自分と一緒にいる。ずっと自分と一緒にいて、ずっと自分に矢印が向いている。それと同じくらい他人に自分を見てほしい。人が生きていられるのは自分を何よりも肯定しているからだ。自分でもよくわからない、この漠然とした自分というものを、見つけてもらいたい。恥ずかしくて目を逸らしたくなるほどの視線を向けてもらい、熱い涙を流したい。
彼女たちは一人で皿を洗ってるとき、夢遊病患者のような顔をしている。元気な子も大人しい子も、皿を洗うときはこの世から切り離されてしまったような顔で洗う。彼女たちはああいうときの自分だけは決して人に見られたくないと思っている。どんなに意中の男だったとしても、部屋に盗撮カメラをセットされていたらこれ以上ないほど嫌いになる。この時間を盗み見られることに、彼女たちは最大の嫌悪を抱くのだ。
彼女たちはこの時間を心の底から受け入れることができない。周りと共有することもできない。それゆえ彼女たちは音楽をかけっぱなしにする。彼女たちが部屋にいるときも外にいるときも音楽を聴き続けるのは、自分の真空に取り込まれ、世界と切り離されるのを恐れるためである。
我々男子はいつもこの摩訶不思議な感情を前にして試されている。私は鱗粉を撒くだけ。蝶のようにヒラヒラ舞うだけ。さぁあなたのすべてをつかって私をつかまえてちょうだい(蝶なだけに)
意志とは何か。もっと閃光のようなもの、まばゆい閃光のようなもの。意志。それは死かもしれない。閃光のような光の海に溶けていきたい……ということか。
意思ではない、意志。彼女たちは意志を持とうとしても持てない。意志をどう持ったらいいかわからない。彼女たちにとって意志とは何なのか。常に意志と戦っているような気がしないでもない。
この言葉に、どうしても引っかかってしまう。避けて通れないものを感じる。