芸能人の記者会見を見る度に、沢尻エリカの『べつに』を思い出す。
真剣10代しゃべり場で、いかに少年少女たちがその思春期の胸のうちを打ち明けようとしても、沢尻エリカの『べつに』ほど、一次的な思いを開示することに成功した例はない。
松っちゃんは当時ラジオで、「いいんじゃないですか? 彼女にも色々あったんでしょう。僕は好きですけどね。19歳やそこらの女の子を叩いてるやつら頭おかしくないですか? だって19歳でしょう? 19歳だからいろいろあるでしょう。思春期のもやもやかもしれないし。可愛いじゃないですか。エリカちゃん可愛いね、どうしたの? ぐらいの感想にならないでどうするんですか? だいの大人が寄ってたかって19歳の女の子を叩くなんてカッコ悪すぎないですか? でもエリカが僕の番組でやったら馬乗りになってボコボコにしますけどね(笑)」といっていて笑った。
バトンは沢尻エリカから前田敦子へ渡った。芸能界の歴史において、前田敦子ほどいつも不機嫌な女はいなかったという。前田敦子は控え室ではずっと無言で不機嫌な顔をしており、いざ本番になるとベテラン顔負けの笑顔でやり過ごしたという。そして本番が終わるとまた不機嫌な顔に戻ったという。ロンブー敦はぜったいに前田敦子に話は振らなかったらしい。
なぜ自分で自分の首を絞めるのか。不機嫌であることほど世の中に罪なことはないと、どのスピリチュアル本にも書いてある。
不機嫌、それは恐ろしい病だ。不機嫌な子ほど愛に飢えている。なぜ彼女たちは不機嫌なのか。べつに芸能界でもなくとも、いつも不機嫌な女の子がいる。
小生は不機嫌な女な子をみると、とても正直だと思ってしまう。色気や女の子らしさを犠牲にしてまでも自分の中の純文学と戦わずにはいられなかったのだ。10代は不機嫌でいてこそ当たり前だろう。部活動のマネージャーをやったり、ポイントガードのようにパスに専念したり、他人の快楽を優先するように生きてきた人間より健康的に見える。
以前、秋元康が指原莉乃に、「お前センターになりたいか?」「はい」「お前はなれないよ」「え?」「お前がどうしてセンターになれないかわかるか? お前は皿に残ったクッキーが最後一枚だったらぜったいにとらないだろ。でも前田はとるよ。まったく躊躇もなく」と話していて感じ入るところがあった。
単純に良い悪いの話ではなくて、一次的な感情だから、エネルギーや新鮮力にあふれているのである。沢尻エリカや前田敦子の芸が凡百の女に抜きん出て素晴らしいのは、この一次的な感情に普段から浸かっているところが大きい。
記者会見の感情。記者、タレント、カメラマン、テレビの向こう側の人、Twitter民、いったい何次的の感情だろう。すべて一次的な感情を無視した結果だろう。一次的の、そのさらに一次的なもの、一次的なものが生まれてくるところ、そこにしか我々は用はないはずなのに、回りくどく、ずるがしこく、何度も何度も上書きされた感情と思考を見せられる。記者会見を取り上げる情報番組の進行者たちも。
小生はプンスカしている女の子を見ると、ずっと観察してしまう癖がある。何があったんだろうと、時間が許す限り想像力を働かせてしまう。ずっと見ていると、「見てんじゃねーよばか!」といわれて「ひっ!」となってしまうが、それでもつい見てしまう、そしてまたギロッ! とされてしまう。
泣いて暴れて、まるでパット部から血がはみだしたナプキンのように、いろんな感情が漏れでている姿こそ、10代の彼女たちの真の姿である。それを叩くのは大人としてどうかしている。我々はその生命の奔流に恭しく頭を下げなければいけないのである。決してもっと女の子らしくしなさいなどとはいってはいけない。それが彼女たちの仕事なのである。赤ちゃんが泣き荒ぶように、理由などないのである。波打つ生命のほとばしる力に、制御が追いつかないのである。それが、沢尻エリカで、前田敦子である。真に女性的といえる。
今はもうこのバトンを次ぐものはいなくなってしまった。みんな仲良し、みんないい子。
彼女たちの不機嫌は、とても一次的な感情である。我々が失ったものを呼び覚ましてくれる。Twitter民はまるで担任の教師気取りで説教をするが、教えてもらわなければならないのは我々の方である。彼女たちの不機嫌以上の教材があろうか。もちろん一次的なものが怒りではなく、優しさや喜びだったらいうことはない。いうことはないのだが、一次的であること、それ自体に価値がある。
最後のバトンの保持者である坂上忍は番組に出れば必ず叩かれている。YouTubeのダウンタウンのハシゴ酒のコメント欄はすべて『坂上消えろ』というコメントで埋まっている。毎度叩かれて凄まじいことになってるのに、それでも番組に起用され続けるのは、彼の一次的感情が場を支配していることに他ならない。
彼が感じたことが他の人の感情になってしまっている。怒り、悲しみ、笑い、発見、驚き、彼の中に純粋に発生した感情が、そのままダイレクトにその場にいる人に伝播する。叩くが叩かまいが、テレビの向こう側までその波動は広がっていく。坂上アンチのフィルターを通して見る人にだって、その波紋はちゃんと伝わっているのだ。
芸術もエンタメ作品も政治も組織も仕事も何から何まで、その人の個人的な感情が周りに普及した結果に過ぎない。一次的な源泉の感情をそのまま波及させてしまうものがすべての実権をもつように世の中はなっている。
職場を考えてみてほしい。職場がまさにそれだ。よくわからないクズがすべてを持っていることがあるだろう。仕事の出来不出来など関係ない。人間の良い悪いも関係ない。ただ一番発言力のある人。一次的な感情をそのまま波及させてしまえる人がすべてを手にするようになっているのだ。そして他の人間はその人の一次的感情を再現させるための部品と化す。
Twitter民がなぜこんなに前田敦子や沢尻エリカを叩くのか。異常なくらいに坂上忍を叩くかというと、自分が一次的な感情のまま生きられない弱さにある。彼らはいついかなるときも、権力者の一次的感情に踊らされ続けることしかできない。自分の一次的感情を他人に波及させるすべを知らない。すぐに恐怖に煽られ、自分から一次的感情を持つことを放棄してしまう。自分から二次的、三次的……と、どんどんどんどん感情に感情を重ね、その上に理性をパッケージして、自分作りを完成させていく。