俺は恋愛をこうしろああしろと指南する記事を書く気はない。ほとんどのブログはこうしろああしろという指南記事で溢れかえっている。体験記事は少ない。周りを見ればそんな偉そうな記事ばかりなのに、体験記事の俺の方がずっと偉そうに見えるのは不思議だ。 俺以上に偉そうな記事を見たことはない。ただ自分の体験をそのまま正直に話す。そうすることによって、読者が追体験することにより判断と認識を進ませることができるかもしれない。そう思える自信が偉そうに見えるのだろう。それが文章の一つ一つに表れている。
仕事は今自分のできる仕事以上のことはできやしない。こうやって文章を書くにしても今書ける以上のことは書けない、どんなに素晴らしいものを書こうと思っても書けない。できないことをやろうとしてもできるもんじゃない。目の前にあることをただ書くしかできない。それなら何の労力も要らない。そしてそういう時はいつも必ず良いものが書ける。だから人はいつも目の前のできることだけをやっていればいい。問題はそれは恋愛にも言えることなのかだ。
常に新品を求めて、良いものを求めて、そうではないとすぐ捨ててしまおうとする自分が怖い。いつも捨ててばかりいた。捨てられたこともあるけど。
俺は人とは違うのではなかったのか? 違う道を進んで、誰も求めようとしないものを俺だけは求めて、一生懸命大悟しようとするはずではなかったのか? そして大悟するためには愛が必要だということが分かっていたはずなのに。
完璧な女を頭の中で作り上げて、そんな人間と付き合いたいと夢見てしまう。もっと良い女はいるはずと願ってしまう。現在ではなく未来を夢想して、今の彼女を振るということを何回もやってきた。
19歳の彼女が、「痩せたい、可愛くなりたい」というので、力になりたいと思ったけど、俺の言うことを聞かずに食べたいものを食べまくるという生活を送る彼女に対してイライラしてしまった。「食べることだけは本当に無理、他の方法を教えて」いう。しかし他の方法はない。食生活の改善以外に病気の治癒も美容の向上もない。
人間にとって食べることは最大の楽しみだ。そして彼女は職業柄、お菓子を作る勉強をしている学生さんだ。今日も毎月購読している製菓の本が家に届いたと言って嬉しそうにしていた。その本を読まずに捨てろというのか。
あまりにも少食や断食について勉強してきた。そしてそれを実践してきて、これは絶対に人間がやらなければならないことだと悟った。そして彼女のような重篤な持病を抱えている人間こそ、俺以上にやらなければならないことだと思う。基本的に少食はメリットしかないのである。人間が必ずやらなければならない債務である。
一番腹が立っているのは簡単に弱音を吐くことや俺の言葉を聞こうとしない態度なのか。19歳だ。そういうものじゃないのか? 15歳も俺は年上なのに同じところで戦っている。イライラする時点で俺もどうしようもない。15歳年下の女の子を説得もできないどころか、イライラしてしまうとは情けない。
彼女は本当にイライラしなければならない対象なのか?
(心がなければ愛せるようになれるのに)
そんな事をよく思う。矛盾しているようだが、心がなければ人を愛せることができる気がする。イライラする気持ちやより良いモノを求めようとする気持ちや奢侈な気持ちや心の波風がばかみたいに騒ぎ立てて、全てをめちゃくちゃにしてしまう。他人は他人だ、俺ではない。何を食べようが自由だ。痩せようが可愛くなかろうが勝手だ。それを俺が愛せるかどうかだ。相手は関係ない。いつだって俺と神との関係が試されている。
「痩せたい。可愛くなりたい。顔が小さくなりたい」ずーっとそんなこと言っている。「ねぇ、お願い何でもするから教えて」と言ってくるけど、すぐに無理という言葉を吐き出す。昔からそういう人間に腹が立ってしまう。
贅沢に食べまくることも悪。人の話を聞かない人間も悪。すぐに消極的な言葉を吐き捨てるような人間も悪。19歳の人間にそれを強要するのは情けないことなんだろうか?
彼女は彼女なりに頑張っている。ただそれを見てあげればいい。やはり全ては俺の心が邪魔なのだ。
ある商人が、大きな売買をするとき、いちいち怖気づいてしまって、立ち止まってしまって失敗を繰り返したという。そこで、前もってよく考えておいて、考え抜いたら、あとは決して振り返ったり怖気づいたりすることなく、事前に決めた通りの売買だけをするようにしたら、大変上手くいくようになったという。
山岡鉄舟はこの話を聞いて思うところがあり、それを剣に応用して大悟したと言っていたが、なるほど、俺にはなぜそれが重要だったのかわかる気がする。
目の前のことに1回1回立ち止まって迷っていてはダメなのだ。事前に1度考えをまとめておいて、そしたらあとはもう考えない。その通りにする。後のことは何も気にしないようにする。1度考えを決めたら、あとはただ進むだけなのだ。つまり、恋に応用するなら、彼女の嫌なところが目に付いたとしても、自分の中で彼女を大切にすると決めたのであれば、ただそれのみを実践して他の瑣末なことに心を揺らさないようにするということだ。これが商売においても剣においても恋においても極意なのだ。悟りなのだ。
肌のアレルギーよりも、IGA腎症よりも、人を愛せない方がずっと重篤な病気だ。彼女ほど、少食が必要な人はいない。小食どころか断食が必要になってくる。アレルギーにも腎臓の病気にもダイエットにも、そして精神にも19歳の落ち着かないバタバタした心にも、全てにおいて彼女ほど少食に適した人間はいない。
色々言ってもすぐに面倒くさいとかだるいとすぐに言う。それどころかあんまりちゃんと聞きもしない。自分から何か方法を教えて! と言ってきながら、ちゃんと聞きもしない。聞く前からすぐぶつくさ言う。その度にイライラしてしまう。だから、病気も治んねーんだよと思ってしまう。
これも事前に決意しておくべきだ。その場で立ち止まって1回1回考えて、彼女と関わるのはやめるべきか否か、彼女に食事の指導をするか否か決めておかねばならない。そうでないと、ことあるごとにいちいち心の波に惑わされるだけだ。彼女にはいくら小食を通して良くなってもらいたいと思っていても、無理なら頭から消すしかない。
この方法を彼女に実行してもらおうと期待するから、ぶつくさ言われて裏切られたような気分になって、俺の方もぶつくさ言い出す。イライラしてしまう。事前に俺の方で答えを出しておく。それしかない。これは、全ての他人との関係において必要なことだろう。
結局最後は祈るしかない。人は変えられない。「あるヨギの自叙伝」という本で、主人公が細すぎたため、師匠が「君はちょっと痩せすぎているね」と言い、念力を与えると、主人公の身体が20キロほど太ってしまったという話がある。とても信じられないけど、世の中にはこういう現象があるらしい。人間にはそういう力が隠されていてヒマラヤでは今もその力を解放するために多くの人が修行している。マッチョになる自分を想像して筋トレするのと、ただ機械的に筋トレするので、は、まるで効果が違ってくるという話も聞いたことがある。
俺も自分の目指したい体格もあるし、彼女自身の体も何とかしてあげたい。俺が祈りの力に見覚めればら彼女を病苦から救えることができるかもしれない。何を言ってるのかわからないかもしれないけど、超能力に目覚めるしかないと思っている。
信じられない話かもしれないが、今生きている日本人にだって、できている人はいる。少食の森美智代さんや麻雀の桜井さんは、「願ったことが何でもすぐに実現してしまう」といっていた。なぜかはわからないけど、ふと生活の中で夢想したことが、本当に起こってしまうという。桜井さんは自分の理想な女の人を思い浮かべたら、その人が本当に目の前に現れてしまったと言っていた。2人の共通点は少食ということだ。そして目に見えない何かと交信していることだ。そして2人とも「何でも考えたことが実現してしまうから、できるだけ願望はしないようにしている」とも言っていた。
神と霊交することができれば、こんなことはが本当にできてしまうんだろう。本当に簡単に実現したように話していた。羨ましい限りだ。だが、誰もほとんど信じないだろう。偶然だと思うだろう。そしてどこか不快に思う人はもいることだろう。日本はこういう考えにアレルギーを持ちすぎている。こういう思想こそ、今の時代に最も必要なのではないだろうか?
霊的修業を辿ることで、引き寄せの法則が実現してしまうという話はよく聞く。桜井さんは麻雀の人で、ヨガの欠片もなさそうな人なのに、こういうことが現れてしまうことに再現性を感じる。どこの方面から出発しようとしたとしても、麻雀という扉を開いて突き進んだ人も、最終的にはいヨガの仙人と同じところにたどり着く。
19歳の彼女は、毎朝起きるたびに、「足が痛い」「辛い」「バイト行きたくない」「学校休もうかな」とLINEを送ってくる。そんな言葉を朝いちばんに投げられる。これは思った以上に苦痛だ。誰も得しない。ネガティブなことを、たとえ些細なことでも口にするということは大罪だということを知らないらしい。知っている人は決して言わない。
子育てはしたことないけど、もし自分が子育てする立場になったら!いい子供を育てあげられる自信はあった。
基本的に子供は親を見て育つものである。どれだけ親が一生懸命指導したり、喧しくうるさく言ったところで、子供には響かない。子供はもっと親の純粋な部分を見て育つ。15歳年下の女の子と付き合うということは子育てと似たようなものだ。ああしろこうしろと、これを直せあれを直せと、口やかましく言うのではなくて、俺自身が確かな人間になって、常にいい人間であり続けることが、彼女をより良い人間に導けるのではないかと考えている。
人は本当の想いを人に伝えようとしない。しかし口に出さなくても無言で一生懸命伝えようとする。必ず空間に出る。多くの人が何も語らないけど、無言で「それは違うよ」と空気で相手にメッセージを送る。しかし気づかない人がいる。このやり方がいいかどうかわからない。
中村天風先生はヒマラヤの奥地でヨガの先生(カリアッパ氏)のもとで修行していた頃は、かなり頻繁にきつい言葉を言われたと言う。「お前は世界中を旅して勉強していたわりには頭が悪いな」「食事は生野菜を日に1食のみだ」「帰りたければ勝手に帰るがいい」とか、時にはあまりにも天風先生が消極的な発言ばかりしていたので、思いっきり頬をビンタされたこともあったと言う。
ほかにも、「あるヨギの自叙伝」の中に出てくる主人公も師匠から「私は君の悪いところをはっきりと口に出して伝えていく」「もしそれが辛くて嫌になったらいつも私の場を離れなさい」と言って、誉めることはめったになく、叱ってばかりいたという。レオナルドダヴィンチも、相手の悪いところをそのままにして何も言わないのは非難しているのと一緒だと言っていた。
口に出して説教していくか、無言で空気で伝えていくか、それともやはり俺の心の問題なので、俺と神の間の問題なので、俺自身がしっかり、本当に清く正しい真心でいれば解決するものなのか? 俺が清く正しく美しく生きて側に居れば、それが相手に伝染して自然に治るものなのか? ずっとこの辺りを考えてしまう。
本当にコミュニケーションとは、自分と相手との二人の問題なのか? あるいは自分と周囲との関係なのか? それともコミュニケーションは一人の問題か? 一人か、あるいは、自分と神との間にしかコミュニケーションは存在しないじゃないだろうか?
人間が成長するには、ただ静かにするしかない。心を静かにしていって、自分の心の奥底から聞こえてくる声を感知して、その声に耳を傾けてそのとおりにするしかない。心が静かでないと、この声を聞くことすらかなわない。この声を聞かないと、ただ他人の声に騙されたり、洗脳されたり、あるいはただぐちゃぐちゃになって情報の洪水の中で溺れてしまい、泳いでいるようで、溺れている状態だけが続いてしまうのだ。
ただ、座ってじっとして、夜寝る前にふと自分の心の声に耳を澄ます習慣がある人だけが前に進むことができる。俺の頭のいい友達を観察していると、本人にその自覚はなくてもやっている。目の前の有償無償の出来事と自分の心の中心に据えている部分を格闘させて、しっくりするまで考えたり、感じたりしつつ、納得いくまでその問題に根を下ろしている。無意識だがね。
こういうところがまるでない人間は、果たして、これから心を静かにして自分の本当の声を感じるいうことができるのか? そしてその習性を身につけることが出来るのか? 他人から言われなくても、自分で修正していくことが可能なのだろうか?
そんなふうに変わってほしい、気づいてほしいとずっと戦っている。夫婦なんて、こんな戦いの連続だ。20年も30年もこんな戦いが続く。職場もそう。どちらもない俺に比べれば、皆さんの方がこの道の先輩だろう。経験も量も皆さんの方が進んでいるに違いない。なぜ俺がこんなこと偉そうにブツブツ言ってるのかわからない。
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「33歳の俺が最近できた19歳の彼女を題材にして愛について本気出して考えてみた」シリーズ
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