仕事

「辞めたい」の日常が「辞める」になった、来たるべき日のこと

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印刷工場で働いていたとき、ずっと辞めたいと思っていた。一生この仕事をやるつもりはなかった。労働の輪廻から抜け出すには自分の好きな仕事をやるしかないと思った。

この頃の俺は漫画家を目指していた。1日8時間~10時間ぐらい働いて、帰ってきて、数ページ描いたり描かなかったりしていた。なんとか数ヶ月かけて『幻のチンコオロギを捕まえろ!』という漫画を完成させて、集英社に持ち込んだりしていた。

25歳の頃、集英社に「幻のチンコオロギを捕まえろ!」という漫画を持ち込んだ話

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描いていて、ものにならないなと感じていた。画力はもちろん、原稿をコントロールできている感覚がなかった。

しかし他に何ができる? 小説を書いてみようか。しかし、いまどき誰が活字の山なんて読んでくれるだろう? いやいや人のせいにするな。一冊でもまともに本なんて完成させられるのか。

このように、何かを創りたい、何かを生み出したいという気持ちだけはあった。それで生きていきたいと思っていた。

そう考えると、印刷工場の仕事なんてのは真逆である。ただ印刷物をパラパラめくって検査したり、機械に部材を載せ続けるだけの単調仕事だ。クリエイティブ性の欠片もない。霊感の低い、つまらない人間がやる仕事だ。

他の工員たちは、このつまらない仕事を、つまらないなりに受け入れているようだった。彼らの生命活動は仕事と一致しているように見えた。俺はそんな風に周囲をバカにしていたから、ほとんど周りの人間と会話することはなかった。

唯一の希望は漫画家になることである。印刷工場の仕事はそのための繋ぎだと思っていた。アルバイトみたいなものである。実際俺はアルバイトみたいな顔をしていた。

平日の仕事が終わった後の時間と、休日の一日、その時間だけが、運命を左右する時間だと思っていた。それがなんとかこの状況を抜け出せる唯一の手段だから、とにかく仕事から帰ったら、猛烈に描かなければならないと思っていた。しかし俺はほとんど描かなかった。いつもゲームばかりやっていた。

いったいこれは何の時間だろう? 漫画描かないなら何なんだろうか? 一生印刷工をやり続けるのか? 漫画描かなきゃ一生印刷工だぞ。いいのかそれで? それが嫌だから一分でも一秒でも多く描かなきゃいけないんだろう? でも、どうだ、今日の俺は何ページ描いた? 一コマも描いてないだろう? 漫画を描かなかった一日は、いったい俺にとっての何のための一日だったんだ??

描かないんだったら、ただ歳をとるだけじゃねえか。一人暮らしして、毎月15万が減っていく。給料もちょうど15万だから、トントンだ。二年間働いて貯金はゼロ。俺は二年間、プラマイゼロの時間だけを送ってきたんだ。それをこのまま延々に続けるのか? いつまで? 定年まで?? トントンだったら、3万もらって3万の生活したのと変わらねえじゃねーか。

仕事が嫌で嫌でたまらないんだろう? でも俺がやっていることは、その嫌でたまらない仕事を、必死に繋いでいるようなもんだ。

その日、俺は例のごとくボケーッとしていた。いつも俺の仕事ぶりというと、とにかくボケーッとして、ひたすら無に近づこうとするものだった。

べつに精神修行の一環でやっていたではない。どうやったら8時間、機械の上に紙をのせ続けるというふざけた仕事を楽にやるか、それに注力した結果、得た結論だった。

この辺りは本当に苦労した。結局のところ、これが最強の命題なのである。この8時間の退屈な時間を、どんな心的態度で挑むか。それを解決できるかどうかが一番重要なのである。俺はこの工場に2年間勤めたけれど、結局最後まで理想の精神態度は見つけ出せなかった。

みんなだって、もちろんこんなふざけた仕事は嫌だろう。だけど、嫌だけど嫌なりに、俺よりもうまくやっているように見えた。俺よりも葛藤が少ないように見えた。

おそらく、労働に精神が吸い取られてしまった生来のロボット気質の人間だから、俺より葛藤が少ないのだろうと思っていた。

大詩人ソポクレスは、兵士として戦場に駆り出されたときは、ボーッとしてまるで使い物にならなかったという。エジソンもアインシュタインも同じだろう。工場の仕事なんてやらせたら無能に成り下がるだろう。

とにかく考えない。無、無、無……! 何も考えない! 何も考えない! 思考のお遊びは疲れる! 切れそうな思考のスイッチは全て切ってしまえ……。

そうやって無と格闘していたら、気づいたら俺だけ一人になっていた。工場内に俺しかいない。さっきまで一緒に機械を運転していた工員たちが誰もいない。夢でも見ているのか? 機械も動いていない。なんなんだこれは。

一体これは何だろう……? と思って、もっとよく辺りを見回してみると、みんな会議室の中で会議をしていた。フロアの一角に会議室みたいなところがあって、工員全員(20人ぐらい)が、そこに集まっていたのである。

そうか、どうやら俺がボーッとしてる間に、会議が始まってしまっていたらしい。普段会議なんていうのは、朝礼のときに一度やるだけで、機械が動き始めたら、翌日の朝まで行われることはない。

おそらく上司が「おーい! みんな集まれ!」とか言って、みんなを会議室に集めたんだろう。その時、人々が慌ただしく動いたり、機械を止めたり、会議室に向かうまでのドタバタがあったはずなのに、俺のどこを探してもその記憶がなかった。あまりにもボケーとしすぎたために、みんなが移動していることすら気づかなかったのである。

会議室の中では上司が熱弁を振るっていた。緊急会議だし、何か重要なことを話しているようだった。空気もどこか重い。よっぽどのクレームか? 製品の中にチン毛でも混入したのだろうか? それとも新しい大仕事の依頼がきたのか? とにかく、みんなも真剣に話を聞いていた。

俺は全身がヒヤッとした。いったいいつから会議をやってるんだろう? まだ始まったばかりか? どちらにせよ、気づいた以上はすぐにでも駆け込まなければならない。しかし、どうしてか恥ずかしかった。会議室に入っていくのが辛かった。

意味がわからない。自分でもよく意味がわからない。勝手にずーっと立っていて、勝手にみんなと一緒に会議室に入らないで、今もこうして立ちんぼしている。周りはもっと不思議に思っているだろう。上司も熱弁を振るいながら、なぜしまるこはあそこに立っているんだと思っているだろう。

もし俺に用事があって、フロアに戻ってきた瞬間に会議をやっているのを見たら、すぐに慌てて入ったに違いない。それならわかる。

しかし、俺はその場にずっといたのだ。みんなとずっと一緒にいたのだ。

俺がボケーとし過ぎたために気づかなかったなんて、誰がわかるだろう? 反抗にしか見えないだろう。何の反抗だ?

タイミングが味方をしてくれなかった。気づいた瞬間にサッと入ってしまえばよかったのだが、今だって、もちろん今だって、すぐに入らなければいけないのだが、それができなかった。

今入っていったら、あいつ入るタイミングを見失って入れなくてドギマギしていたくせに、今になってやっと入ってきたなんて、そんなことで、みんなもからかったりしない。

俺は期待した。もうすぐ会議は終わるはずだと期待した。空爆のように、あと数分持ちこたえれば大丈夫だと信じようとしたが、ぜんぜん終わってくれなかった。それからも20分以上そこに立ち続けた。ぜったいに印刷物が流れてくることのない機械の前で。

2年間で、この時間が一番辛かった。一番長く感じた。あれほど嫌だった仕事の時間が可愛く思えた。

とうとう俺は最後まで立ち尽くした。会議室から出てくると上司が被っていた帽子を床に叩きつけて、「何なんだお前は!」と俺の胸をドンと突いた。俺は情けなく後方へよろめいた。「やる気ないなら帰れ!」とフロア全域に響き渡る声で怒鳴った。「なんで会議に参加しないんだ!」

俺はやっぱり怒られたと思った。そして、やっと次のステップにいけたという安心感や、胸を押されて心が折れる音が聴こえたことや、折れた心がすり減ってぜんぶ消えて空っぽになった感じなど、色々なことを一気に感じた。ああ、ここが終局なんだな、と思った。それは来たる日に必ず感じると思っていた感情だった。

「タイミングがわかりませんでした」と答えようとしたけど、口にでてこなかった。その発音は、上司の耳にはあまりに異音に響くのがわかっていた。

ボーッとしすぎていました。なんてとても言えない。考えれば考えるほど、仕事は、ボーッとしてる奴が一番嫌われる。

「俺はみんなに説明したあと、お前にだけもう一回同じことを話さなきゃならんのか!」

「すいません」

「俺はもう説明しないからな」

そういって上司は仕事に取り掛かった。みんなも仕事に取り掛かった。なんの仕事だろう? 俺だけが知らない仕事だ。

「すいません。今話していたことを教えてもらえますか?」と誰かに聞きたかったけど、俺は誰にも聞こうとしなかった。まともにちゃんと話せる気がしなかった。教えてもらっても理解できる精神状態ではなかった。

俺はまたポツンと立っていた。

誰にも頼まれていないのに俺はどうしてこんな目にあっているのか。誰にも頼まれていないからだろうか。

みんなも俺の様子に気づいてるのに声をかけてこなかった。

俺は勇気を出して、ある一人の先輩に聞いた。「三井さんに聞いて」と言われた。三井さんとは、さっき俺の胸をドンと突き飛ばして怒鳴った上司だ。しかしその三井さんには「説明しない」と言われてしまったのだから、どうすればいいのか?

勝手に一人で危機的な状況を作って、勝手に馬鹿みたいに困っている。ぜんぶ、必要のないことだ。ただ勝手に苦しんでいる。営業先から契約が取れないとかそう言う悩みじゃない。バカだから勝手に困っているだけだ。

そして俺はまた立ち続けるはめになった。いったい今日何度目だろう?

仕事というのは、みんなで作業の負担を軽減していくためにあるのに、仕事をしないんだったら、何のためにいるんだろう?

ああ、あの8時間が恋焦がれる。退屈と葛藤して部材を載せたり、パラパラ検査していた時間が夢のようだ。あの頃に戻りたい。

お願いだから俺に仕事をくれ! とにかくこのままただ立っている状態だけは回避させてくれ!

もう無理だと思った。あまりにも惨めすぎる。もうこれ以上ここにはいられない。いたくない。

辞めたところでどうやって生きていくのか? 漫画の連載が決まったわけでもない。さあどうする? どうもこうもない。もう立っていられないのだから、去るしかない。

そういえば、友達が理学療法士の専門学校に行くと言っていたな。

友達だけが頼りだった。もし今友達がいてくれたら、助けてくれるかもしれない。俺も理学療法士になって、友達と一緒の病院に勤めれば、もうこんな思いはしなくて済む、と思った。

どこまでクズなんだろう。もう自分じゃどこで働いてもどうにもできそうにないと思ったから、友達の後ろを金魚の糞みたいにくっついて回ろうと、本気で思ったのだ。

俺は次の日に上司に辞めると言った。確かに緊張した。だけどやり遂げられる自信はあった。そして実際にやり遂げた。もう実家には連絡もしたし、次に自分がどうするかを明確に決めたから、迷いはなかった。

上司が一人になるタイミングは知っていた。昼食のあと、一人で隅っこの方でお茶を飲む習慣があったから、その時に俺は上司のところに行った。

「あのすいません、お話があるんですが」

「ん、どうした」

三井さんは、昨日あれだけ俺に怒っておいて、もう忘れたという顔をしていた。本当に忘れているようだった。工場の人はこういうタイプが多い。感情的だったり、忘れっぽかったり、人間が荒いのだ。

「あのー、最近ちょっと、お金の方が厳しくなってきたので、実家暮らししながら建て直したいと思いますので、地元に帰ろうと思います」

この工場は手取り15万円だしボーナスは缶ビール2本だし、この上司も、もちろん薄給だったから、すぐに納得してくれた。

あーー、終わったああと思った。
人生でいちばん幸せな瞬間だった。実際に辞めた日はもっと幸せだったが。

今思えば、どうして2年間も勤めたんだと思う。あんな8時間も10時間もくだらない仕事をして、話す相手が誰もいない中で、ひたすら紙を載せ続けた。パラパラと検査をし続けた。多分今でもパラ検はあっという間にできると思う。

もう朝、あのフロアに入った時、異様な圧力に心を奪われて、自分が十分の一になったような、味のしないカルピスみたいになった気分を味わわなくていいのだ。

終わった。ぜんぶ終わった。一気に周りの景色が明るくなって、今まで閉ざされていた感情が一気に芽生えた気がした。あまりの光の強烈さに身体が焼き焦がれてしまいそうだった。しばらく高揚が続いて、走り回りたくなって、ずっと叫びたくて落ち着かなかった。何度も、何度も、至福は続いた。どこで何をしても法悦の涙が流れた。10年経った今でも、その感動は続いている。

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