小田さんはいつも悲しそうな顔をしている。
8時45分という一般の会社に比べたら遅い始業時間なのに間に合ったためしはない。
机の上は汚くて、「8日の担当症例会で決まった○○さんの家屋調査はどうなっているんてすか?」「大腿部頸部骨折した〇〇さんの訓練計画書に上肢の荷重トレーニングとありますが、どういう意味があるんですか?」「ドクターの許可は取っているんですか?」と、10歳以上年下の女性社員からの付箋が山のように貼られている。
38歳で独身だ。
仕事中はよく寝てしまう。理学療法士なのでマッサージの仕事になるのだが、患者さんの足を触ったまま寝てしまう。患者さんも困っている。
何度も主任や先輩スタッフから注意をうけているが、一向に直る気配はない。小田さんは年上だから、こちらもあまり強くは言えない。強く言ったところで変わらないだろうが。
とにかく遅刻はするわ寝るわ、だらしがないわ、研修に来た学生の方が知識があるわ、見ているこっちの方が辛くなってしまう人だ。しかし一番苦しいのは小田さんだろう。
理学療法に本当に興味がないのだ。仕事がつまらなくてつまらなくてしょうがないんだろう。つまらなくても仕事だからちゃんとやれと思われるかもしれないが、そう簡単に割り切れるもんじゃない。つまらないものはつまらない。眠くなる。小田だって怒られるのは嫌だし、できるならちゃんとやり遂げたいのだ。
しかし何も勉強しないから引き出しがない。本を読まないので、今日はこれをやってみよう! という課題が見つからない。だから挑戦しようがないし、意欲がわかないのだ。
毎日毎日、数少ない引き出しから単調な施術をするだけ。ひたすらお婆ちゃんの足を触っているだけだ。飽きたら寝てしまう。
小田さんは調子がいい人だけど、たまにすごく辛そうな顔をする。
「はい! はい!」って何でも返事をするけど、調子だけが良くて何にもわかっていない。声だけは無駄にでかくて明るい。何も了解していないのにすぐに返事をしてしまう。一旦止まって思考して考えるということができず、目の前の誰かが話しかけてくれば、ただ「はい!」と返すだけ。できようができなかろうが「はい!」と言う。肝が小さくて、この病院に足を踏み入れた瞬間、そういう思考モードになってしまっているようだ。さすがに自宅ではもう少し落ち着いているだろう。返事だけして、なんでも後回しにする。わからないことがあっても聞かない。聞くのは恥ずかしいし、怒られるかもしれない。だから何でも勝手にやって失敗してしまう。みんな、気を使って難しい仕事を頼まず、ただ普通に最低限のことをやってほしいだけなのだが、それすら適わない。
風俗が大好きで1回に9万を使うらしい。
実家は漁師らしい。
毎日「はいはい」言って、わかったふりをして、自分や他人を欺き続けるのは辛いだろう。集団の中で働いているとせっかちになってしまうんだろう。38歳でそんな自分は恥ずかしいだろう。でも治らないのだろう。タイムカードを切った瞬間、いつもの自分が吹き飛んでいってしまうんだろう。しかしつらい顔を年下スタッフ達に見られるわけにはいかないから、空元気で「はい! はい!」と言う。とりあえず明るく装っておけば不憫に見られることはないと思っているのだろうか。
家族と一緒に魚を釣る仕事なら、せかせかしないはずだ。だから俺はすぐにでも退職して漁師になったらいいと思う。
しかし無駄に理学療法士という資格を3年かけて取ってしまい、その後、病院で3年の経験があるから、なかなか辞めるわけにはいかない。と、小田さんは思っている。
計6年かけたが、ほとんど何も学んでないし、学んだものを患者さんに還元できていないのだから、本当の意味では何もキャリアなんて積んでいないのだが、本人は五臓六腑より大事に抱え込んでいる。
人間は、未来に得られるチャンスよりも、過去に積み立ててきたものを失うことを恐れる。
出会い系でも、保育士やら看護師やら資格を取った人間は、どんなに仕事がつらくても辞めようとしない。たとえ、仕事が自分に向いてないことがわかっても、引き返すことはしない。
俺も理学療法士の資格を取って開業した身だからその気持ちはわかる。今更、新しいことをやるつもりはない。トラックの運転手になりたい気持ちもあった。ずっと運転していられたら楽だなーと思って、そちらの世界を羨ましく思った。しかし頭でわかっていても踏ん切りがつかなかった。
資格はいいものだと皆言うけど、人の行動を縛るものでもある。理学療法士になって周りを観察してみると、向いてない人間はごまんといる。仕事ができないけどパソコンが得意だったり、運転が得意だったりという人を見ると、絶対にSEだったりタクシーの運転手になった方が、その人の為だと自信を持って言い切れる。が、誰も病院から離れようとしない。
最近、出会い系で出会った保育士も、本当は居酒屋で働きたいと言っていた。資格がもったいないからできないと言っていた。24歳だ。
問題はどうやって退職するかだ。退職さえすれば漁師をやることになるだろう。漁師をやれば、すぐに理学療法士より楽なことに気づくだろう。そのきっかけが難しい。
年下の俺が言うわけにもいかない。主任も言えない。誰もこの件に関しては何も言えないのだ。みんな、小田が何をどうしたらいいか分かりきっているのに、誰も何も言えない。小田の人生の最も重要なところなのに。
「漁師になったら全てが上手くいく」と小田に言っても聞き入れてはもらえないだろう。血眼になって資格に固執しているのだから。
他人の人生の一番重要なところを分かりきっているのに、それを言えないつらさ、聞き入れてもらえないつらさ……。