食べ物に関する研究・美容・健康

何か物事を成し遂げたい人は少食を実践しなければならない

多くの人は、何か物事を成す為に少食や断食をしたり、あるいは瞑想することは馬鹿げた行為だと思っている。

目の前のやるべきことから逃げて、ふわふわした世界に逃げ込んで、勝ち負けがはっきりしない曖昧さの中でごまかして生きていると思っている。

野球ならバットを振れ、パン屋ならパンを焼け、漫画家なら漫画を描け、サラリーマンなら仕事しろ、そんな風なお説教が飛んでくる。

霊的修行は、今やらなくてはいけない目の前のことをやった後の余興でやる分には問題ないけど、それが生活の中心になっている人間は、現実から逃げてしまった人だと思われてしまう。それも、何も努力していない人から言われる。

とはいっても、Amazonの書籍ランキングないし本屋の棚に目立って並べられてあるのは、「集中できる方法」とか「最強の習慣術」とかばかりだ。それだけ多くの人は自分の怠惰に頭を抱えている証拠だろう。

集中したいのにどうしてこんなに集中できないんだろう? そんなに自分は不真面目だろうか? 気持ちだけは頑張ろうという気はあるのだが、気持ちだけじゃやっぱりダメなのか?

「瞑想がいいって言うから初めて見たけど、とても10分もできたもんじゃない。ただ座ってじっとしてることも俺はできないのか」

「何で小説を読むと寝ちまうんだろう」

「古事記というやつを買ってみたけど、読めたもんじゃないな!」

こういった悩みは腸内環境によって解決される。

習慣や集中力をつけるために食事面について書かれているものは少ない。「部屋を掃除しなさい。内装は青色にしなさい。部屋で集中できないならカフェに行きなさい。達成できる最小単位からはじめなさい。15分単位でストップウォッチで測りなさい」

できる男は少食なんて本も確かにあるけど、何を食べるべきか細かく書かれてはいない。特に「肉食をやめなさい。果物や野菜を食べなさい」とは書かれてない。「生玄米を食べなさい」なんて一文はまず出てこない。

調べればわかるけど、歴史上の偉人はほとんど菜食主義だ。彼らが偉いから菜食主義になったのか、菜食主義のおかげで偉くなったのか、まぁ、どちらもだろう。

なんだかいつも頭がはっきりしないような悶々とするような毎日だろう。優秀な人は昔から優秀で才能が私とは違うんだ 。友達と話してる時も、あともう一つか二つ、頭の扉を開いてピッタリとする言葉が見つかりそうなのに、見つからないと思ってることだろう。

しかしそのまま横たわったままでいいはずがない。何をしたって無情にも人生は続いていくんだから。

水野南北の言葉に触れて、俺はどんなに辛くても絶対に超少食にしてやろうと決意した。

例え千日千夜祈ったとしてもそこに誠が無かったならば、決して神明には通じない。
もしまことをもって祈ろうと思うならば、自分の命を神に捧げよ。
飲食はわが命を養う本であり、飲食を捧げることは自分の命を捧げるのと同じである。
神は正直な人の頭に宿られる。
仏法は精神を治めることを本とするゆえに食を慎むのである。
なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を本として起こるからである。飲食を慎むときは心静かになり不動心を得る。不動心を得れば、その道を得ることはたやすい。

人間一生の吉凶は皆ただその人の飲食による。
恐るべきは飲食である。慎むべきは飲食である。

命のある間はどんな人にも運がある。
朝早くから起きて毎日の仕事に精を出し、その上飲食を慎んで怠らなければ自然に天理にかなって運はだんだん開けてくる。これを開運と言う。
飲食を慎んで折ると心も体も健康で気が自然に開けてくる。気が開けると運もそれにつれて開けてくる。決して誤りは無い。
先ず三年慎んでみなさい。
それでもし運が開けなかったならば、世界に神はおられない。

最近ラーメンをお腹いっぱい食べてわかった。頭が悪くなる。睡眠時間が多くなる。朝の目覚めが悪い。ベッドにゴロンとしたくなって、生活の1日がはっきりしなくなる。1日1食ならともかく、こんなことを3回やってたら、何もできなくなるなぁと思った。それを俺はどれだけやってきたんだろう? たぶん、20年くらいやってきた。

少食にすると時間が大幅に浮くので、これだけでも相当なメリットだろう。現実逃避なんてとんでもない。むしろ現実の時間がとても増えるのである。睡眠時間は現実だろうか夢だろうか。食べて寝ている時間は現実逃避じゃないだろうか?

確かに色んな習慣本が流行っているけど、結局どれもこれも少食にはかなわない。

水野南北の言うとおり3年やってみて、ダメだったらまたたくさん食べればいい。

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