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いよいよ、老境に差し掛かって、威厳が増してくるかと思いきや、ほとんど幼猫の頃と変わらなくなってしまった、レオンヌ15歳

俺は覚えている。まだ、彼がこの家にやってきて間もない、2、3ヶ月の頃、ほとんど金切り声のような鳴き声をし、家中が迷惑していたことを。

動物に生まれておきながら、まともに「鳴く」ということができず、これが終生彼につきまとってくる問題なら、共に暮らすのも考えものだと。

耳につんざくような、ギロチンの刑にでも処されているのか、ほとんど悲鳴みたいな、黒板に爪を立ててギィーッとひっかくような、慣れてきた最中であっても、急に夜中にやられると、びっくりして飛び上がってしまうような、そんな鳴き声だった。

それはほとばしる生の叫びというか、衝動そのままというような、歩き方もわからない、鳴き方もわからない、存在の仕方もわからない、ただ手探りに生を追っている。自分についている手も足も尻尾も、謎だったに違いない。恥も外聞も無視し、ただ生だけが一人歩きするとき、生はこんな声を上げるのかという、そんな哲学的な関心を起こさせるものだった。

今じゃあ、猫だって、15年も生きてりゃ、自分の扱い方もわかってくるものか。最初の頃、心配していたその問題も消え失せて、一応は、猫並み程度に「にゃあ」と鳴けるようになってきた。15年、猫並み程度には鳴けていたが、ここにきてどうして、昔の、2、3ヶ月頃の鳴き方に戻ってしまった。

金切り声──。これは動物に限ったことではなく、人間の小さな子供でも見せるものだ。たいてい、小さい子は金切り声をあげているだろう。あれは、立ち止まって聞いていると、これがどうして我々は無視できているのかわからないほど、恐ろしい声だ。あまつさえ、かわいいなどと言う。キィぃぃいいいいイヤアアアアアア!!!!!!!!!!!と、小さい女の子が、本当に、気違い顔負けの、成仏されるときの悪霊のような声を上げる。そういえば、ヒバリのあの精一杯の声も、ほとんど無音に聞こえてしまうが、これも立ち止まって、よくよく耳をすまして聞いていると、よくこの声を無視して私たちは生活できていられるものだと、自分に感心してしまう類のものだ。こうして一人マンションで、へんな、MacBook Pro16インチとかいう、アルミニウム製の、へんなノートパソコンをポチポチ打っていると、2分に一回は、人かバケモノか、叫び声が聞こえてくる。かなり大きめの声量の、住宅街めいっぱいにこだまする、魔物の声だとしても十分に通用するものだが、そんな声が2分に一回くらい聞こえてくるのだ。が、それでもやはり、ほとんど無音のように感じられてしまうのは……。犬の声然り。

だが、これが中年男性の叫び声だとすると、すぐに耳はそれを異音だと察知し、それがたとえ、今、上に挙げたものたちの半分くらいの声量だったとしても、我々の耳にはとうてい耐え難い、不安に陥れる、世にも恐ろしい不吉として響いてくる。平和を乱す音、あきらかに、これは黒魔術系統の、闇側の音だと感じる──、これはなぜか? これは中年女性だったとしても同じである、大人の声は、いつだって、いちじるしく平和を壊す、すぐにみんな反応して、警戒体制を極限まで極め、許される、許されない声があるのだ。

最近はいつも鳴いている。

ボケてきたのかな? と思いきや、まぁ、それも少なからずあるのかもしれないが、どうも、そうではない気がする。もっと、素直になってきている。

猫にも見栄や矜持があるのかはしらないが、いよいよ、老境に差し掛かって、威厳が増してくるかと思いきや、ほとんど幼児の頃と変わらなくなってしまった、レオンヌ15歳。

例えば、母が東京へ舞台を見にいって、家に帰ってくるのが17時30分だとしたら、それが二日も続くと、なんと、17時30分になると、レオンヌは玄関で待機するようになるのだ。これは、時間がまったく正確なことから、やはりボケてないように思う。

さすがの俺も、玄関まで母をお迎えに行ったりすることはできない。

この辺の素直さは、やはり年をとってきて身についたものだ。猫でいう15歳は人間でいう76歳だという話なので、俺もこれができるようになるには、76歳まで待たねばならないだろう。俺は76歳になって、やっと母を玄関に迎えに行ける。

猫が愛される生き物だとして、まるでB型の人間をそのままこの小さな毛皮としっぽにうつしたように、その自由身勝手なところに人は否応にも惹きつけられてしまう、らしい。そのために愛されるというのが通説らしいが、なかなかどうして、愛情固執するところも同然に持ち合わせている。それが魅力らしい。片一方ではダメらしい。

人も猫も、いよいよ死に際が迫ってくると、素直になるものか。

俺は考える。俺も、もしかしたら老人ホームで最期を迎えるとき、偏屈で、頑固で、傲慢な、クソジジイのように死んでいくのか。それとも、これまで耐えてきた糸がぷつりときれて、あたりかまわず愛を叫ぶようになるのか。芸術家のロダンは、「パリに残してきたもう一人の妻に会いたい」と臨終の際に、言い残してなくなったのは有名だが、最後くらいは、自分で自分にその言葉を言うことを許したのか。

恥も外聞も捨て、ただ一日中愛を叫び続けているこの物体を、尊敬の目で見てしまうのである。そこには毛の先ほども嘘がない。

レオンヌにしたって、子猫の頃は、どちらかというと、人間の幼子と同じで、飴とおもちゃが大好きで、とにかく動くものを追いかけていた。俺が歩いていると足に噛みついてきながら同じ速度で歩いてきた。それは俺がすきというより、俺の動く足が好きだったのだと思う。人間よりも動くもの、単に目に入ってくる衝動を煽られるものばかりを追いかけていた。

しかし、今や、目がまったく違ってしまっている。どこでこの価値観や感情を身につけたのか、あまり物や形に興味がなさそうなのである。何を見ているのかわからないが、もっと遠くのものを見るような目つきになっているのである。これは、やっぱりレオンヌの前に飼っていた2匹の猫もそうだった。歳をとるたびに性格が甘ったらしくなる。人間により寄り添うようになり、おんぶ抱っこしてギャーとよく鳴いてこちらを見てくる。瞳には、老人特有の寂しさや哀愁のようなものが垣間見られ、およそ人間よりずっと単調な生活をしている、外部から何が入ってくるものでもない、価値観、感情などというものがどう育つかもわからない、まったく文盲であるが、そして、急に鳴きだす。

それも、金切り声で。これは、ほとんど自分の生命力の100%を費やして鳴いている。憶測だが、おそらく、このためにまだまだ15歳になっても元気なのだと思われる。ふつう猫なんてそうそう15年も生きられるものでもないが、また、15歳でこんな声を出せるものでもない。毎日、限界容量いっぱいに自分をぶつけているから、そのために逆に生命が更新されてるんじゃないかと思うのである。

人間もまたそうなのだろうか、と考えるのである。ある意味うらやましいと思う。大好きなお母さんがいて、とりあえず、まぁ、お母さんより先に死んでいける。看取ってもらえる。母に抱っこして死んでいけるだろう。ああ、そんなふうにして人は死んでいきたいから、結婚して、家庭を築くのだろう。

さて、俺も、どうやって死んでいくかはわからないけれども、たぶん、このままだと老人ホームで死ぬことになるだろう。まぁ俺は常人の4.2倍くらいは心身を鍛えているから、健康のまま死ねる自信はそれなりにあるといえばあるけれども、それだってわからない、出前館をやっているからね。たまに強風の日、車線一個分ずらされたときなどは、今、後ろに後続車が走っていたら死んでいたな、という体験を13回くらいはしてきた。13回、神に助けられてきたけれども(2回目以降は、そんな風の強い日に走るなっちゅう話だがね)

70歳になって出前館をやっているかはわからないが……。

今、レオンヌは、周りの支えによってなんとか生きている。家人が少しでも姿を消すと鳴きだしてしまう。俺は、なるべくなら、自分の人生において、そんな瞬間はまわってこないでほしいと思うものである。しかし、このまま長生きしようものなら、まわってきてしまう恐れがある。

武士道とは死場所を見つけたり、とはよく言ったものだ。

昔はあちらこちらに死場所が用意されていた。辻斬り、強盗、果し合い、なぜ刀でなければダメなんだろう? 西洋にしてはピストルか、わざわざ致命傷になるような武器を使わなくても、単に勝敗や己を賭けた戦いや腕試しをしたいのだったら木刀や竹刀でいいはず、素手でもいいかもしれない。なのに、どうして、わざわざ命をかける必要があったのだろう? 今、思うのは、死ぬためのような気がする。老いさらばえて、自分が誰かも何かもわからなくなるよりかは、自分が自分であるうちに死を選択できること、そのための機会を残しておくこと、それを国が許していた、と俺は思っている。

つまらない果し合いや何かで死んでいる場合じゃない、それはそうなんだけど、死がないところには生もまたない、そのために、今、死より劣悪な生をいかされている老人がごまんといる。昔の人は、これを予期してか。

自分はもう生きているとは言えないから、この辺で死んでおこうと思う。そう思ったときに死ねた。国もそうするのがいいと思っていた。

これにおいて、坂口安吾はこう言っている。

昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼等が生きながらえて生き恥をさらし折角せっかくの名を汚す者が現れてはいけないという老婆心であったそうな。現代の法律にこんな人情は存在しない。けれども人の心情には多分にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終らせたいということは一般的な心情の一つのようだ。

つまり、国家がこういう人のために死に場所を用意してくれていたということだ。

だから、ちょっと、自死とは違う。

これに対し、今では、老人ホームで寂しく孤独に死んでいくしかない。

国がそういった死を用意してくれない以上は、今から、自分の手で準備しておかなければならない。とは、俺は一人で思っている。

空海のように、およそ○ヶ月後の○日に自分は死ぬだろうと予告し、その時刻の通りに死んでしまうこと、即身成仏、入滅と言ったほうがいいかもしれない。ヨガナンダ先生、肥田先生、山岡鉄舟などもそうだったけど、そんなふうに死ねなければ、ひっきょう人の死は死とはいえないのではないか、というつもりはない。それは死というより旅立ちのようだ。最後、この地上を愛し、この地上の人々を愛し、この地上のために死んでいくよりかは、死ぬときは、この地上のことよりも、永遠のものを思って死んでいきたい。

今、心身錬磨しているのは、長生きするためではない。肉体から解脱し、あちらの世界へ行くためである。

死ねばこういった悩みから解放されるかと思うと、いつだって生は死のために悩まされる時間ともいえる。いつだって我々は先立って死のための予防策として、結婚、車、死への不安から、生きる道を筋道立てていることから。

俺が老人になった頃には、日本はもっと楽しくなっているだろうか? もっと素晴らしい老人ホームができて、友達と一緒に入って、毎晩豪遊しながらゲラゲラ笑い通し夜を明かすのもいいかもしれない。5人も6人も、そういう友達がいてくれたら万々歳だ。

俺のような孤独な40歳が増えている昨今だから、こういった馬鹿どもを満足させるような施設も出来上がってくるかもしれない。とりあえず、それを期待しながら、別枠で、俺一人でも、先手を打てそうな手は打っておこう。

出前館をやってっと、たまにグランドキャニオンを走っている気分になることがある。どこまで続く地平線、広大なアメリカ大陸のよう、同じくこの地域を走っている友人に言わせると、「どこがグランドキャニオンだよ、都市という都市、車走り回ってるじゃねーか(笑)」と一蹴されたが、だが、こうやって走っているなか、道という道、どこまで続いているかわからない道が、途中、消えそうになることがある──、光芒の中、日に溶け入り、二度と戻ってくることがないような気分になることがしばしばある。

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