「多くの人は人間の仕業だと思っているけれども、実際のところ、人間が行為をするということはないと思う。
キャシー塚本のコントなんてすごく面白かったけれど、あれをもう一回やれって言われたって本人だって無理だろうし、周りだってきついものがあるだろうしね。
まっちゃんの全盛期として、あの頃を引き合いに出す人は多いけど、俺はそれはどうかと思う。絶対、今の方が面白いと思うもん。
むしろ面白くなってる。とくに、ちょっとした、ダウンタウンなうとか、はしご酒とか、ダウンタウンDXでの、ゲストからふられた時のたった一言の返し。ビシっと面白いことを言って返す精度は、今の方がずっといいよ。昔は、ああいったことはできなかった気がする。5回打席があったら5回ホームラン打ってるもん。およそ神技と言ってもいいんだけど、それが、会話の中でほんの一瞬でなされちゃうもんだから、地味ではあるんだけど。そういう意味じゃ、昔の方が派手さはあったね。玄人としての芸の洗練さ具合は、昔とじゃ比べ物にならないと思う。本人も、自身でそういった手応えが、自分でも感じられるから、そして、何より楽しいから、だから、「喋りたいねん」って言ったんだと思うんだよ。なんかね、後輩芸人に、60歳超えても、今もなお最前線で現役でたくさんのレギュラー番組を持ってやり続ける動機は? って聞かれたとき、まっちゃん、ただ、「喋りたいねん」って言ったのね。俺は、なんかこの一言が忘れられなくて。この「喋りたいねん」は、一回いっかいの会話の中で、一条の光ともいえる一言を導き出すことに無上の喜びを見出しているんだと思う。まぁ、会話における大喜利というやつだね。芸人たちはみんなすごいんだけどね。でも、やっぱり、まっちゃんはその中でも異質な気がした。あの年で、いまだにそういったところはNo. 1で、すごいと思う。あの部分は年をとるごとに磨かれていっていたから、俺はまだまだ洗練していくんじゃないか、と思っていた矢先だったんだけど」
友達「お前はいつもそうだね。その人の瞬間のアドリブの一言だとか、そういったものをいつも重視すんね」
友達「今、ダウンタウンプラスだっけ? 有料チャンネルみたいなの開始したみたいだけど、なかなか跳ねないみたいね。俺も、見よう見よう思ってるんだけど、不思議と手がでないんだよなぁ。やっぱり、あの場で、記者会見か何かで、事件のことをちゃんと話して欲しかったんじゃないかなぁ? みんな。昔、ごっつええ感じが野球延長になってせっかく作ったスペシャル特番を放送できなかったことを理由に、まっちゃん、怒って、ごっつええ感じやめる!って言って、ほんとにやめちゃったじゃんね? あのときは、自分から怒って辞めちゃったけど、今じゃ逆だもんね。自分から、お笑いやらせてほしい、っていう始末でさ。能力のほうは俺は何とも言えないけど、かっこよさは前の方があったんじゃない? やっぱり作品よりも、その人だから見たいっていう心理が、人間には働くのかねぇ。今回のは、だから、それで、まっちゃんはもういいかなみたいになっちゃったというか。まぁわかるよ。どうしてもテレビでは言えないことがあるって、まっちゃん本人も弁明していて。これはお互いの話し合いの中で済んだことで、これ以上のことは言えないんですよ、そういう取り決めだからって言ってたけど、俺もそれでいいと思うんだよ、それは、必ずしも、俺も、言わなきゃいけないってこともないと思う。むしろそういったところのプライバシーは尊重されるべきだと思うし。だって関係ないしね。俺らに頭下げる必要なんてないし。関係者、なんて言うけど、関係者なんていないよ。関係しているのは本人たちだけだよ。だから、本人たち同士で話し合って解決すればいいと思うし、それで収まりがついたんだったらそれでいいと思う。でも、それでも、昔のまっちゃんだったら正直にギャンギャン言ったんじゃないかなぁって。今みたいに煮えきらない形でうやむやにするってことはしなかったような気がする。わからないけどね。まぁ、こういったものは、俺たちにはずいぶん歪んだ形で届いてきているに決まっているからね。真実を知っている人たち、まっちゃんの近くにいる人たちが、これまで通りまっちゃんをかっこいいと思っていてくれれば、俺それでいいと思うけれども」
しまるこ「まぁ、だいたい、その記者会見のときのふるまいや態度と、芸の面白さっていうものは比例関係にあるね。なんでも、はいはいごめんなさいってすぐ謝っちゃうタイプの芸能人ってのは、芸もあんまり優れてない場合が多い。あそこでキッと踏みとどまるタイプの方が、長い目で見て成功するし、根本的なところで芸がいいね。
民間が力を持ちすぎて、この民間がこうやってギロチンの刃を無秩序に振り回しまわっている構図が見受けられるけれども、それだってわからない。時代のために潰れていってるのかなぁ、なんて思うけれどもね。バルザックは、こういったとき、一人の天才が時代を先導して、あくまで一人の天才にすべての実権を委ねるべきだって主張を譲らなかったね。俺もどこかでそう思ってしまうのは、そういった天才の方が、あんがい控えめだったり、優しかったりするから。まっちゃんにしたって、どれだけ力を持て余していても、たった一人の人間の人生を潰そうとはしないと思う。そういう優しさを持っていると思う。あれくらいの力の持ち主となるとね、優しさも同居している。でも、民衆というのはいつだって優しさが足りてない気がする。SNSなんか見ていると、Yahoo!トピックスのコメ欄や、エックスなんかだと、あの正義を主張して声高に叫んでいる調子で政治が行われると思うと、ちょっとゾッとするね。ああやって、正義に対して潔癖すぎるでしょ。ああやって潔癖すぎるとどうなるかというと、中庸や塩梅といったバランス能力が欠いているから、物事にはちょっと脇道というか水が流れる場所が必要なんだけど、それすらも閉じ込めちゃう。で、息苦しくなってきちゃう。
ある主婦がせっかく、旅行、そこでちょっとニュースでそこの治安が悪いみたいなニュースが入ってくると、行かなくなっちゃう。で、理由を聞くと、もし事件があったとき、そういうニュースが流れている中で、いったこと、後になって事件に巻き込まれて、近所からそういう目で見られることを忌避している、「今、あそこの国はあれだけ騒がれてるのに、どうして、今、いったの!?」って、事件はさ、結局何も起こらなかったんだけど、もしも、ということがあるわけじゃない。この、もしも、というものが力を持ちすぎちゃうんだね。この、民衆が力を持ったときの時代というのは。
例えば、まだ、うちのおばあちゃんが生きていた頃、本当はね、うちのおばあちゃんだってさ、血圧降下薬なんて飲まなくてもいいと俺はずっと言ってたんだけど、でも、いざ、というとき、高血圧で疾病か何か起きたとき、どうして薬を飲まなかったんだ! ってまわりから詰め寄られる結果になるわけじゃない。それを恐れて、おばあちゃんに薬を飲ませていた。血圧降下薬だけじゃないよ、7、8種ぐらい飲んでたかな。そうやって、そうしておけば、文句は言われないという、予防策だけが台頭するようになってくるというかね。とりわけ、今、いちばん説得力がありそうなもの、それを盾にとって、それだって実態があるかわからない、いちばん効力が高そうな、気配がするだけでね。いつだってその気配を隠れ蓑にして、安全なところから騒いでいるだけのことしかできないんだから。だから、何もしていないのもいっしょだし、何より、ここに優しさみたいなものがあるはずもない。
そのために、これを打破するために、いつの時代も、この時代の節目節目に、そういう英雄だったり、立役者が現れてきて、坂本龍馬しかり西郷隆盛しかり。坂本龍馬なんて、誕生日に死んじゃったりするしね。こういったのは、いつも、自然発生したように、まるで神がはからったかのように、急にどこからか出てきてきて、役目を果たしたら死んでいっちゃうものねぇ。じっさい、俺は、坂本龍馬も西郷隆盛も、ナポレオンも、いなかったものだと思っているよ。時代の映し鏡、ただ、時代の形の1つ時代が影を伸ばしていって、それが人間の形をとっていっただけ、どこまでいっても、やっぱり時代の先っぽの形の1つ。
時代が、今、必要としているものだったり、その願望だったり、その重力。人々の思いのようなものが、そのまま一個の人間に顕現されるというより、もっと、人々の夢そのものが動いてるんじゃないかな。
例えば有吉の毒舌なんてさぁ、今、有吉、勢いなくなったとか、面白くなくなったとか、言われてるけれども、あれもねぇ、まぁ例の事件もあったことによって、本人もちょっと気力が萎えちゃっているところもありそうだけど、サラリーマンのような顔しているというかね。あの頃は毒舌が通用した時代だし、後ろ風みたいなものがあったんじゃないかね? やる前からいけるっていうか、ビジョンみたいな浮かんだというか、その彼に降ってきたビジョンっていうのは、それは本当に彼の持ち物なんだろうかねってところで。時代の要請? やっぱり、あれを今、もう一度やれって言われても、本人だってきついものがあるだろうし、何より、時代が納得しない。あれをもう一回やられたところで、やっぱり楽しめるものではないし、それはやっぱり文化という意味で、我々は乗り越えてしまったんだよ。時代が乗り越えてしまった。今、俺たちがゴッホの絵を見ても新しいものを何も訴えかけてこないように、そうやって、新しい時代を迎えるたびに、時代が怪人二十面相のように、そのつなぎ目、つなぎ目において、新しい顔を見せる。そのとき、たまたま、その役を買う人がいるだけでね。時代は、時代で何ができるってことはないから、必ずそのとき必要として人間を使う。
何か人々の行動を決定づけるものってのは、すでにもうそれを行う前から全体と同時に動いちゃっているものがあると思うね。だからそれがないのに何をしてもどうしたってうまくいかないし、動けるもんでもないと思うけどね。こういったものは本当にどこから出てくるんだろう? やっぱり時代に愛されてる。神に愛されてる。そう思うと、俺は唯一漫画の原稿を見ていて光っているなぁと思ったのは、ドラゴンボールのベジータ戦とスラムダンクの山王戦なんだけど、あれとかも、面白いとかつまらないとかをこえて漫画が光ってる感じがしたんだよ。あれもやっぱり人間の意思でどうにかできるようなもんじゃないと思うね。ドラクエのキャラクターなんてのも、ディズニーやポケモンよりうまいと思うし、あんなモンスターどうやったら産み落とされたんだろうなんて思ってると、やっぱりあれも時代が産み落とした気がするね。時代の必要性。鳥山明の右手に何か、あの瞬間、憑依したんじゃないかなぁ? もう一度やれって言われてできるものでもないと思うね。俺はこの手のものは、時代の必要性という一言に片付けられると思う。
新しい時代となるとき、その時代の黎明期において、かならず時代は、何かその必要性に応じて、その人間を道具として、人間を動かして、その必要を表現しようとしてくる。その、その時代に去られてしまった後は、その人は、もう生きていないのと同然になってしまうんだけれども。これはナポレオンがいい例だけど、それはナポレオン自身、自分でこう言っているんだよ。『一つのすぐれた力が私を私の知らない一つの目的へと駆り立てる。その目的が達せられない限り、私は不死身であり、堅忍不抜であろう。しかし私がその目的にとって必要でなくなるや否や、たった一匹の蝿でも私を倒すに充分であろう。』だから、トラファルガーの海戦のとき、銃弾が帽子を貫いたときでさえ、自分の生を疑わなかったとされるんだけれども。これについて、すでに憑依されている側で気づいちゃっている場合もある。シェイクスピアも50歳前に引退したことは、あまりにも早すぎる引退なんて噂されたようだけれども、本人も、神のインクがもう切れかかっていることに気づいていたからなんじゃないかな。『雀一羽落ちるも神の摂理がある』と本人も言っているところではあるしね。そういう意味じゃ、俺は、まっちゃんは役目を果たしたと思うけど」
友達「俺も、十分によくやったと思うよ。感謝しかないもん」
しまるこ「俺が思うに、その人、個人の力なんてないに等しいも同然で、だからやっぱり人間というものは行為するものではないと思う。行為しているのは時代だと思う」
これについて、モンテーニュは、
「人間の智慧が運命の役割を果たすことができると考えてしまうのは、わたしたちが無知だからだ。 わたしたちの智慧も意志も、たいてい偶然によって導かれている。わたしたち人間が最も頼りにする理性もまた、一日一日、その場その場で揺らいでしまう。身分も職業も、才能よりは運命によって与えられるほうが多い。自分の才能を過信しないほうがいい。結果に愚かしい権威をつけないほうがいい。そんな過信や権威などなくても、きみの運命がきみに最高の力を与え続けているではないか。」
ショーペンハウエルは、
「人生の晩年、自分の人生の流れを振り返り、その当時は偶然に思えた出会いや出来事が、意図せぬ人生の物語の重要で構造的特徴となったことに気づくとき、そして、そういった出会いや出来事を通じて自分の性格の可能性が開花したことに気づくとき、人は巧妙に構築された小説と自分の自伝の流れを比べるという考えに抵抗するのは困難であろうし、この驚くべき筋書きの著者は誰なんだろうかと不思議に思うのである。世界の歴史の全文脈も、事実は、時代を通じて、こういった種類の相互の影響の広大な網の目として展開しているのであり、それは人々対人々だけではなく、様々な生き物とあらゆる種類の偶然が存在する自然界を巻き込むものである」
エマーソンは、
「傑出した偉人は、至高の製智(=大霊)、根源的な」なるものを、それぞれの個性に応じて代表 (象徴)し、人々に永遠の光を分け与えているのだ」
「かくして、あらゆる偉大なる魂たちは、互いに融合して根源なるものへと再統合され、ある魂にとっての成果は、他の偉大なる精神にも共有されるようになるでしょう。この心霊たちの愛の国、壮大なる霊的世界においては、どのような辺境で獲得された知恵やエネルギーも、万人の共有財産になるのです。
偉人たちの人生を同時代の短いスパンで見るならば、それぞれ別個の個性であって、 ときに才能や立場の違いにおいて対立するように映るかもしれません。しかし、悠久の歴史という壮大なる観点において眺めるならば、そうした個々の違いや見かけ上の不和対立は消失して、あらゆる個性を統合する普遍的な境地が現れてきます。そうして、さまざまな個性の多様性を統べ、働かしているところの究極の叡智が存在することに思い至るのです。」
岡本太郎は今は英雄不在の時代だと言っていて、そして、もう二度と英雄の時代は訪れないと言い切っているけれども、
じゃあ誰の時代なんだろう? 民衆の時代なんだろうか? でも民衆はそんなに幸せそうな顔をしていないね。自分で不必要なものを切り捨てておいて
象徴のようなもの、象徴のような人すら許さなくなっている。許さない許さない、で壊す力だけは与えられているけれども、作る力は与えられていない。だから壊れる一方だけ。
気に入らない。気に入らないって癇癪を繰り返した子供が待っている先というのは、いつだって破滅なんだけれども。
それゆえ、ただ、粛清による粛清が跋扈して、ただ混乱めいた、裏で誰がそのの糸を引いているのかもわからない、黒幕がいたとしても、その人すら粛清させられちゃいそうでね。ただ粛清だけが一人歩きしているという、第二のロビスピエールの時代のように俺は見えるんだけれどもね。英雄の時代でもない、民衆の時代でもない、黒幕の時代でもない。問題は、これも時代の要請から来ているものだとしたら、時代は何を考えているんだろう?」