友達との電話シリーズ 人間考察

リア充はだいたい漫画からきている

「リア充は、確かにリアルで充実しているんだけど、けっこう、フレキシブルでアクティビティーで、活動的で、精悍な顔つきをして、充実していることは確かなんだけど、そのルーツっていうのは、俺、どこからきているのか調べてみたことがあるんだけど、漫画からきているんだね。

たいてい世間に流れているオーソドックスの風。あの風の浅い部分を感じて、自分の中に取り入れている。自分で作り出すことはしないから、普通に外側から入ってくる風、それをそのまま真に受けていることが多い。

その風を作り出しているのは、漫画だと思う。たいてい、彼らの、口にする言葉、「うっさい」「うっせ」「ボケ!」「あーん?」「はよしろや(笑)」 「おい(笑)」あれも、だいたい、漫画の吹き出しからきているね。わりとサンリオだったり、チャラチャラしたものを身につけている女の子、スポーツバッグ背負っている部活青年、タトゥー入れているアーティストふうも、みんな、やっぱり、根底にあるのは漫画だね。不良とかいう生徒も、一応、先輩からきているということにしているんだけど、じゃあ、その先輩はどこをルーツにしているかというと、やっぱり漫画だからね。

そうやって、今じゃ、というより昔から、リア充もオタク文化に染まっているわけだけれども、オタクという連中は、これをもっと読み込んで、もっと感化されていることから、つい気が弾んで、深いところまで話してしまう。そうすっと、リア充ではない、ということになってしまう。程度の差だね。彼らよりただ単に深く潜っている、前に進んでるというだけで、通じている道は同じなのに、なぜか、浅い側が深い側へ幅をきかしている。

たいてい、パラパラ見ている漫画から、いじめとはこうだ、友達とはこうだ、学校とはこうだ、学校はこうするものだって。わりと自分の学校体験からくるものよりかは、漫画の中にある感じをそのまま自分のものにしてしまっていることが多い。みんな、だいたいこの感じを共通にしちゃってる。これは大人もそうで、大人も、たとえば俺はマチアプで、漫画をぜんぜん読まなそうなカフェ店員と会ったことがあるんだけど、その子も、毎日、カフェの連中としか会ってなく、そのカフェの連中との関わりの中で自己を構成していっているはずなのに、よくよく探ってみると、漫画の浅い部分のところから自己が錬成されていた。

これは、ほとんど日本国民全員に見られることなんだけど。これは、そのカフェの連中が全員、漫画から来ているからだね。ルーツがやっぱりここにあるから。たいてい、知らん顔して、ふつうにただ単に流されて生きていると、この漫画の浅い部分で蔓延っている会話、空気感、風、をそのまま教科書として、同化させてしまう。それがリア充と言われるものの正体だね。

なぜ、漫画なのか、それは俺には分からないけれど、ああいった二次元のキャラクターふう、というのが、この土地と相性がいいんだろうね。日本は得てして抽象的にものを考えるから。

若い子らが、そうやって漫画から言動を借りたりしてきてるのはわかるんだけど、大人もそうだからね。大人も、自分のパーソナリティー、さっき言ったカフェ店員としての振る舞い、態度、客に対しての態度、すべき模範やイメージなんかは、ぜんぶ漫画から来ているし、医者だって、弁護士だって、弁護士だって、あの、逆転裁判ということはないだろうけど、あの、法廷でしゃべくりたてているシーンなんかは、あれはどっちかっていうとドラマかと思うかもしれないけど、そのドラマも、漫画から来ているからね。その、勧善懲悪という、善悪の価値観、そういうヒーローや敵という概念そのものが、やっぱり漫画を基盤に置いている。とくに、我々の正義感というものは、漫画的なところが多いからね。

これは、横尾忠則さんが、「一般的に、『生活が芸術を作っている』と思われているけれども、『芸術が生活を作っている』」と言っていたけれども、それはこの意味だよ。

多くの人は、漫画は現実から着想を得ていると思っているけど、逆で、現実が漫画を模倣している。

それが、日常で見る、重い鉄骨支柱を肩にのせながら歩いている、あの無骨ふうの土方とかも、あれも漫画からきているからね。あれなんて、いちばん漫画とは遠いところにいる人物だと思うかもしれないんだけど、本人だって、べつに、土方漫画を読んでいるとか、漫画の中の土方キャラに思い入れがあるとか、そんなことはなくて、コンセプトとして、キャラとして、シンボルとして、つまり、我々民衆を一つの価値感情へ誘導、指定する役割として漫画が買っている。

重そうな金属支柱とか、抱えて歩いてる土方とかって、いぶし銀で、硬派で、どうやって作られていったのか、まぁ、自然になるということはない、赤ちゃんの頃はああではなかったからね、どこかで、自分はこういうキャラになろうと思ったわけなんだけど。

やっぱり、ああいう人でも、ルーツは隠そうとするね。自然にそうなったふうに見せている。べつにそれをわざわざ暴き出すような、いじわるな真似をする必要はないんだけど。

けっこう、土方とかと話していると、「おう! 兄ちゃん!」とか、「なんでぇ、昼、カップラーメン一個だけかい、もっと食わんと」とか、ボクシングジムにもそういう人いるんだけど、あれだって、やっぱり、どこかで見たキャラだからね。

彼らも、もちろん見たことがあって、見たっていうか、目に入ってきて、それが深部の細胞のどこかと一致しちゃう。FF10のエボン=ジュって言ったら、ちょっとお前にはわからないかもしれないけど、核となるアイデンティティみたいなものがあって、それが憑依して渡り歩いている。なんか、見たものをそのままなぞる、という性質が我々の中にあるらしい。

マックのアルバイト先なんかに行くと、この見たものをなぞる性質の人がゴマンといる。あれはもうコスプレ大会だね。精神的な。

出前館で、マックに行くと、みんなで仮装パーティしているみたいだね。私はこういうキャラです、私は税理士! 私は公認会計士! 私は宇宙飛行士!って、大原のCMみたいに、それぞれが顔に、自分がどういうキャラかとわかりやすく書いてある。

アルバイトっていうのは、学校とはまた違って、比較的、短期で端的に自分を信号機みたいにわかりやすく知らせる必要があるから、こういうことになるんだろうかね? 

「あー!? テメェ何やってんだ! このスットコドッコイ!」って、この前、うちのボクシングジムでも、リングを新しくしたんだけど、そのとき、リングを建設しにドカタの人たちが来ていたんだけど、あれは、完全に取り込まれちゃっている人もいれば、まだ、半分侵食されただけの人だったり、自分で不自然なのをわかった上でやっている人もいたり、で、「おーし、飯にすっぞ!ッラァ!」と言いながら、練習している、自分たちとは関係のないボクシング会員たちに対して、キョロキョロしたりしながら、今の俺の態度不自然じゃなかったかって、ソワソワしていたり……。中にいるとバレないんだけど、一歩外に出るとわからないからね。

たぶん、火事とかが起きて、何らかの必要性であのキャラを変えなくてはならなくなったとき、俺は、たぶん、ほとんど全員が、現場と同時にキャラからも逃げ出すと思う。あれは、カメレオンみたいに全員、キャラ変が可能だと思ってる。重たい金属支柱をいぶし銀な顔で運んでいたけど、次は陽気なホストキャラとまでは言わないけど、職場を変えて、別の場所で別のキャラにならなくなったとき、それを演じられるだけの器用さは一応持っているような気がする。重たい金属支柱を手放すように。

友達「悪いことじゃないんだけどね」

しまるこ「悪いことじゃない」

しまるこ「そう思いたいけど……」

しまるこ「……」

友達「え?」

友達「悪いの?」

しまるこ「それでけっこう、被害を被っている人もいる。

もし、そういったものを一つも肌に身を纏わず、もし、裸のまま、どこにも憑依することなく、オリジナルとして生きていた場合、こっちの人の方が変人と言われてしまうんだ。

みんな、自身の欲望や弱さのために、あらゆる形態に擬態して、それで、群れて、輪を囲って、余計に偽物になっていくのだけど。

じつは、赤ん坊のまま、そのまま大きくなった人って、そういう人がいちばん変人って言われてしまうタイプでね。勝手に擬態していったのはそっちなんだけど、色をついてないことを白い目で見てくるんだから、まぁ、世の中には色々な変人がいるけど、色がついた変人ってのは、大したことはないね。まわりに大した影響も及ぼさない。ちょっと色が変わってるね、くらいで。

問題なのは、色がついていない無色の変人でね。まぁ、これが本当のところでは変人ではないんだけど。真人間という他ないんだけど。これが、色がついた人間からすると、いったいこれは何色だろう? こんな色は見たことない。色がないなら色がないとして対応すればいいんだけど、彼らは自分の色を落とすことはできないからね。あくまで、色で判定しようとする。人生という道路を走る上で、赤、青、黄、信号機みたいに色で判定しているから、そこで、あ、あれ? この信号機色がついてないぞ!? ってププーっ!て事故しちゃう。まだ、汚い色を出してくれていた方がマシなくらいなんだ。

だから、こっちも、わかりやすい色を出していかなければならなくなるわけで、とりあえず、手合いのやっつけカラーを出していくわけだけど、そうすると、その色が、世間の一般的なカラーになってくる。

このとき、持ち出す色としては、ああ、あのファンタジー漫画の村長の、エポックさんだか、アンジュール村長だったか、あの、アンジュール村長の、ヒロインの女の子へ話しかける時の態度、あの態度いい感じだったなぁ。俺もいい歳だし、ちょうどあの村長と同じくらいの歳だし、あんな感じでいこうか。

今の自分の置かれている環境、年齢、容姿。それにちょうどあう器として、だいたい、漫画が使われることが多い。俺たちはだから、漫画の模倣と話しているわけだね。もっと言えば、その漫画の作者と話している。それを作り出したのは作者に他ならないから。その漫画の村長、エポックさんだか、アンジュール村長だがしらないけど、その漫画の作者が作り出した村長と会話しているから、やっぱり、作者と会話しているんだと思う」

友達「自分の価値観で出発しているわけではなく、まわりが「いい」と言っていることに対して、真似るようにならない? 俺は、まわりからきているような気がするんだけど」

しまるこ「じっさい、自分が『好き』という感情を明確に持つことは、はたして本当にあるのか、どこにあるのか? 愛も、好きも、もしかしたら、その場所には何も置かれていないかもしれない。嫌いもしかり、すべて、人は、自分の心の中に置いてある場所という場所には、あんがい近くまで行ってみると何も置かれてないかもしれない」

友達「……」

友達「というと?」

しまるこ「俺、昔、EXILEを本当に好きな人なんて誰もいないだろうと思って、
いつか、初対面の人に、EXILEをバカにするところから会話をスタートしていったら、マジで殺されそうになったことがあるんだよね」

友達「めっちゃリスクあることすんじゃん」

しまるこ「昔だよ。もう大学2年くらいの頃。EXILEと倖田來未が好きなやつは本当はいない、あれはメディアが垂れ流している『嘘』だと思っていたからね。

思えば、あの頃は純粋だったね。ただ、知性は足りていなかった。「あ」と思って、EXILEをバカにしちゃいけないんだって、その場所では、みんな、EXILEを崇拝してて、なんか、俺もその場所にいると、そう悪くないっていう気がしてくるというか、

どこか、EXILE、臆し難いものがあるなぁって。だんだん、EXILEに取り込まれそうになってきちゃったところがあったんだよね。ああ、これは、根っ子のところまで、書き換えられちゃう人はいるかもしれないって思ったよ。

そういうこともあって、俺、彼らが本当にEXILEが好きなのかどうか確かめたくなって、彼らの代わりに調べてみたことがあるんだけど、

友達「余計なお世話なんだけどね」

しまるこ「余計なお世話なんだけどね」

ちょうど、なんかこう、気を抜いているところに、何か、スポっと入っている感じなんだよね」

友達「ん?」

しまるこ「なんか、収まるところに収まりたい、というか、

人は収まるところへ収まらなければ、安心していられないところがあるんじゃないかなぁ。

わー、ぎゃー、と馬鹿騒ぎしているところに、

やっぱりみんなで騒いでいるから、自分も一緒に騒いだり、テンション上げていきたい。

なんか、物足りない、楽しいことしたい。

そういう意味じゃ、大谷翔平で騒いでいる人らとそんなに変わんないと思うんだけど」

友達「他人の欲望が自分の欲望になってるってこと?」

しまるこ「それもそうなんだけど、

何らかの空いているスペースに、ちょうどピッタリ入ってきてる。

その空いているスペースの収まり具合に対して満足しているというか」

しまるこ「……」

友達「それが好きってことなんじゃないの?」

しまるこ「うーん」

しまるこ「(長考)」

友達「(長考)」

しまるこ「それは、かならずしもEXILEでなくてもいいような……。

あのー、一つ言えることは、銭湯で痰を吐いてるおじさんだとしても、容姿が小さな女の子になってしまったら、本当に小さな女の子になってしまうってことだね。それだけは言える気がする。

さいしょは、自分は、痰吐いてるおじさんだと思って生きているんだけれども、自分が小さい女の子として生きていて、周りが小さな女の子として扱ってくれていると、本当に小さな女の子になってしまうことは確かだと思う。

最初は、まだ、抵抗していて、自分みたいなおじさんが……って謙遜しているんだけどね。

この辺は異世界アニメの転生と同じ構図だと思う、

だいたい、みんな、あの、生まれ変わった先の若い肉体のままに暮らしていると、もう元の自分が消えてしまっていくわけじゃない、『推しの子』なんかも、そうだけど、やっぱりアクアなんかは、本当はあれ、元々は医者のおっさんだったわけだけれども、今じゃもう普通に高校生として、立派に息している。

だから、自分のいちばん身近な引き出しの中のいちばん上に、いつも、自己を自己とするイメージがある。記憶細胞の中の引き出しに入っているそのおじさん像なり、小さい女の子像がある。

それを、自分はそういう生き物なんだって、自分で決めつけてかかっているような、ね。

その中に、自分はこれを好きで、これを騒いで生きるもの。

そうやって、自分で決めつけてかかっているようなね」

友達「それがEXILEだってこと?」

しまるこ「(笑)」

しまるこ「収まりのよさゆえにというか」

しまるこ「自分のアイデンティティとして、収まりのよさみたいなところに、ピタッと。

今、こうして話している中でも、落とし穴の連続なんだよ。ちょっとでも注意を抜いてしまうと、たいてい自分が見たり、触れたりした認識を話してしまう。自分が見たり、触れたりした認識を避けたまま、どこまで歩いていけるかということだね。これをうまい具合になんとか潜り抜けて、いちばん最初の自分の頭に垂直に降りてきたイメージをいえて、やっと自分の言いたいことを言えるわけだけれども。

だから、無口な人っていうのは、とりあえずこれを避けることだけを念頭に置いているから口数が少なくなる。その点、よくしゃべる人っていうのは逆に拾い集めようとする。

簡単に自己と一つになってしまうものが、その辺にたくさん転がってるから、それに耐えるのが趣味の人がいるんだけど、それが芸術家とか哲学者とか言われる人たちのことだね。まぁ大体が、そういう人たちでも、このどこにも落ちないでこれたって人はいないね。彼らがやっていることって、ただ落ちないように我慢比べしているだけだからね。ただ、我慢が続かなかった人、人生という鉄棒につかまりながら、痺れを切らした人から落ちていく。この、落ちる落ちないをスキ……って言っているわけで、だから、好き、というものには実態がない。ただ、穴があるだけ」

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