朝5時過ぎ。なかなか寝つけない。昨日はなんと友人と13時間電話をしてしまった。これは最高記録だ。我が人生において、一日に13時間も喋り通した記録はない。40歳にしてこんなことが起こるとは夢にも思わなかった。夕方4時から、13時間、ずっと話していた。その、13時間というもの、ほとんどダレることがなかった。2分に一回は爆笑していた。そのせいか、もうほとんど精神が精神として機能しておらず、いよいよ眠りにつこうと思っても寝れず、不思議なことに、まだ頭は熱していて、何かできそうである。こうして無駄に布団の中で、クスリでもキマっているように目をギラつかせているよりかは、起き出して、文章の一つでも二つでも書いた方がマシだろう、ということで、俺はマックに行くことにした。
明け方のマックには、二種の人間がいる。勤勉で早起きで会社に出勤する前に15分でもいいからノートパソコンを開いて仕事しようと駆け込んでくるスーツ姿のサラリーマンたち。もう一種は、朝ともいえない、夜から地続きの、一晩中騒ぎ通しで疲れて最後の憩いの地としてやってくる若者集団。
がらんとしている。席はほとんど空白である。定期的に、調理場の機械が、
ピーッとオレンジ色のランプを光らせながら鳴る音だけが虚しく響いている。一応、店員はいるが、閑古鳥のような顔をしていて、店とは関係ない人物のように立っている。ピーッという音は、彼が発しているのかもしれない。
俺は朝日がちょうど昇る瞬間を見たかったので、窓際の席に座ることにした。目の前にはアベックの姿がある。夜通し飲んで遊んでカラオケ行ってやることはぜんぶやったが、まだ互いの家に帰るのも寂しい気がして、こうして時間を持て余している。ほとんど会話らしい会話もない。女は男の肩に頭をのせてポカンとしている。寝ているともわからない、が、たまに顔を上げて、洞穴から出てきた森のリスのようにキョロキョロと店内を見回したりもする。女の顔はほとんど化粧をしていなかった。まるでマクドナルド全体が、自身の家の脱衣場であるかのように、自由に息をして過ごしていた。
この光景は、この清々しい朝にとって、目に毒といえば毒かもしれない。
「さぁ〜! これから会社に乗り込む前に、いっちょ朝飯がわりに仕事終わらせたるで〜!」というような、その推進力を前にほとんど髪を置き去りにしてしまった中年ハゲたち、彼らにとっても、やはりこの光景はなかなか目に刺激的らしく、自身のレッツノートとアベックの間を視線を行ったり来たりさせていた。
(彼らは、この時間まで何をしていたのだろう?)
それが、サラリーマンたちの最大の関心ごとだったらしい。
アベックは、二人の間でやることは全てやり終えた顔をしていた。一年の行事。バレンタイン、ホワイトデー、七夕、誕生日、クリスマス、24時間耐久セックス、お花見、全部やった。およそ男女における世間一般の慣わし、それを十分にやり尽くした結果、今や消し炭ひとつ残らず、マックの椅子に座って燃え尽きている。男はもう、となりに座っている女が服を着ていようが着てなかろうがそれも問題としていないようだった。
それが、中年オヤジたちにとって、疑問符を投げかけるものだったらしい。
もう、彼との間にやるべきことはやり尽くしてしまったのだから、どうしてそこに居る必要がある? 若いんだから、生きているんだから、なにかをしなさい。もう、その階での出来事を終えたのなら、新しい階段を登りなさい。一応は、新しい人と交際すれば、新しい体験が待っているだろう。今、君に必要なのは、新しい人との、新しい体験だ。私には、彼のように、ノースフェイスの黒のダウンジャケットを着ながら、ダラダラと一緒にマクドナルドの椅子にふんぞりかえっているという、そういった体験は提供できないが、人が変われば、新しい体験がある。この場合、新しさだけが重要だ。それはつまり、もう何も残ってない皿に対し、その上に、食べ物が置かれているか置かれてないか、ということだけが問題であり、ただ、料理という、中身が置いてあるという点だけを取ってみて、ないよりはマシだろうという、たとえ、マズかったとしても、質量をもった物質としての、ぶったいがある。ということ。それはほとんど暴力のようなこじつけ論であり、ナイよりは、マシじゃないか、そういった目線で、サラリーマンたちは、アベックを見ていた。
それは、朝には不釣り合いの、というより朝日の光を遮るような、ずいぶん重い、粘っこい視線だった。
アベックはスマホ一台をテーブルの上において、仲良く二人で洋画らしきものを見ていた。
ちょうど、俺は、アベックの真後ろに位置していたので、彼らが見ている映画の内容まで知ることができた。けっして誓っていうが、彼らの朝のエッチな空気になびかされて、後ろに座ったわけではない。
よく、何を見ているのかはわからない。昔ながらの洋画といったものだ。ロミオとジュリエットか、ローマの休日か、風と共に去りぬか、わからないが、ちょうどモノクロを卒業したくらいの時期の、一応はカラーである。貴婦人が赤い帽子をかぶって、健康そうなくせに変なステッキを鳴らしながら歩いている。貴婦人はいかにも若そうだったが、今の私たちの時代の女性にはない貫禄がある。
なぜ、朝5時のマックでこんなものを見ているのかわからないが、おそらく、ダラけも頂点に達していて、自身らの精神を刺激してくるものは一切遠ざけたい気持ちになっていたのではないか。あるいは、YouTubeを流していたら、こんな動画まで流れ着いてしまったか。
「こういう人たちって急に怒るから怖い(笑)」と彼女は笑いながら言った。
「どこで怒り出すかわからないから怖い(笑)」
俺はこのとき、雷に打たれたような衝撃を受けた。
ショーペンハウエルは、『読書について』という本の中で、「学のない多くの人ほど、良識や正しい判断、場をわきまえた実際的行動の点で、すぐれている」と言っている。
また、ボーヴォワールは、「人間は誰もが考えている。インテリだけがそれを自慢しているのだ」と言っている。
確かに、映画の中の貴婦人は、ステッキをドンドン床に鳴らしながら、その細身の体型に耐えられるかわからないほどの凄まじい熱量で、ほとばしる舌撃を見せていた。およそ活字にすれば2、3ページ分はありそうな、時間にして数十秒、枯れることのない井戸のように、まくしたて続けている。先までは、あなたは薔薇だとか、美しいとか、そんな愛の言葉を囁いていたのに、アベックの彼女は、その貴婦人の急がわりした様子を面白がっているようだった。
(こんな映画の楽しみ方があるのか)
ほとんど映画の内容なんて見ちゃいない。なぜ怒っているのに、こんなにスラスラ言葉が出てくるのか、そういったところを肌で感じながら鑑賞している。
「まるでテキスト読むかのようにしゃべる(笑)」
と、彼女は言った。
テキスト、か。
確かに、ショーペンハウエルもこう言っている。「ほとんどの人間は一文単位でしか話せない」
知能が低い人間ほど、ほとんど動物の鳴き声のような、ワーとか、キャーという感嘆語、擬音でしか話せない。ほとんど文章を書くような日常セリフを口にする者はいない。
例えば、太宰治の『駈込み訴え』などは、ほぼ一息のままに口述筆記で語り終えてしまったと言われているが、また、彼の日常会話における一言ひとことも、まるで小説を書いているようだったと知人に回顧されている。
今では、エンタメ作品の息遣いは短い。数分で終わる、インスタをはじめとするショート動画ばかりが再生され、それに比べ、昔の作品は一息が長い。シェイクスピアの、あの長台詞に関しても、まぁ、日常会話があんなに長いということはあり得ないだろうが、ひとつひとつのセリフは極めて長い。
それだけつまり、潜水力に著しく欠ける現代の我々は、すぐにアプアプと水の中から顔を出しては息継ぎをするように会話をしているともいえ、知能とは言葉だという言葉があるように、ここから昔の人たちとの知性の違いを推しはかれるかもしれない。
(しかし、これは知性なのか?)
先までは、あなたほどまるでうつくしきばらのようだとかなんとかいってたのに、売女だ! 犬の糞以下だ! と、まるでうってかわって、その美しくも長ったらしい語彙を駆使して立派に怒っているけれども、その怒っている態度そのものは、はたして高貴なのか? 極端から極端へ、それを許してしまう単純さは、はたして頭がいいと言えるのか? その疑問をふと彼女の知性は捉えたのだ。
貴婦人の怒りは、まっすぐなところからきている。これが偽りの怒りであれば、これほど彼女の胸に刺さらなかっただろう。自分だったらとてもこんなことでは怒れない、でも、この映画の人は、ここまで怒ることができる。その純粋さの所在は、いったいどこにあるのか。
(こりゃあ、ノーベル賞もんだな)
こうして、ふだん人がふつう会話の中で口にする小さな一言は、誰にも気づかれぬまま、歴史に足跡を残さないまま、とこしえのマックの闇の中に消えていってしまうのだろう。