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猫が退屈そうでかわいそう?

少し前、『バガヴァッド・ニャーター2』という記事を書いた直後、とある妙な女性から、「猫が退屈そうでかわいそうという話を書いてほしい」と言われた。

女性というものは、なかなか感傷的な話が好きなものである。ふだん通っている小説投稿サイトでも、感傷的な作品を持っていくと、感傷的な女性から、感傷的なコメントをもらうことがある。

そこで俺は繊細な文学青年らしいような扱いを受けることがある。次はどんな繊細で、文学青年らしい、憂に満ちた、社会に対して人間に対して嘆き散らかしている、ピカソの青の時代のような作品を持ってきてくれるだろうか、と、俺の憂いをオカズにマスターベーションに使われていそうな、

そんな折に、次にもっていくのが、『ルフィはなぜナミとセックスしないのか考える』みたいな作品だったりすると、もちろん、その女性からレスはつかないし、また、ちょっと汚い作品を持っていくと……

ルフィはなぜナミとセックスしないのか考える

「しまるこさん? どうしたのですか? 悪いお友達と付き合ってらっしゃるのですか?」

「それはあなたの本当の姿ではありません」

「呆れました」

と言われてしまうことがある。さすがにこれを4回か5回続けると、もう何も言われずに去られてしまう。

もとい、雨に打たれたり、都会のビルというビルに挟まれて慟哭したり、真っ白な部屋の壁に頭を叩きつけたり、なんでも、最近のJ-Popに見られるような弱々しい歌詞、どうも最近のJ-Popの歌詞というものは、部屋の隅でしゃがみ込み、思い出す、あなたの長い黒髪、でも僕は──。あなたが──。あなたとすれ違ったときのレモンの香水の匂いが僕の鼻の
僕の心臓は──そのとき、レモンの香水の香りが──とか、性欲を美化した曲ばかり歌いやがって

ひまわり畑で白いワンピースを着て麦わら帽をかぶって、そんな清純派女性と一悶着あるけれど、儚く散ってしまって嘆くような、本当にそんな恋愛をしたのかどうかすら疑わしい、やたらと、「あなた」なんて普段言わないくせにこんな時にばかり使って、「ぼく」だって言ったことないだろう、

そういうものが流行っているようで、そういう曲調の曲が多いように思える。

しかもその歌詞を書いた後に、ポップコーン片手に寝転がって、YouTube動画を見ながらマスかいて寝て、起きたら、その歌詞の売り上げ表の数字を見てニヤニヤしているくせに、と白い目で見てしまう。もうこういった曲調のものは、世の中の進捗としては、イノセントワールドで止まっていいような気がするのだが、最近はこうした曲調が極めて多いように思う。YouTubeで最新のJ-POP50選を聞きながら作業をしていたら、ほとんどがこういう曲で参ってしまった。ゲーテがいうように、これは古典主義とロマン主義とにふるい分けられるように思う。

「私は古典的なものを健全なものと、ロマン的なものを病的なものと呼ぼう。この意味で『ニーベルンゲン』もホメロスも古典的だ。なぜならともに健全で力があるから。新しいものの大部分はロマン的だね。新しいためでなく弱々しく病的なためだ。古いものが古典的であるのは、古いからではなく、強く、元気で、快活で、健全だからだ。こういう特徴から、古典的なものとロマン的なものを区別したら分かりやすいだろう。」

どうも、黙って静かにしていると。あるいは、ただ話しているだけでも勝手に見抜かれてしまうものなのか、むかし、動画で、ただ普通にしゃべっていただけだったのに、「しまるこさんは何か人を不安にさせるものを持ってますね」と視聴者に言われた。何か人に言えない過去があるのか、社会や何かと戦っているのか、それとももっと内面的な深いものか、何か得体の知れないものと社会とのあいだで板挟みにあっている青年特有の苦しみ、俺がそれを全く一つのものとして形成された人間であればよかったかもしれないけれど、ともすると、そういうのに応じて、変な虫がプンプンと飛んできて、あら、文学青年君じゃないの、なかなか美味しそうね♪というふうに、どうも、この手のちんちくりんの世話を焼きたがる女性というものが、寄ってきてしまうところがあった。女には、男の男性的な弱さを見抜いてしまう本能を持っている、と岡本太郎は言っていたがね。

まぁ、この中の一人や二人、落とすことはわけないだろうということも人生で幾度となくあったけれども、どうも、先が知れているなと思って、こっちから身を引いてしまうことがよくあった。やっぱり俺は自分のもともと持ってる性質に逆らえず、裸で学校内の教室や廊下を走り回ったり、裸で盆踊りばっかりやっていたので、そういう女性はその手の姿を見るとすぐに降参してくれるので、白黒がはっきりつきやすかった(まぁ、感傷的な女性でなくとも、裸で廊下を走っている男と付き合いたい女なんていないと思うが……)しかし、そうだとして、向こうがこちらに感傷を要求してくるとして、こちらも感傷で応えるとして、感傷と感傷がくっついたその先に何があるだろう? とはよく思ったものだ。少女漫画のような世界があるのか、月9のような世界があるのか、そんなロマンチックなムードで24時間一緒にいて、はたしてどれくらいもつだろうか? それをやってみたい気持ちもあったが、どうやらその時節も過ぎ、今世は終わりそうではある。

じゃあ、はたして、相手がバカをやるのが好きな女だったとして、那須川天心がそれが原因で別れた元彼女のように、セックス中にブレーンバスターなどのプロレス技をしかけてくる、そんなバカな女がいたとして、俺もこれまで通りバカをやるとして、バカとバカが合わさった結果は何があるだろう? とも考えた。お笑い芸人の男と女が二人組み合わさったとして、毎日顔合わせれば面白いことを言い合い、ギャグをやり合い、二人で裸で外を走って、お縄になり、今度は二人でYouTubeをやって、それははたしてどうだろうか? それもちょっと色気がなくってね。

およそ世の中では、何もしないということは、悪いことだと捉えられているかもしれないけれども、ただ静かに何もしないでたたずんでいる、自分の中にあるもので満足して生活していられるのであれば、それ以上のものはないという論旨については、かねがね同意である。俺はどうも小さい頃から落ち着きがなく、常に何かしていなければ気を保てなかった。人の5倍か10倍のエネルギーを持ち合わせていて、いつもギャーーー!!!! と小さい子が画用紙に描く奇怪な物体がそのまま外に現れたようなところがあった。

一日中飛び回っていても疲れをしらず、本当にクレヨンしんちゃんのしんのすけによく似たキャラクターだった。じっさい、自分のことを「オラ」と呼んでいた。それは、今でもそれほど変わってないように思うこともしばしばだけど、自分の中でコントロールできるようにはなったところはあるかもしれない。ただし、コントロールできることが良いことか悪いことかは分からない。むかし、自分の中で、これがいちばん自分の中の重要なものだから、「コレ」だけはぜったいに持っていよう、という「コレ」をずっと自分の中に持っていた。それは、心の中の小さな灯火と言ったらいいか、自分の中の本当にいちばん大事なもので、まわりを見れば、もうすでに小学校2年生にして、「コレ」がなくなっている子供の存在に気づいていた。もう、クラスには俺しか残っていないなぁと実感しながら生活しており、俺だけは無くしてなるものか、「コレ」がなくなって生きていくことはできるかもしれないが、「コレ」がなくなってしまったら、すべてが終わる。すべて、自分の中のいちばん大事なものがなくなってしまう。「コレ」は……、「コレ」だけは絶対なくさないようにしよう……! と、常にずっと、もうかなり小さい頃から、「コレ」だけを直視し続けていたところがある(あんまりこうして書くと、今度は小学校2年生の時に感じていた『コレ』について書いてください、なんて言われたら堪らないからこれくらいにしておくけど、ホホホホホ!😂)たぶん、それは、それくらい気をつけていなければ、失くしてしまうだろうということに、子供ながら気づいていた。しかし、さて、小さい頃の自分には本当に申し訳ないのだが、今それを持ってるかと問われると、怪しいところがある。全くなくなっているわけじゃないけれども、だいぶ損じてしまった気がする。それは、社会でうまくやっていくため、まわりを、自分を、傷つけないようにするため、うまく生きるため、うまくやるため、小さな自己改革、自己変容をたくさん繰り返してきて、「コレ」が、やっぱり小さくなっていってしまった気がするのである。

場合によっては、そっくりそのまま根底から自分を変えてしまったこともあった。それはすごく大きな変化もあったかもしれない。心理学について一生懸命勉強したこと、格闘技をやる中で、その中から得たヒントを実際生活に応用してみること、宗教的な問題の取り組み、神について、愛について、霊的修行、聖典の学習、瞑想、センスというものについてもっと磨いてやろう、友達からウケをとること、モテようとすること、最大公約数的な笑い、訴えかけるもの、技の研鑽、知識の蓄積、いくらか根底から自分自身が全く生まれ変わるという経験をしたことも何度となくあった。

だからかね、高校生の頃に書いた作文ですら、すごく遠い過去のように思える。あの頃の気持ちがどれだけ残っているか。それは感傷的な気持ちだったか、自然な気持ちだったか。小論文の60歳の女の先生が泣いたのは事実である。それからの、その先生の俺の見る目が変わってしまい、この子はどうしてこんなに優しくて良い子なんでしょう、この子は本当に素晴らしい子だわ……と、奇跡でもみるような目で、学校中のどこで出くわしても、そんな目で俺のことを見てきたものだった。たぶん、ヤれたんじゃないかと思う。文章とは、これほどまでに己に対する価値観を変えてしまうのかと思い知った初めての経験でもあった。

これは猫を飼ったことがある人間にしかわからないと思うけれども、本当にまだ生まれて数ヶ月の猫の元気さというものはびっくりするもので、本当に信じられない、およそ子供の頃には気づかないかもしれないけれども、大人になって、純粋なエネルギーが恋しいなぁなんて年月の頃に見ると、本当に信じられないほどの生命力を見せるのである。

たしか、養老孟司が、大学教授は大学卒業したばかりの若い人がいい。そして、小学校の先生は、年配の教師がやるといい、というようなことを言っていた。高校生や大学生には、ちょうどそれくらいの同じ様な歳の人、小学生にはおじいさんくらいの老人、というのがベスト。というのも、幼児の飛び出してくるような生命エネルギーと、枯れ果てた枯れ木の老人みたいな教師の方が、いい具合で化学反応を起こすかららしい。

人間の幼児というものは、もうそれだって信じられないくらい、全身全霊に輝いているものだけれども、子猫もそれに劣るものではない。むしろそれ以上だと思える。本当に、もうずっと、彼の目が届かない部屋と部屋をまたいだ、向こうは廊下の隅にいて、こちらは見えていないだろうと思って、猫の見えていない部屋で、荷物の整理でもするかといって、段ボールを開いて、その中の服の整理でもしようとして、ちょっとでもダンボールの擦れる音がすると、その音に反応して、廊下から、凄まじいスピードで全力ダッシュして飛び込んでくるのだ。それで、俺が服を畳もうとすると、そのちょっとでも指先を動かしただけでも、ほんの数センチの動きに反応して、逐一、一回いっかい、俺の手の動きに反応して、ビタンビタン俺の手を叩いてきたり、飛びついてきたり、噛みついてきたりする。今回は見送ろうということはなく、俺のどんな小さな動きにも反応し、そのすべてが全力だ。この世界に降りてきたばかりの新しい目というものは、こうもかくも全てが輝いて見えるのかと、こっちも全く同じような視線で世の中のことが見えてきてしまいそうになるものである。

また、卓球ボールなんかを床にポンと投げると、それに反応して、ぶつかっていく。ボールを爪で引っ掻くと、とうぜん、ボールはそれにぶつかって動き出し、飛んでいって、壁にぶつかってまた跳ね返っていくのだけれども、やっぱり、その動きの全てに反応して追いかけるものだから、ボールがぶつかって跳ね返って、それをタッチしてまた飛んでいって壁にぶつかって跳ね返って……ってエンドレスでずっとやっている。本当に、1時間ぐらいずっとそれをやっていて、人間の子供でもこんなことしないんじゃないかというくらいだ。

まぁ、このまま卓球ボールで一人で遊ばせておいてもいいのだけど、それでも対人戦の方が猫も喜んだりする。猫ジャラシなんかももちろん好きだけれども、こっちもちょっとめんどくさいから、俺はよく懐中電灯を持ってきて、そのライトを床に当てて映った光球を動かし、それを追いかけさせて遊んでいた。手元をちょっと動かすだけで、ワンピースの黄猿のようにヒュイッと部屋の端から端へと光球が移動して、俺がそんな手抜きをしているにも関わらず、猫の方は部屋の端から端まで走り回った。やっぱり人間の子供でもこんなことはしないなぁと思い、それを10分やっても20分やっても飽きる様子はなく、手抜きをしているこっちの方が先に参ってしまった。

これが大体3歳か4歳くらいまでは続くけれども、それ以上になってくると反応しなくなってくる。猫も成熟するというか、大人になるというか、こういった部分はなくしてしまっていくようである(それが猫にとっての『コレ』かはわからないけれどもね。まぁ、一つの青春みたいなものではあろう)また、猫もメスよりもオスの方が反応する。とくに社会経験を得たわけでもなく、何やら人間道に立ち入ったわけでもなく、知識を得たわけでもないのに、猫も猫で勝手に達観していくものである。

子猫の全身全霊のエネルギーの爆発力の前では、どんなエンターテイメント作品もこれに比肩し得るものはないだろう。養老孟司氏がどうして老人にこのようなものを組み合わせるのがいいと言ったのか、その答えがわかる気がする。まったく、このように生まれたばかりの、見るもの全てが目新しく、それに飛び込んでいくパワー、まさしく、それこそ、老人に足りてないものだ。

そんな猫も、大人になってくると、ずいぶんと外の景色だけを見て過ごすだけの物体と化してしまうものだ。それが良いことか悪いことかわからない。それはそれで可愛いし、その成熟として、その変化を見守るのも楽しい。

顔つきも、やっぱり子猫と成猫ではぜんぜん違う。大人の方が、人間の顔に近づいていく。この辺は、どちらかというと、野良猫より家で飼われた猫の方が、人間っぽい顔つきをするようになる。猫も猫で、大人の方が達観したような顔つきをするようになるものだが、それはちょくせつ自然と結びついて進化するせいか、人間が大人になったときに見せる顔つきと少し違うところがある。何も知らないくせに、何でも知っているような顔をする。それは学問で見られるような、文字で書かれた知識ではなく、空間そのものにある知識をそのまま引っ張ってきて、それをどうこうしているところがある。それは、人間だってそういう顔つきをしている者はいるけれども、やはり彼もまた空間から引っ張り出してきたものだと思われる。このことから、自然生命の正しい進化のあり方として、空間から出発する方が正しいと思われる。

本当に、生きていることそれだけが楽しくて仕方がない、とどまらんばかりのパワーが根底から湧き出してきて、飛ばず走らずにはいられない、まだ、一縷の悲苦が入りこんでいない心は、下手に、直接的に物事を感じ取り、そこに分割された精神がないから、けっしてそれを言語化したり説明することはできないけれども、真理に直接近いところにいることは、その表情から伺いしれなくもない。

さて、ボール遊びもするし、光球も追いかけるし、自然と同化もできるしで、それはそれで充分に完結していると思われたけれども、当時の子供時代の俺には、これがどうしても納得できなかった。やはり自分自身が常にゲームをやっていなければならないといった、学校から帰ると、飯を食う時間すらもイライラして、なんか遊びたい、はっちゃけたい、遊びたい、遊びたい、たくさん遊びたい、もっともっと、一日中遊んでなくちゃだめだ。とにかく起きている間はたくさんゲームをしないと……。学校にいるあいだも、一日中、クロノ・トリガーや聖剣伝説3について考え、俺にとって、人生とは、ゲームをやる時間とそうでない時間とで二分されていた。

すごく欲張りな人間だった。今でもやたらとなにか面白いものを作りたがったり、感動を求めてしまうところは、ここからきているかもしれない。悪い意味でも良い意味でも大人になりきれないところがある。

今、神を求めている心だって、ここからきているかもしれない。単に、欲張りなのだ。それがものすごく。やっぱり、ここに幸福があるんだって、それが最高の幸福があるんだからって、だからそれを追いかけているにすぎない。なんら、楽しみのためにゲームを求めていたころから変わっていない。もはや、物質でもない、精神でもない、ただ、それらの100倍気持ち良くて楽しくて幸福なものがここにある、と、ヨガナンダ先生も、肥田先生も、アーナンダイー・マーも、ラマナ・マハルシもみんなそういうもんだから、本当〜?といって、聖典というコントローラーを握って、眉唾を垂らしながらプレイしているだけだ。今でも、それなりに楽しい生活を送っているけれども、幸せかと言われたら、はっきり幸せだと答えられるけれども、やはり神を見出せなかった人生に何の意味があるだろうと言われたら、それはそうだろう。

まぁそんなふうに窓を見て、日がな一日を風景と化して過ごしてしまっている猫を見るたびに、刑務所で服役し、牢屋の中でただ時間が過ぎるのを待っているだけの囚人のように見えてしまうところはあった。そんなふうに感じてしまうのは、やはり自分が、楽しみや、ゲームや、人生の内奥にあるもの、いつも楽しみを追いかけていたいといった理由からだったと思う。俺と猫とで、どちらの方が楽しみについて分かっているかも分からずに。これを救ってあげられるのは自分しかいないと思って、お母さんは家事とパートで忙しいし、姉ちゃんだって高専に行くために勉強をしている。親父にしたっておばあちゃんにしたって、似たようものだ。まぁ、そういう意味で言えば、おばあちゃんがいちばんこの家で暇そうで、いちばん猫の相手をしていたような気がするけれども。

で、俺が猫に関わることで、やっぱり、にゃーと言って、ちょっと関わってやるだけでも、やっぱり声を出す。これだけでも相手の反応を引き出してあげられたと思った。相手の退屈な時間、窓の外を見ながら過ごす時間から少しは解放させてあげられたという使命感に似た気持ちが果たされたところがあった。それによってこいつが本当に喜んでいるかはどうかはわからない。それでも、やっぱり、撫でてあげると、声を出したり、床に転がって、もっと撫でてといったポーズを取ったりするし、喉をゴロゴロ鳴らしたりもする。猫じゃらしをとってきてやれば、目の色を変えて一生懸命になるし、いつまでも一緒に遊ぶ。本当に動物的だなと思った。こっちがアクションを仕掛けるとアクションで反応してくる。そう、ただ反応しているだけ。その反応を引き出してあげることは、ただボーッと窓の外を見ているのと比べて、彼の人生を豊かにしているのだろうか。

たまに、変なところを触ったり、尻尾や脇腹を触ったりすると、変な声を出したり、怒ったりするところがあるけれども、それすら、退屈から解放させてあげられているんだからと思って、良いことをしてあげている実感があった。そういう思いは、べつに動物に限ったことじゃなく、人間にもある。

例えば、学校や職場なんかでも、入ってきたばかりで、まだ、あまりみんなと馴染めずにいる人間がいたりすると、その人に声をかけたくなってしまう。もっと身近な例でいうと、うちのおばあちゃんなんかもそうで、おじいちゃんが死んで、ちょっとボケてきて、自分で料理もしなくなり、母親に全部任せて、それこそ猫のようにほぼ一日テレビを見て過ごすようになってしまい、あれ? 一日のあいだに少しでも動いた時間あったっけ? ほとんど家庭内の置き物のようになってしまって、テレビだって、ただ画面を点灯させているだけで、チャンネルを少しも変えない。内容が頭に入ってきている様子もない。美空ひばりが好きだったけど、美空ひばりの歌と他の人の歌と区別がついていたかもわからない。こういう時は、何かできないかと思うけれども、しかし俺に何ができるだろう? よくまぁ、一日に23時間も24時間もそうしていられるもんだなぁと思って、こっちの方がびっくりしたものだけれども、かえって本当に死んでしまったほうが幸福なんじゃないだろうか、と思ったものだ。遊んであげようとしたって、いったい何をどうして遊べばいいのだろう、23時間、24時間遊んだとして、時間がそれを許すだろうか? 時間はいつだって、それ自体が生命を有していて、我々は同じ屋根の下に暮らしていても、それぞれの時間の生命によってそれぞれ動かされているに過ぎない。

猫ジャラシを持っていったところで喜ぶだろうか? ババアの頭に光球をチラつかせて、変なところを触ったりして怒らせて、そんなふうに怒ったり、怒らせてる時間の方がまだマシなんじゃないか? と、すら思えてしまうけれども。その方が脳のシナプスに刺激が入るだろう。全く音沙汰がない。誰にも何にも相手にされない、音もないし、光もない。外も内もない。何もないことが、全く刺激のないことの方が、かえって、その人にとって幸せということがあるのだろうか? 今、俺にだって、昔に比べて刺激がないことの楽しみも少しはわかってきた時分となり、周りに相手にされずほっとかれる人生もまた悪くはないと思ったりするけれども。とくに今は内面を追ってばかりいる、外側のものも最近はあまり楽しくない。YouTubeを見ていてもアニメを見ていても、たいていはみんな猿マネばかり。なかなか独創性に富んだすごい作品には出会うこともない。ゴーギャンは、「芸術は、革命か盗作か、そのいずれかだ」と言っていたけれども、本当にそうだろう。そうはいっても、じゃあピカソやゴーギャンの前衛的な作品を見て一日中過ごせといったって、過ごせるものでもないし、そんなに楽しいかと言ったら、そんなに楽しいわけでもない。希代の、ここ現代のすごい独創的な才能を発揮しているクリエイターと言ったら、今、パッと思い浮かぶのはロバートの秋山だけど、クリエイターファイルにしたって、刺激が強いのか、2、3作品見たらそれでお腹いっぱいになるし、そんなに続けて見ようとは思わない。かえって低刺激の、クソみたいな量産型アニメの方がずっと見続けられてしまうところがある。岡本太郎が言っていた、人は遊びながら退屈している、と言った言葉もその通りだ。そう考えると、俺もババアと同じだな。今から火葬の下準備として、低刺激で焼かれ続けるのに身体を慣らしているのだろう。猫がずっと同じ風景を同じポーズで眺めているのも、それが、すべてがちょうどいい温度で、ちょうどいい刺激で、すべてがうまい具合に運ばれていっている結果なのだろうか。今ではそんなふうに思えるから、今では、とくだんレオンヌに構ってやろうという気持ちもない。レオンヌももう、この地上での使命を終えて、おそらく来年をまたぐこともできないかもしれないから、そんななかで、こちらとしてやってあげられることは何もないかなぁとは思うが、まぁ、向こうからやってくることがあれば別だけどね。窓の外を眺めていることがレオンヌにとって一番幸せなのだろう。そしてまた彼の仕事なのかもしれない。

そう、向こうからやってくることがあるとすればだが。確かに、俺のこの気持ちに反して猫の方からやってくるということは極めて少ない。本当に、わがままの、B型というか、ここは犬と全く違うところだね。これまで猫を3匹買ってきた結果、どの猫もやっぱり、自由気ままに過ごしてきて、あまり向こうから擦り寄ってきてくれたという経験は少ない。メス猫の方が、その辺は寄ってきてくれたところはある。俺はいつだって、猫の顔が見たくて、半年ぶりに実家に帰ってきたというのに、平気で、知らんぷりして、窓の外を眺めていたりする。俺と他人の区別がついているのかどうかすら疑問なときさえある。

そんな中だけど、まぁこれはレオンヌではなく、レオンヌの前に飼っていた猫なのだけれども。当時。俺は大学時代、チンチラシルバーの猫を飼っていた。名はラン吉と言ったが。

ラン吉がもうすぐ死にそうだということで、俺ははるばる埼玉から静岡まで新幹線に乗って帰ってきたことがあった。まぁ、死ぬ前に会えて、顔が見れただけで安心したところはあったけれども、それがわかったところで、じゃあ、果たして、死ぬまでの時間、これから1時間か、2時間か、1週間間か、2週間か、三日かわからないけれども、ずっとラン吉のそばにいることも、時間が訴えてくるものによって、それができやしない。ずっとそばにいて、手を握ったり声をかけ続けていたらいいかと言ったって、ずっと顔を見合わせていたって、飽きると言ったら失礼だけれど、時間が許してくれないのである。俺は猫の危篤のために帰ってきたというにも関わらず、普通にアニメを見たりゲームをして過ごした。午後には友達とキャッチボールをしに公園に出掛けに行った。

そして、その夜だったか。俺はオンラインボンバーマンという、当時はまってた、変なネット対戦式のボンバーマンをやっていた。大学時代はほとんど、この、オンラインボンバーマンというゲームを4年間やって過ごしただけだった。本当に、大学生活において、これ以外の記憶はまったくひとつもない。

3対3のチームバトルが主なのだけれども、なぜか爆撃の攻撃判定が味方チーム内でも有効だから、味方を殺すと、1対3の構図になってしまう。それが面白くて、俺はなぜかよくわからないけど、開始早々、味方の一人に向かって特攻を仕掛けていき、同時に自分も爆撃で死ぬという、自爆テロを起こしていた。ほとんど4年間、ずっとそれだけをやっていた。あいも変わらず、そんなことを深夜1時ごろ、実家のリビングでやっていると、急に、「にゃあ」という声が響いた。俺の座っている椅子のすぐ側で、ジッとラン吉がこちらを見てきて、そのまましばらく目を離さなかった。なんだろうと思った。こんなことをされたのは15年間で初めてだった。

基本的に、猫という生き物は、目が合っている状態が続くと、それを敵対の合図とみなすらしくて、もし、猫に好かれたかったら、猫の目をできるだけ見続けないようにと、猫本に書いてあったので、猫を飼う者にとって、これ以上ない残酷なルールではあるが、猫がそういう生きものなら仕方がない……というふうに、俺はしぶしぶ了解していた。なるべく、目は見ないようにしていた。それが正しいかどうかわからなかったけれども、猫の方でもあまり人間の目を見続けてくることはなかった。それでも、人間の正体は「目」にあるというかのように、人間が、何かアクションをしたり、動き出したりするのを見ると、「目」が正体と言わんばかりに、人間を捉えるときの一番最初の判定として、コチラの「目」をとらえてくることが多かったが、それ以上に長く見続けてきたりはしない。だから、望もうが望まなかろうが、目と目が合い続けている事態にはならなかった。

だが、この夜は違った。10秒でも20秒でもずっと見続けてくるのである。30秒ほど経ってもずっと逸らさないので、勝負のようなものが始まっていた。何か話しかけているようだった。でも、それが何なのかはわからない。少なくとも、攻撃とは程遠いもののように思えた。シンとした静かな空間の中で、エメラルド色の綺麗な瞳が発光していて、それはまったく年端を感じさせないもので、吸い込まれそうだった。すると、1分ぐらい過ぎたくらいか、急に踵を返すようにして、スッとそのまま急転換するような形で目を背けると、二度と見てくることはなかった。ソファーのほうへ戻っていき、すやすやと寝ていた。そして、その晩になくなったのである。

これについては、すごく不思議な体験であって、この前に書いた『バガヴァッド・ニャーター2』の記事で書いたところではあったのだけど、むしろこの部分を書きたくて書き始めたところがあったが、書き終えたあとで、ちょっとボケが少ないなぁと思って、ボケれそうなところをボケようとして手直ししていたら、なんとなく色合いが変わってしまって、全面的な手直しが必要になり、あっちを削ってあっちを追加して、といった感じで弄っていたら、まるまるこの部分をカットする羽目になってしまった。それでも、どこかでこれについては書きたいと思っていたから、おそらく文章のほうでもそういう気持ちでいて、妙なファンの女性の口を開かせて俺に届かせてきたのだろうと思った。初めは、猫が退屈で可哀想という記事を書いてくださいと言われたところで、なーに言ってんだかって思ったけれども、書いてみると、そんなに悪くない気分だった。

猫でも人でも、やっぱり縁というものがあって、母とレオンヌが一緒にリビングで昼寝をしているところを見ると、二人は運命的な境遇を共にしているのだと思う。

何か二人には不思議な縁がある気がする。袖触れ合うも他生の縁と言うけれども、猫と家にもやっぱり縁があって、こうやってやってくるのだろうなぁと思う。おそらく、この関係において自分でコントロールしたり、自分で望んで切ったり切られたりということはできないんじゃないかと思う。夫婦ですら、別れる別れないですら、二人で決められる問題ではないのだ。

何か、二人には、過去生からきている、強い因縁らしいものがある。

二人は、来世でも、また出会うだろう。だから、悲しくはないと言ったら、嘘になるが。結局のところ、毎回、毎度、同じ人間同士が、違う形で出会っているだけ──という説を信じたくなる。

だからかな、人は、男であり、女でもある。誰もが、自分が女だった記憶を持ち合わせているものだ。男だった記憶も。猫だった記憶も。彼らは、人間を尊敬し、人間になりたがっている。

と、まぁ、こんなことを作文に書いたっけなぁ?

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