霊的修行

しのぶ君と再会した

タリーズのお気に入りの席から見える富士山はとても大きくて、壮麗で、しばし執筆の手を止めて眺め続けてしまうことがある。

いつも窓際の席に座って外を眺めている。三月のちょうど河津桜があちこちで咲き始めた時節。LINEを開いてみても、サクラの流れる演出が飛び込んできては、こんな状況で執筆に集中するなんてことは土台無理な話である。

なぜか不思議とパパジの言葉に触れたくなり、コーヒーを飲みながら、『信心銘』を読みはじめた。水曜日、午前10時、書きかけの記事があり、なかなか家では集中できないので、カフェで集中して仕上げてしまおうと思ってやってきたが、富士山を見たり、本を読んだり、落ちつかないものである。

タリーズの椅子は革張りになっており、湿気が篭りやすく、一時間も座っていると、立ち上がりたくなってしまう。目の前には大きく広がる森林公園。俺は一時間おきに、店外に出て、フラフラと公園へ歩きにいく。店員も、(あー、また散歩に行きやがったか)と、俺が外に出るときだけは「ありがとうございましたー!」とは言わない。どうせ、すぐに戻ってくるからだ。

この森林公園は一周500mほどあって、背の高い木々に囲まれていて、外からは完全に視界が遮られている。この煩雑な世の中においては、ここだけ隔離されたような、天使たちの住む楽園のように見えなくもない。じじつ、中央に大きく広がる芝生があり、ここでは子供たちがキャッチボールをしたり、女性たちがレジャーシートを広げてピクニックをしたり、60代のおばさんの団体がヨガマットを敷いて体操をしたり、仕事から解放された定年退職者たちが、一眼レフカメラでスズメや池のコイを撮ったりしている。

平日の10時においても、平気でこういった景色が見られるものであり、空は雲ひとつない晴天。なんら不安を感じさせるものはない。俺の人生にまだこんな時間を送ることが許されていたのか、といつも感動を禁じえず、一種の光芒の中を歩いている錯覚におそわれる。

交差点もない、信号待ちもない、ただ孤独な夢想家の遊歩者となって、およそラットレースのネズミのように、感動の中を気づけば何周も歩いていることが常だった。

ちょうど噴水エリアを曲がった折だった。

「しまるこさんですか?」

とつぜん、声をかけられた。

ん? リアルで、この名前を呼ばれることは……。この感じ、覚えがあるなと思って、声をかけてきた方をじーっと見ていると"彼"だった。

この縦に大きな、暗く、静かに、沈んでいった先の、およそピトー戦のときのゴンが見せた、暗く、深く、沈んだ瞳。

その隣で見ていたキルアが戦慄するほどの。

相変わらず少食だと思われる。均整がとれた身体つきをしていて、若い人が着るようなファッションでもない、かといって、服に無頓着な人がおざなりに着るのとも違う、およそ周囲の木々に溶け込んで同化したような、カメレオンみたいな深緑系のスモックコートを羽織っていた。

男子三日会わざれば刮目して見よ、というが、この数年間で、ずいぶん男らしい精悍な顔つきになった。

しかし、一目見て、ぜんぜん寝れてないな、とわかる顔だった。また、例の仕事であちこち飛び回っているのか。

肌は陽によく焼けた褐色だが、みずみずしくて透明感があり、相変わらず、とても綺麗である。以前は生玄米食をしているとのことだったが、まだ続けているのだろうか?

「今、噴水のところで顔を洗っていて、ふと、後ろを振り返った瞬間に、しまるこさんらしい後ろ姿の人が歩いているなと思って」

噴水で顔を洗う? 猫みたいなことをする男だ。いや、ホームレスか。

「じゃあ、ちょっと歩こうか」と俺が言うと、スルスルと彼は猫のように近くに寄ってきて、隣を歩きだした。

相変わらず、透明感のある、消え入りそうな儚い、詩的めいた大きな目をしていて、まばたきをせず、虚空一点を見つめながら話すところは健在だった。足音を殺して歩くキルアみたいな歩き方も健在だった。

彼の、大きくて、儚い、消え入りそうな瞳が、鬼滅の刃の『胡蝶しのぶ』とソックリなため、俺は彼のことを『しのぶ君』と呼んでいる。

しまるこブログのファンが会いにやってきたよ〜! ①霊的修行談話編

まだ、10mも歩かないうちに、「最近、何が見えてますか?」としのぶ君は言ってきた。

『最近、何が見えてますか?』

なんて、実直な質問だろう。

俺は、第一声にこんなことを聞いてくる人間にいまだかつて出くわしたことがない。

「最近、アニメばっか見てるんだよなぁ」

「赤毛のアンですか?」

「(笑)」

どうやら、ブログをよく読んでくれているようだ。

「いや、『僕ヤバ』を見てた」

「なんすかそれ」

「え、『僕ヤバ』しらない?」

「しらないっす」

『僕ヤバ』もしらないのか。今となっちゃあ、ほとんど進撃の巨人と同じくらいの知名度のような気がするが……。

以前会ったときの、鬼滅の刃について楽しそうに話すしのぶ君の姿は、見る影もなくなっていた。

俺は新緑のスギの木を曲がりながら、「そうだねぇ……」と口にした。「とある女の子がね、失恋して、落ち込んでいて、神はいつもその子をとくべつ扱いしていて、とくべつに愛されているために、ふつうの女の子よりはちょっといろいろな目にあうことが多い子なんだけど、神が俺に、『"わたし"がとくべつに愛しているから大丈夫だと伝えるように』って言ったんだよ。神はいつもそれを彼女に語りかけてるんだけど、今回は、他の人間を通して伝える必要があったみたい。で、彼女にそれを伝えたら、彼女、すごく喜んでた。もっともこの場合、感動した側の方が偉大なんだけどね。たぶん、彼女の方でも、俺ではなくて、神の言葉だと思ってくれたと思ってる。そういうことが、ここ最近、見えるというか、起こるようになった。今日も、こうして、しのぶ君と会ったのも、神の巡り合わせかもしれない」

「そうですね」と、しのぶ君は、本当にそうかもしれないというふうに頷いて、普通の人とは違った反応を見せた。

「だって、噴水で顔を洗って、後ろを振り返った瞬間ですよ? ほんの一秒にも満たなかったです。しかも、ちょうどしまるこさんが道を曲がり終わるタイミングです。この後ろ姿、見覚えあるなぁと思って。前回はストーカーだったけど、今回はマジっす」

「ちょっと偶然にしては、偶然がすぎるね」

俺たちは思案しながら歩き続けた。

「確率でいったらどんなもんかね? 今、ボクシングジムとキックボクシングジムと武道の道場と、三つのコミュニティを出入りしてるんだけど、同じ市内なのに彼らにはぜったいに出くわさないのに、3年ぶりの県外の人と出くわすんだから。千葉だっけ? 千葉に住んでる人に再会するって……」

「千葉っすよ」

「今日はどうしてここに?」

「仕事っすね」

「ああ、例の仕事か」

「はい」

しのぶ君は『何でも屋』の仕事をしている。

「何でも屋か」

「はい」

「クラウドみたいだね」

「(笑)」

「そのうち、星を救うためにセフィロスを倒しに行きそうだね」

「猫を探してほしいって依頼があって、この地域にやってきたんですけど」

「何でも屋ってそういう仕事もやるんだ。見つかりそう?」

「もう見つけましたよ」

「すごい(笑) 県外からやってきて、サッと見つけちゃうんだ」

「でも、捕まえるのはまたちょっと別で、今は、他の猫と交尾ばっかりしてるから、今は手が出せないんですよ」

「交尾? どういうこと?」

「ちょっと、交尾のあいだの、ベストのタイミングがあって」

「?」

「で、ちょっと休憩しようと思って、たまたまこの公園に立ち寄ったら、しまるこさんがいたと」

「そうやって全国を飛び回ってるんだ」

「はい」

広大な芝生の上で、フリスビーを投げている親子の姿があった。フリスビーは青空をのびのびと回転しながら飛んでいった。芝生を過ぎると、鬱蒼した木々の小道に入った。どこからかやってきた一羽のカラスが梅の枝にちょんと座り、枝がわずかに沈んだ。

「しのぶ君は何が見えてる?」

「あれから自分も、いろいろあったんすよ。しまるこさんと会ってから、またインドに行ったんですよ」

「また行ったんだ」

「はい。そこで、いろんなアシュラムに行って、サッドサンガに参加したり、インド人の女性と付き合ったり、その相手と失恋したり、この数年のあいだでいろいろありました。世俗と霊性のあいだを行ったり来たりしてました。暴飲暴食したり、いちばん酷いときはタバコを吸ってた時期もありました。今は、起業して忙しいんですよ」

「へぇ、起業したんだ」

「前の会社の同期の人間と独立したんですよ。ちょうど今、スタートアップの時期ということもあって、めちゃくちゃ忙しいんですよ。自分はそこまで会社を大きくしたいっていう気持ちはないんですけど、代表がものすごい物質主義の人間で、『年商◯◯億の企業にするぞ!』って燃えてるんすよ。この仕事って、範囲を拡大しようとするとキリがなくて、新しい仕事に対応できるように、『今度は◯◯の資格を取ってこい』って言われて。本当、めちゃくちゃ忙しいっす」

「ぜんぜん、寝れてなさそうな顔してるもんねぇ〜」

「寝れないのはいいんすけどね。自分の時間がないのがつらくて」

「一日どれくらい仕事してるの?」

「起きているあいだ、ぜんぶですよ」

「起きているあいだ、ぜんぶ……?」

「はい」

「しのぶ君は、今、何歳だっけ?」

「27です」

 

バクティ・ヨガ

しまるこ「今はどんな霊的修行をしているの?」

しのぶ君「インドから帰ってきてからは、日本にも、インドのアシュラム(僧院、ヨガ道場、日本の禅寺のようなもの)のような施設が近くにもあって、そこに出入りしている感じですね」

しまるこ「へぇ、日本にもそういうところがあるんだ」

しのぶ君「ほとんどインド人しかいませんけどね」

しまるこ「そこに住み込み? 毎日通ってるの?」

しのぶ君「仕事の方が忙しくて、週に一回……行ければいいところですね。家にもほとんど帰れてないぐらいですから」

しまるこ「今は実家暮らし?」

しのぶ君「はい」

しまるこ「そのアシュラムでは、どんな霊的修行がなされてるの?」

しのぶ君「基本的には、朝4時に起きて、沐浴して、サットサンガ(純粋な集い。古来からの真理・真実を学ぶ仲間や場のこと)をしています。マントラを唱えたり、讃美歌を歌ったり、神の臨在を感じられるように、ブラマチャーリ(出家者)達で時間を共にするといった感じですね」

しまるこ「瞑想はやらないの?」

しのぶ君「瞑想は、うちの長が言うには、今の時代はあまり瞑想に適してないそうなんですよ。昔の人は身体が丈夫だったから、瞑想に耐えうる下地ができていたけど、今の、このカリ・ユガ期の時代においては、人々の意識が散漫になりすぎてしまって、瞑想に対する集中力がなくなっているそうなんです。だから、今の人は、まず身体の浄化から始めないといけないそうです。集中力がないから、動きのある瞑想の方が継続しやすくて、動的瞑想、ハタ・ヨーガといった、アクティブメディテーション方式でやっています。ヨガの体操なんかもやってます」

しまるこ「なるほど」

しのぶ君「だけど、うちのアシュラムでは、バクティ・ヨガをいちばん推奨しているんですよ」

しまるこ「バクティ・ヨガ」

しのぶ君「はい」

しのぶ君「今言ったように、今の人々は、身体もひどく弱っていて、瞑想に耐えうるだけの忍耐力もないので、それで、今の時代に適しているのは、バクティ・ヨガ(ひたすら神を専心すること)がいいとされてるんですよ。神を想い、奉仕活動やボランティア、献身をすること、ひたすら神の名を唱え、神を想って活動することに主眼を置いています」

確かに、仕事から帰ってきて、疲労困憊し、家庭内のさまざまな事情に脅かされ、どんな霊的修行をやろうとしても気力が湧いてこず、そんななかでも不思議と神に祈ることはできてしまえるものだ。私たちは、猛烈に苦しくなって、にっちもさっちもいかなくなったとき、ただ神に祈るしかできなくなるところがある。

バクティ(bhakti)とは「神を熱烈に信じ愛すること」を意味する。日本語では通常「信愛」ないし「献身」と訳される。ヒンドゥー教で「最高神への絶対的帰依」を意味する語。「信愛」とも訳される。『バガヴァッド・ギーター』によって前面に押し出され、一般庶民へと普及された概念で、ヴィシュヌ派を中心にヒンドゥー教徒全般に広く受け入れられている。(Wikipediaより)

本来の自己がアートマンであり、現実世界とは関わりがないことを知識として理解するギャーナ(知識の道)、あるいは、原因を必要とせず存立するところのブラフマンと個人の本体であるアートマンは本来同一であるという、シャンカラの不二一元論(アドヴァイタ)など、神に至る道はさまざまとされているが、とくにバガヴァッド・ギーターではこう書かれている。

常に"わたし"の姿を心に念じ

絶大不動の信仰をもって

"わたし"を拝んでいる者こそ

ヨーガにおいて最上であると"わたし"は考える

『バクティ』については、ラマナ・マハルシの語った言葉がいちばんわかりやすいかもしれない。

『神のはからいに任せなさい。もしあなたの希望に沿うように神に頼むとしたら、それは明け渡しではなく命令である。神をあなたに従わせておきながら、自分は明け渡したと考えることはできない。神は何が最善であり、いつ、どのようにするべきかを知っている。彼にすべてを完全にまかせなさい。重荷は彼のものだ。あなたはもはや何の心配もしなくていい。あなたの心配はみな彼のものなのである。明け渡しとはそのようなものだ。これがバクティである』ラマナ・マハルシ

しまるこ「そうしていると、瞑想をサボってもいい気がしてきちゃうんだけどね(笑)」

しのぶ君「そうなんですけどね(笑)」

しまるこ「もう、神に泣きつくしかないか」

アンマや、アーナンダマイー・マーも同じことを言っている。悲しみの果てにやってくる訪問者に対して、「どうして今すぐ神に泣きつかないのですか? どうして神にすがろうとしないのですか! 今すぐ、神に助けを求めなさい!」

心理学や、インフルエンサーの戯言、偉人の名言、スピリチュアルのどんなメッセージ、ChatGPT、知人や家族の言葉、われわれは神が作り出した小世界の中に救いを求めるけれども、神自身に直接助けを求めようとはしない。

ただひたすら神を想うことが、いちばんの近道であることは、バガヴァッド・ギーターや聖書で、繰り返し、くりかえし、述べられていることである。

だが全てのヨーギーのなかで最勝の人は

大いなる信をもって"わたし"に帰命し

常に信愛を捧げて礼拝奉仕する人だ

彼は"わたし"の最も親しい身内なのだ

『36「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 38これがいちばん大切な、第一のいましめである。 39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」』  マタイによる福音書 22

これは怠け者の考えかもしれないが、いくら霊的修行に励もうとも、そこに神への愛がなければ、意味など一つもないのではないかと思うのだ。むしろ、神への愛がたくさんで、他の修行が少しばかりおろそかになったとしても、多めに見てくれるのではないかと思う節すらある。まぁ、怠け者の考えかもしれないが。もし神がいるのならば、神はわれわれと同じように、もっとも自分を愛してくれるものに、自分の姿を見せるのではないかという気がするのだ。

しまるこ「俺も、神を愛することがいちばんの近道のような気がする。これは信じられないかもしれないけど、すべては神の恩寵からきていると思う。知性も、アイデアも、いろんなすべての技能芸事も、美しい心も、出会いも、すべて神からきていると思う。本当にぜんぶ神の贈り物なんだと思う。俗的な考え方だけど、神を愛せば愛した分だけ、その見返りがもらえている気がする」

しのぶ君「はい」

しまるこ「厳密には、神は等しくすべての生き物に恩寵の光を注いでいるのだけど、神への心が開かれている人じゃないと、その光を受け取れないのだと思う」

しまるこ「人々は、このじじつに気づいてなくて、今も別のところに幸福の源泉を追い求めているけれども、すべてが神の愛でしかないことがわかったら、きっと驚くほどの勇み足となって、世界全体が神を求めるようになると思う」

しのぶ君「はい」

しまるこ「俺は、かならずしも勤勉とは言えないんだけど、それでもすべては神だということはわかってる。たぶん、ギーターに書かれてあるとおり、そもそもの決定が正しいから、この現象が起きてる。それでも、外側にいいことが起きたから、神様ありがとう、じゃダメなのもわかってる。いいことだとか悪いことだとかは、すべて同じことだと捉えて、幸せというものは、そんなものとは関係なく、いつどこで何をしていても、神の愛によって幸せになれる。それが霊的修行の本当の意義だと思う」

しまるこ「前にあったのが、3年前だっけ? 今、神って、たぶん30回くらい言ってるけど、リアルで口にしたのは3年ぶりだよ。しのぶ君と会った日が最後。それ以来、リアルで『神』なんて言ったことなんてなかったよ」

しのぶ君「自分もっすよ、職場じゃあ、まず、絶対に言えないし」

しのぶ君「でも、絶対、狂ってますよ。神という二文字を口に出すことすら憚られる、こんな国はぜったいにおかしい。インドの方が、そういうところは真面目でしたねぇ。もし、人生をほんとうに真剣に生きたいと思っているのなら、それについては、向こうのほうがずっとしっかりしていることは断言できますよ」

しまるこ「三島由紀夫は、『インドに行けるものとそうでないものがいる』と言っていたけど、俺はどうやらそのときがきていないのかもしれない。それがやってくるような気もしない。その点、しのぶ君は羨ましいよ。俺は最後まで行かないような気がするから」

しのぶ君「そうですか?」

しまるこ「アンマには会いたいと思ってるんだけどね」

しのぶ君「ああ」

しまるこ「たとえインドにおいても、ヨガナンダ先生もパパジも、サイババも、アーナンダマイー・マーもなくなった今、在命している聖者はアンマしかいないんじゃないかって思ってる」

しまるこ「俺はインドに行く気にはなれないけれども、今度、アンマが日本にやってきたときは会いに行こうと思ってる。そのときは、きみひとさんを誘ってみようと思ってるんだけど」

しのぶ君「はい」

しまるこ「しのぶ君は、アンマには会おうとは思わなかったの?」

しのぶ君「まぁ、そこは、いろいろ繋がってますからねぇ。けっこう繋がってるんですよ。アシュラムに行くと、誰々が誰々のサットサンガに参加したとか、いろんな交流、全体を通して、いろんな聖者の名前が出てくるところがあって」

しまるこ「日本じゃ考えられないことだね」

しのぶ君「ほんとうに、ぜんぜん違いますよ。この国じゃ、どいつもこいつも娯楽に塗れたやつばっかで、ほんとうに、ぜんぜん、神のかの字も出てこない。その違いには驚かされますよ」

しまるこ「だけど、どこまでいっても、日本は偶像崇拝の国ではないような気がする。遠藤周作の沈黙にもあったけど、どうしても、この国はキリスト教文化が根づかなかったらしいね。そういう土地柄らしいね」

しまるこ「およそ、武道とか、〇〇道とかいった、技能芸事を通じて真理を悟ろうとするところはあったと思うけど、あるいは禅とかね。でも、他国のように、神、神、アーメン、アーメン、というふうにはならないみたいなんだよね」

しのぶ君「そうかもしれないですね」

しまるこ「昔は、日本こそが神国だと他国から祀られていたんだけど、当時の日本は、生活そのものを神と見立てていて、とくべつに外に神を求めることはしなかったらしいんだよね。生活することと神が一つになっていた、珍しい国」

しまるこ「ただ剣を振ったり、弓を射たり、お茶を淹れることが、神へと繋がっている。こういうところは、実用性とわけて考える西洋とはぜんぜん異なってる」

しのぶ君「そうですね」

しまるこ「この国は、生活そのものが神を体現することができる国だとは思う。それは、またいつかそういうときが来ると思う。生活そのものに喜びが感じられなくなってしまうような霊的修行もどうかと思うしね」

 

ギーターについて

しまるこ「じゃあ、最近は、どんなふうにして過ごしてる? 家にいるときとか」

しのぶ君「うーん……」

しまるこ「本とか読んでる?」

しのぶ君「今は、ふつうの本は読めなくなりましたねぇ……。本当に、世間一般に流通している娯楽だったり、本とかが、受けつけないんですよ」

しまるこ「『あなたのような出家者は、神がどこにも出てこないような本を読む必要はない』って、ヨガナンダ先生が弟子に言ってたけど、あれは、そうなってくるところがあるかもしれないね。俺も、神が出てこないような本はあまり読みたいと思わないし、読めなくなるところがあるね」

(↑本当は、毎晩、死ぬほどアニメばっかり見ている)

しまるこ「でも、そうやって、神が出てくる本だったり、偉人の本を読んでいても、ギーターだけは違う気がする。今じゃ、そういう偉人が書いた本もあんまり読みたくないんだけど、ギーターだけはことあるごとに読み返したくなる」

しのぶ君「自分もいつも読み返してますよ。仕事で全国飛び回っているときでも、ギーターだけは持ち歩いてます」

しまるこ「本を読むなと言っているラマナ・マハルシですら、ギーターだけはいつでも読みなさいと言ってるからね。ガンジーも毎日読んでいたらしい。おそらく、読むというよりは、肌で感じていたんだろうけど」

しまるこ「ギーターは、あそこに書かれてあるのは、本当に、ぜんぶ、真実だね。最初はそれをすべて真実だと思うところまではいかなかったけど、ああ、ここに書いてあるのはぜんぶ真実だと、本当にそう思えるようになってからは、これ以上の書物はないと思うようになった」

しまるこ「あれは、神がちょくせつ人類に向かって話してくれている、すごい本だと思う」

しのぶ君「ギーターに書かれてある言葉は、あれは、まちがいなく神の声ですね」

しのぶ君「ギーターに書かれてあることは、神を心から信じて、敬愛していなければ、その言葉の真意を理解できないようになっているらしいです。ギーターって読むたびに、理解が変わってくるじゃないですか? それは、その人の神への信仰の程度によって変わってくるらしいです。あそこに書かれてあることは、神を愛していない人間には、何が書いてあるかわからないようになっているらしいです。マーヤー(神の幻想の力)の力が働いていて」

しまるこ「ギーター自身にもそう書いてあるね」

"わたし"を信じ "わたし"を愛して

常に"わたし"に仕える者たちに

"わたし"は見真(ブッディヨーガ)の力を与える

それによって彼らは"わたし"のもとに来るのだ

しのぶ君「なんの確証もないですから。ただ信じることでしかわからないじゃないですか?」

しまるこ「うん」

しのぶ君「本屋に行って、どうでもいいクソみたいな本が並んであるのを見ると、本当に腹が立ってくるんすよ、ギーターだけでいいのに、なんでギーターが置かれてないんだって……!」

しまるこ「(笑)」

しまるこ「確かに」

しまるこ「神がちょくせつこの世界の真実について語ってくれている本をおしのけて、別の本を求めにいっちゃうのはね」

しのぶ君「科学的な実証だったり、そういうものがないと、人々は理解……というか、納得できないんでしょうが。でも、そんなふうに科学で立証されて理解できるものなんて、その程度でしかないような気がしますけどね。それだと、今、立証できていないものは見過ごされたままになるわけじゃないですか」

しまるこ「それでも、一切のあまねく万有をつらぬいている法則そのものが神なのだから、神は科学だと思う」

しのぶ君「そうですね」

しまるこ「だけど、この神を信じる力は、神からきてる。これが、なぜそうなっているかは、神にしかわからないことだけど」

しのぶ君「はい」

しまるこ「聖書は読んでる?」

しのぶ君「読んでないっすねぇ。読みたいとは思ってるんですけど」

しまるこ「俺も読みたいとは思ってるんだけどね。身体が受けつけない(笑)頭では読みたいって言ってるんだけど」

しのぶ君「たぶん、ギーターと書いてあることは一緒ですよね?」

しまるこ「たぶんね」

しのぶ君「でも、聖書も、ギーターからきていると言われているところがあるんですよ。ブッダでさえ、クリシュナ神の生まれ変わりだと一部では言われていて、この3000年間の歴史でも、ブッダも、イエス・キリストも、クリシュナ神が生まれ変わっているだけとも言われているところはありますね」

しまるこ「うーん……、俺も、赤毛のアンを見ていて思ったことなんだけど、キリスト教の教えもインドのヒンドゥー教からきているんじゃないかって思ってね。赤毛のアンってカナダの話なんだけど、アンたちが住んでいるプリンス・エドワード島の人々はみんなプロテスタント系のキリスト教の信者で、日曜は教会に行って、牧師がいて、夜、寝る前に神に祈る習慣があるんだけど、で、その祈りの主祷文を聞いていると、『われらが織りなす大霊よ』と言い出す。これは、自分の正体が霊だということを知っている。とうぜん、自分の正体が神だということもわかってる。客体ではなく主体として神を見ている。彼らがそれをわかって言っているのかはわからないけど、少なくとも、この思想は、東洋からきていると思った」

しのぶ君「たぶん、そうだと思いますよ。もともと、すべての起源を遡れば、インドからきていると思います」

しのぶ君「そこから、それぞれの国に合うように形態を変えていったんでしょうね」

しまるこ「でも、俺は、なんかそこはギーターなんだ。法華経だったり聖書だったり、いろいろあるんだろうけど、俺はギーターがいちばんしっくりくる」

しのぶ君「翻訳は何を読んでます?」

しまるこ「田中 嫺玉さん」

しのぶ君「オレンジのやつですか?」

しまるこ「そう」

しのぶ君「ただ、ギーターは、翻訳や解説によって、意味が違ってくることがあるらしいんですよ。物事ってけっきょく、その人の理解できるレベルでしか理解できないじゃないですか。だから、翻訳者の現在の霊性レベルの範囲でしか書かれていないっていう」

しまるこ「シェイクスピアみたいなもんか。翻訳によって、本来の味がほとんど損なわれてしまっているという」

しのぶ君「そうです。だから、自分はなるべく原典のものを手に入れて、持ち歩いてます」

しまるこ「じゃあ、サンスクリット語なの?」

しのぶ君「サンスクリット語のやつも持ってますよ」

しのぶ君「学校授業も、ギーターを教科書にして、ずっとギーターの解説だけしていればいいと思うんですけどね」

しまるこ「少なくとも、子供時代に、この世界はどういう仕組みになっているのか、それを知ってからスタートしたほうがいいと思うね。アンマが言ってたけど、昔はじっさいそうだったらしいんだよ。昔の学校教育は、子供たちは戸外に出て、大木の下で長老を囲ってギーターを読んでいたらしい。一時間ギーターを読んだら、次の一時間はそれをみんなで黙想する。今でも、ヨガナンダ先生が建てたランチという学校では、そういう教育が行われているらしいんだけど」

しのぶ君「そうなんですか」

しまるこ「昔の日本だって、寺小屋で儒教だとか道教だとかをやってたんだし、俺はこの世界の大本についての勉強をやった方がいい気がする。小、中、高の12年間を、ギーターの注釈に捧げた方がずっといいような気がするんだけどね。ギーターだけを読んで育った子供が、社会に出たとき、どうなるか、だね」

しのぶ君「しまるこさんがギーターを手にしたきっかけはなんだったんですか?」

しまるこ「俺は小川さんから教えてもらった」

しのぶ君「へー! そうだったんですか!」

しのぶ君「小川さん、めっちゃ頭のいい人ですよね」

しまるこ「酔っ払いだけどね」

しのぶ君「そうなんですか?」

しまるこ「そうなんですかって(笑) 酔っ払いじゃん(笑)」

しのぶ君「(笑)」

しのぶ君「でも、めちゃくちゃ頭よくないですか?」

しまるこ「そうだね」

 

 「しまるこさんはどうして性のことばかり書いてるんですか?」

しのぶ君「しまるこさんはどうして性のことばかり書いてるんですか?」

しまるこ「性?」

しのぶ君「はい」

しまるこ「そんなに性のことばっかり書いてた?」

しのぶ君「書いてません?」

しまるこ「ああ」

しまるこ「たぶん、俺がそういうふうにできているからだと思う」

しまるこ「熊谷守一さんも、へたな人はへたな絵を、下品な人は下品な絵を描くのがいいって言ってたけど」

しまるこ「それを聖典の言葉に反するからって、綺麗な言葉、耳ざわりのいいものだけを扱うようになったら、つまんなくなっちゃうんだよね」

しのぶ君「はい」

しまるこ「つまんなくなるってことは、神ではないと思う」

しのぶ君「そうですね」

しまるこ「手塚治虫は、漫画は不満を書くものだと言ってて、岡本太郎は、いやったらしいものだけが芸術なんだって言ってたけど。芸術は、芸術に対して反抗したものだけが芸術なんだと思う」

しのぶ君「もっと、人間的なものなんですかね」

しまるこ「あくまで、人間という未熟な存在が、神と対峙する行為。神に至るまでの奮闘やその過程が文学であり芸術であるっていう論旨はあるんだけど、俺はそうは思えないところがあるけどね」

 

「しまるこさんが悟ろうと思ったきっかけはなんだったんですか?」

およそ、一周500mくらいある森林公園を、俺たちは歩き続けた。なかには、一周のあいだ、何も話さない周もあった。そして沈黙が明ける頃、彼はかならず核心をついた質問をしてくるのが常だった。

しのぶ君「しまるこさんが悟ろうと思ったきっかけはなんだったんですか?」

しまるこ「20歳くらいのときかなぁ、ずっと、心の置き場所がよくわからなくて、すごく気持ち悪かった。ずっと、まとわりついてくる、この心。この心ってなんだろう? これ、いつもあるけど、ここがいつも肝心かなめになっていて、これがすべての起点になっている気がするけど、これをいつもどういう状態にしたらいいんだろう?っていうのを、ずっと考えた」

しのぶ君は、この時点で、ああ、なるほどといったような顔をした。

そのため、これ以上語ることは蛇足だと思われたが、俺はついつい話すのを止められなくなっていた。

しまるこ「だいたい、20歳くらいの頃かなぁ? ちょうど大学に上京して、親元から離れて一人静かな時間を過ごすことが多くなったんだよ。で、自然と自分と対話する時間が増えた。そのとき、ずっと心を捉えて離さなかったのは、その、心の持ちようとして、仕事をしているときとか、人と話しているときとか、ふだん、どこに心を置いておけばいいんだろうって、どうやったらうまい具合になんでも対処できるようになるだろう? どの心の状態が正解だろう? 平常心が大事っていうけど、平常心ってどれだろう?って、いろいろ、いろんな心の状態を試してた。みんな、どうしているんだろう? 心ってこんなにも落ちつきがなくって、曖昧で、不安定で、それでもなんで、みんな生活を送れているんだろう?って、ずっと不思議だった。それは座右の銘みたいな、言葉じゃなくて、もっと生理的な部分で、ピンと、ココ、と言えるような、直感というか、精神的な音階というか、とにかくその定点らしい場所を見つけて安住したかった。そうしなければ、何も始まらない気がしてね。フォームが定まってないのに、ボールを投げ続けている感じがして、ずっと気持ち悪かった。はじめは、心理学の本とかを読んで、頭で理解して実践に努めていたんだけど、どうもそれだと言葉が先行するというか、ほんとうじゃない気がしたんだよね。で、調べていって、いちばん強く思ったのは武道だった。昔の侍の剣豪だとか、そういう人たちの心境が、俺が求めているそれに思えたの。それで、ボクシングをやれば、その攻防の中のうまく対応できている心の状態が、そのまま答えになるんじゃないかって。そして、それを日常生活に応用できるはず。いつでもその心の状態にしておけるようにしようって思ったの。正しい動きを、精神上まぁ、無の境地ってやつか、それがわかるんじゃないかって気がした。まぁ、達人のような無の境地に達することができなくても、傾向としては、ということだね」

しのぶ君「はい」

しまるこ「親友からは、なんで誰からも頼まれてもないのにそんなことやってんの?って言われたけど、俺も、どうしてこんなことをやっているのかわからなかったけど、今は、神の恩寵だと思う」

しのぶ君「そうですね」

しまるこ「しのぶ君は?」

しのぶ君「自分は、15歳くらいの頃から、けっこう、宇宙の仕組みとか、どうなってるんだろうと思ってて。学校でも、授業だとか、このやっていることが、いったい何の意味があるんだろうと思って、高校にも、自分、行かなかったんですよ」

しまるこ「言ってたね。そんなこと」

しのぶ君「はい」

しのぶ君「で、その頃、ひどい坐骨神経痛にかかっちゃって。本当にあまりにもひどくて、歩けなくなっちゃったくらいだったんですけど。そういうこともあって、毎日、その頃は、家に引きこもって、死にたい、死にたいって思ってました。ずっと死ぬことしか考えられなくなってたんですよ。それで、救われたくて、日本中の精神世界の大家と言われるような人たちに会いに行ったんですよ(笑) なんとかその痛い足を引きずって(笑) で、いろんな人たちに会っている中で、ある人に言われた言葉なんですけど、『お前な、死んでも結局ここに戻ってくることになるんだぞ』って」

しまるこ「……」

しのぶ君「べつに、そんな言葉信じなくてもよかったはずなんですけど、自分はそれが真実のように思えたんですよ」

しのぶ君「マジかよ、ふざけんな〜と思って(笑)」

しのぶ君「めっちゃ死にたかったんですけど。だけど、これまた戻ってきてやり直さなきゃなんねーのかよ! もう二度と、こんな思いしたくないのに、死んでも逃げ場がねーのかよ!って」

しのぶ君「もう二度と、この地上に戻ってきたくないんですよ」

しのぶ君「マジで、もう一回、人生やるとか、本当に嫌です」

しまるこ「うん」

しまるこ「俺も」

しのぶ君「もう、今世でぜんぶ終わりにしたくって。あとは天上界で輝く星となって、さんぜんと輝いていたいです(笑)」

しまるこ「俺も(笑)」

しまるこ「ラマナ・マハルシが言うには、自殺すると霊格が下がった状態でやり直すことになるってあるからね」

しのぶ君「そうなんですよ。また、人間に生まれてこれるかもわからない。今度は、牛や猫として生まれてくるかもしれない。仮に、もし、また、人間として生まれてくることができたとしても、今度は神を知ろうと思える人間になるとは限らない。今、右を見ても左を見てもそんな人間がいないように」

しのぶ君「何とか、過去生の徳を積んできて、やっとここまでこれたのに、それを全部パーにしてしまうのは、過去の自分に申しわけない気がして」

しまるこ「本当だよ」

しまるこ「俺も、39年間の人生で、たくさんの精神活動があったけど、もういいかな」

しのぶ君「それから、インドに行って、ヒマラヤに登ったりしてました。そして、日本に帰ってきて、それからも、いろいろ精神世界のことを調べたりしていて、ちょうどそのとき、しまるこさんのブログにたどり着いて、しまるこさんのブログでギーターも知りました」

しまるこ「そうだったんだ」

しのぶ君「はい」

しまるこ「ギーターには、"わたし"たちの会話を信者に伝えることは、"わたし"に対して無上の奉仕をしたことになる、と言っていたから、俺もバクティ・ヨガを果たせたことになるかもしれない」

だが 信仰あつき人々に対して

この秘密の知識を語ることは

"わたし"へ無上の奉仕をしたことになり

その人は必ず"わたし"のもとへ来る

しのぶ君「変な生き物に転生したら嫌だなって。しまるこさんもブログに書いてなかったですか? 猫に生まれたくない、猫は最悪だって」

しまるこ「そんなの書いたっけ?」

しのぶ君「はい」

しまるこ「いや、俺は猫はべつにいいと思う。むしろ、猫は評価しているよ。犬はちょっと人間みたいな目をしているね。まわりを気にして機嫌をうかがっている感じ。レオナルド・ダヴィンチは、『猫は動物の最高傑作である』と言っていたけど、猫は俺もとくべつ優れていると思う。化け猫という言葉は聞くけど、化け犬という言葉は聞かない。ひとつ霊的な、それでいて、自由本位な、あのわがままさは、生き物として、人間の足りない部分を補い余って持っていると思う」

しまるこ「初めは、悟りたい、悟りたい、悟ろう、悟ろう、として、神のことを考えていたんだけど」

しのぶ君「はい」

しまるこ「今は日がないつでも神のことを考えてる。たぶん、それは、神がそうさせているんじゃないかと思ってる」

しまるこ「『霊性生活に入ることによって、何事も人生は好転してくるだろう』というスリ・ユクテスワ氏の言葉があるんだけれども、本当にそれはつくづく思う。今、生活においてまったく満ち足りている。ほんとうに嫌なことが何ひとつない。自分の心の綺麗さにしたがって、出会う人や起こることも美しいことしかない。どこで出会う人もいい人しかいないし、いいことしか起こらない。この地上での生活も悪くないかもと思っているところでもあるんだけどね」

しのぶ君「そうですか」

しまるこ「うん。身の回りにいいことが起こるようになったといえば、俗的な言い方になっちゃうんだけど、それよりも、ふだん、毎日、いつでもいい気分でいられるようになった。なんでいつもこんなにいい気持ちでいられるんだろう?と不思議だったんだけど、よくよく調べていたら、ああこれは神の愛からきているんだということがわかった。たぶん、俺が神のことを考えているから、神も俺に愛を注いでくれてる。だけど、これは、仕向けているのは神の方で、神が俺に磁力でもって、そういうふうに仕向けているのもわかってる」

しまるこ「だけど、じっさいには、この恩寵の光はすべての生き物に注がれていて、それが届くかどうかは、受け皿の方が、心を開く度合いによって、浸透するんだと思う」

しのぶ君「はい」

しまるこ「この世界が神であり、神は愛なのだから、当たり前のことだと思う」

しまるこ「本来、与えられている人生とは別に、自分がこうありたいという願望や欲望の落差で苦しくなってしまうんだろうね。だから、自分の人生をありのまま受け入れることを決めた。なんであれ、起こることは起こる。起こることは起こるのだから、ジタバタするのはやめにした。そうしてからは、不安も迷いもなくなった。さぁ、今日は何が起こるか見てみようという気持ちでいつもいる。そして今日はしのぶ君と出会った」

しのぶ君「(笑)」

しまるこ「わかりっこないよ、こんなことは(笑)」

しまるこ「今日だって、なぜこうして、しのぶ君と会っているのかわからないんだから。どうがんばって予想してみせたところで、いつだって後になってみると、当初に自分が思い描いていたことよりも遠大だったことがわかる」

しのぶ君「そうですね」

しまるこ「だからあんまり考えない方がいいんじゃないかって。自分が思っているより、ずっと素晴らしいものを用意してくれているから、安心してこの船に乗っていようと思う」

 

食事について

しまるこ「食事は今、どんな感じ?」

しのぶ君「自分は、今はいろいろっすね。うまくいってるときはうまくいってるんですけど、たまに変なものを食べちゃいますね」

しのぶ君「変なものを食べると、身体がおかしくなってきません?」

しまるこ「なるね。食べると、なんか身体も頭も重たくなってくるね。ボーッとしてきちゃう。それで眠たくなって、食って寝て食って寝て、で、ほんとにそれで人生終わっちゃうなぁと思ったわ」

しまるこ「今、玄米も高いね。5kgで6000円とかするからね」

しのぶ君「生で食べれば減らないから、痛くも痒くもないんすけどね」

しまるこ「食糧難の時代は来るって言われているけどさ、俺はこれだけ大量に食品が余って捨てられている光景を見るたびに、ぜったい、この光景は長くは続かないって確信するように思う」

しまるこ「いつまでもこんな飽食が続くとは思えない。どちらにせよ、どんな形であれ、強制的に節食は余儀なくされるようになると思う」

しのぶ君「自分も、食糧難の時代にあわせて、できるだけ生の食べ物を食べるようにしておこうと思ってます。玄米も、生でボリボリ食べれば、大さじ、2、3杯で腹一杯になりますもんね?」

しまるこ「なるね」

しのぶ君「生玄米をいつも持ち歩いて食べるようにしていたんすけど、けっきょく、食べないんすよね」

しまるこ「生は、俺も2週間くらいでリタイアしちゃうんだよね。けっきょく、火食に戻っちゃう。無理をすると、食べ物のことばかり一日中考えちゃうから、無理がない範囲で、心を煩わせることなくやっていける範囲が望ましいと思って、それが一日一食の玄米一合、昆布、梅干し、大根おろし……といった感じ」

しのぶ君「それに納豆つけてる感じですか?」

しまるこ「納豆も、まぁ、そうだね」

しのぶ君「今は塩分摂ってないんですよね?」

しまるこ「うーん、けっきょく、梅干し食べてるんだよなぁ」

しのぶ君「ああ」

しまるこ「けっきょく、血液の状態をアルカリ性にしておけばいいかなって」

しまるこ「筋肉より骨、骨より血液というふうに、もっと細胞単位で身体の核となるほうへ近づけて考えていったとき、いちばん重要になってくるのは血液だと思う。筋肉も骨も血液内の細胞交換によって作られているわけだし、血液をどうしたらいいかというと、やっぱり弱アルカリ性を維持することにあると思う。やっぱり血液が酸性になってくると、心の状態も悪くなってくるね」

しのぶ君「玄米も酸性ですからね」

しまるこ「梅干し一つや、たった数センチの昆布を食べるだけで、すごい量のアルカリ性になるらしいから、一合の玄米に、ちょっと野菜や海藻を加えているだけだよ」

しのぶ君「肥田先生もレタスをちょっとだけ食べていたらしいですもんね」

しまるこ「そのアシュラムでは、どんな食事をしてるの?」

しのぶ君「食べ物は、そうですね、インド人はインドのものを食べているんですけど、やっぱり日本人は日本のものを食べたほうがいいということで、自分は玄米とか、味噌とかを食べています」

しのぶ君「ブラマチャーリ達は、油を使った料理なんかを食べたりしていますけど、みんな、食事をする前に、食べ物を神に捧げるようにして、浄化してから口にするようにしています。そうすれば、ラジャス(魔族的なもの)な食べ物でも、ラジャスでなくなると言われていて。まぁ、いうほど、ラジャスな物を食べているわけじゃないんですけどね」

しまるこ「ギーターにもそう書いてあったね」

しのぶ君「ただ、肉を食うのは禁止されてますね。自分のアシュラムでは、肉を食うだけでなく、肉を運んだり、届けたり、といった、そういう流通に与することも禁止されていて、それでウーバーをやめたところもあったんですけどね。まぁ……、今の仕事も、物質的っていえば、物質的ではあるんですけど」

しまるこ「ギーターには、物質次元の仕事に加担しないようにしなさいって書いてあったね」

しのぶ君「はい」

しまるこ「でも、同時に、って書かれてある」

しのぶ君「はい」

そもそもの根本の決定が正しいから

しのぶ君「しまるこさんは?」

しまるこ「出前館? わかんない、バカな仕事だと思ってるよ。でも、身体が勝手に動くから。慣性の法則に従ってるだけ。他のはぶつかって動かなくなるんだけど、出前館だけは動くの(笑)」

しのぶ君「(笑)」

しのぶ君「その、アシュラムの長が言うには、動物はそれ自体の生を、神に向けて次なる生物進化のためにその生をまっとうしなければならないのに、それを殺して食うということは、その罪を背負うことになるらしいです。ほんらい、かの時代では、動物の命を奪うことは、供養といって、その動物の転生のタイミングを見極めることができた当時の聖職しか許されなかったそうなのですが。生きとし生ける、すべての生き物は、人間に生まれて神を見出すために功徳を積んでいるのであって、それを他者が勝手に終わらせることは、その動物のもっていた罪をそのまま引き継ぐことになってしまうらしいんです」

しまるこ「ギーターにもそんな記述があったね。味覚のために食べているのは、罪そのものを食べているとか、あれはどうしても意味がわからなかったけど」

しまるこ「じゃあ、そんなふうに全国飛び回ってばかりだと、外食が中心になっちゃうんじゃない?」

しのぶ君「ほとんど外食ですよ」

しまるこ「あー、それで、生玄米を持ち歩いているとか言ってたのか」

しのぶ君「そう。でも今は持ち歩かなくなりましたね。けっきょく食べないし」

しまるこ「じゃあ、外食は、何を食べてるの?」

しのぶ君「米と、味噌汁って感じですかねぇ」

しまるこ「玄米?」

しのぶ君「玄米……にしたいんすけど、玄米取り扱ってるとこ、なかなかないじゃないですか」

しまるこ「ないね」

しのぶ君「すき家とか、適当なとこ入って、余計なものは注文せずに、米と味噌汁だけ頼んでいる感じですね(笑)」

しまるこ「(笑)」

 

「 もう、起きているあいだはずっと仕事っすね」

しまるこ「じゃあ、自分の時間ができたら、どんな生活したい?」

しのぶ君「バクティ……、奉仕活動をしたいですね。あと、執筆もしたいと思ってます」

しまるこ「執筆?」

しのぶ君「中学の頃は文章を書いたりしてたんですけど」

しのぶ君「しまるこさんは、いつから文章を書いてるんですか?」

しまるこ「今、6年になるね」

しまるこ「俺も、33歳までは書いたことはなかったよ」

しまるこ「仕事してると書かないからね。仕事やめてから書くようになった。やめた部分に入ってきた感じ」

しまるこ「今のしのぶ君のように、スケジュールがキツキツに詰まっていると、なかなか新しいことは始められないかもしれないね。うちの親もそうなんだけど、定年になって、子育ても終わって、自分の時間ができてから、パン作りを始めたり。いったん、全ての行動をやめてみると、そこに新しいものが入ってくるところはあると思う」

しのぶ君「今の仕事を辞めるか、少なくして、もっと霊性修行に打ち込みたいんですけどね」

しまるこ「俺もそれはブログの読者によく言われる。あなたのように仕事をせずに霊性修行をしていられる時間がうらやましいって」

しまるこ「いるんだね、この国にも、そんな連中が」

しまるこ「まぁ……、さすがに、しのぶ君、ちょっと寝てない顔しているからねぇ……」

しのぶ君「寝ないのは別にいいんですけど、自分の時間がないのがつらいっす」

しまるこ「しのぶ君は上級ミニマリストだし、ほとんど生活に金はかからないんじゃない? 実家暮らしだし」

しのぶ君「ぜんぜんかからないっすね。金を貯める必要も、本当はそもそもないんすけど」

しのぶ君「聞いたことありますか? 神に使役する者は、最終的に物質的な利益はぜんぶ取り上げられちゃうらしいですよ(笑) だから、こうして金を稼いでも、けっきょくぜんぶ吸い取られちゃうっぽいんですけどね」

しまるこ「それで神が手に入るなら安いもんな気がするけど」

しのぶ君「安いもんっすね」

このとき、しのぶ君は毅然とした表情で言った。

しまるこ「でも、猫を見つけられるなんてすごいよ。俺、ぜったい見つけられないもん(笑) そういう、マニュアルがあるのか知らないけど、猫を見つけろって言われて、俺、最初、何から手をつけていいかわからないもん(笑)」

しのぶ君「(笑)」

しまるこ「誰でもできる仕事じゃないと思うから」

しのぶ君「そうっすね」

しのぶ君「だから、ウーバーやってたとき、こんなくだらないものを運んだり届けたりしていることが、物質的な悪事に加担している気がして、すごい嫌になってきてやめちゃったんですよ。金はすごくよかったんですけど」

しまるこ「しのぶ君の地域じゃ金もいいだろうね」

しのぶ君「しまるこさんは、どうですか? 出前館やってて……。まぁ、別にいいんすけど……」

しまるこ「俺も、マジでくだらねーって思ってるよ。ゴミがゴミにゴミを送り届けているだけ。こうやってまた一つ道路にゴミをばら撒いているんだなって、いつも思ってる。しかも、出前館で稼いだ金って、なんか、保険とか、事故とか、バイク代やガソリンで、なんらかの形でぜんぶ消えていっている気がする。なんか、あんまり、手元に残っている気がしないんだよねぇ……(笑)」

しのぶ君「(笑)」

しまるこ「でも、ほかのどんな仕事をしていても、身体がぶつかって動かなくなるんだけど、出前館だけはスーッと動くから、やってる(笑)」

しのぶ君「(笑)」

 

「 ブログに書いてあった、『放心を最上とす』の記事は、あれはどういう意味なんですか?」

しのぶ君「ブログに書いてあった、『放心を最上とす』の記事は、あれはどういう意味なんですか?」

しまるこ「あれは……」

俺は不思議に思った。あれだけ神について書かれてある記事の中で、どうしてしのぶ君はこの記事について尋ねてきたのか。彼の中でどこか思うところがあったのか。

しまるこ「『信心銘』って知ってる?」

しのぶ君「し……?」

しまるこ「あの記事は、『信心銘』を読んでいて思ったことだったんだけど」

しのぶ君「し……、え……?」

しまるこ『信心銘』……しらない?」

しのぶ君「はい」

しまるこ「パパジは『信心銘』を最高の悟りだと言っていて、神について考えないことが最高の帰依であると言ってるんだけど」

しまるこ「ギーターにも、『アルジュナよ もう何も考えるな』というセリフがあるように」

しまるこ「本当のところでは、神について考えることさえ余計なんじゃないかって。それについて考えているときは、やっぱり過去に属するから」

しのぶ君「ババジの教えはぜんぶ目を通したつもりなんですけど」

しまるこ「俺もパパジは好き」

しまるこ「パパジの書いた本はよく読んでる」

しのぶ君「自分もです」

しまるこ「このサイトは、よく読み返してるよ」

しのぶ君「インドで付き合った彼女も、ババジのアシュラムで知り合ったんですよ」

しまるこ「そうなの!?」

しのぶ君「はい」

しまるこ「本当に、いろいろ繋がってるもんだねぇ〜!」

※おそらく勘違い。しのぶ君は『ババジ』について語っていたと思われる。

しまるこ「『信心銘』、ブログに貼り付けておくよ」

しまるこ「『神に集中しなさい、結果を求めずに自分の仕事をしなさい、それがあなたのやるべき全てである』とラマナマハルシが言ったんだけど」

しのぶ君「はい」

しまるこ「神にすべてを明け渡すことが放心なんだと思う。そうなってくると、何も残らない。神を想うことさえなくなる。過去の神に生きるか、現在の神に生きるかという違いだと思うんだけれども」

 

 ちょっと曲がろうかと言った。

しのぶ君「しまるこさんは、悟りとはなんだと思いますか?」

本当に、実直な質問しかしてこない男である。

しまるこ「俺は、人は、本当のところでは悟ってると思う。ただ、悟ってないと思っている自分がいるだけで、自分が存在していると思っているから、存在していると思っている自分のためにおかしくなっているだけだと思う」

しまるこ「本当は、すべてのいきものが、宇宙創世によって放たれた光が、今も放射線上となって伸びているだけで、太陽系の惑星らの進行と同じように、すべてのいきものは、物質のもつトリグナからくる推進力によって動かされているだけだと思う。でも、それは無数の星々がぶつからないで運行しているのと同じように、人間も同じ力で完全にコントロールされている。本当のところは、その推進力にしたがって、ただ運動が起こっているだけなのだと思う。その運動の上に、自我が上乗せになっちゃってるだけなんだと思う」

しまるこ「どこからか、自我というもの、自分ではない自分というものを作り出してしまって、それを自分だと思っていることに、不幸があるような気がする」

しまるこ「しのぶ君は?」

しのぶ君「自分も、同じ……感じですかねぇ」

しのぶ君「神に明け渡すことだと思ってます」

「きっとまた、神の縁があれば会うでしょう」と俺は言った。

「ハハハ!」としのぶ君は笑った。

ちょっと曲がろうかと言って、俺たちは公園を出た。

「しのぶ君はこれからどうするの?」

「自分はセリアに向かいたいと思います」

「セリアに猫がいるの?」

「いえ、ちょっと入り用があるので」

なんだろう、投げ縄とキャットフードでも用意するんだろうか?

俺たちは大橋を渡って、カフェの方へ歩いていった。

空いている駐車場を気持ちよく踏破していくと、瞬く間に店の前まで着いた。

「じゃあ」

「はい」

「また」

「はい、また」

しのぶ君はクシャッとあどけない笑顔を見せると、その大きな瞳を輝かせた。そして猫のようにヒョイっと跳ねて、タリーズ外の街路樹のあいだをすり抜けていった。

 

『信心銘』

大いなる道は難しくない
選り好みをせず
愛することも憎むこともなければ
すべてははっきりと明らかになる

だがわずかでも分別をすれば
天と地は遙かに隔たる
真理を実現したければ
賛成や反対の見解を抱いてはならない

一つを嫌い一つを好むことは
心の病だ
物事の本質を理解しないとき
心の平和は徒に乱される

道は大いなる虚空のように完全で
欠けたところも、余分なところもない
ただ取捨選択するために
物事の本質を見極められないだけだ

外界に巻きこまれてはならない
空という概念にもとらわれてはならない
物事と一つになって、ただ静かにしていなさい
そうすれば誤った見解はひとりでに消え去る

心の活動を止めようと努力しても
その努力がさらなる活動をもたらす
対極の一方を選んでとどまるかぎり
一なるものを知ることはできない

一なるものを知らなければ
静動、正否ともにその自由な働きを失う
物事の現実性を否定すればその現実性を見失い
空の概念にしがみつけば空の原理を見失う

話せば話すほど、考えれば考えるほど
ますます真理から遠ざかるばかり
話すことも考えることもやめなさい
そうすれば知り得ないものは何もない

根源に帰れば本質を会得する
だが現れを追いかければ源を見失ってしまう
一瞬にして悟れば
現れも空も、ともに超越される

空の世界に起こる変転変化を
無知ゆえに人は実在と呼ぶ
真理を追い求めてはいけない
ただ相対的な見方をやめなさい

二元的な分別にとらわれて
現れを迫ってはならない
わずかでも是非を区別すれば
心の本質は失われてしまう

すべての二元対立は一元から生じるが
その一元にさえ執着してはならない
心が生じなければ
世界が背くことはない
何も背くことがなければ
すべてはあるがままだ

分別心が起こらなければ、心は存在をやめる
主体である心が消えれば、対象も消え去るように 想いの対象が消えれば、想う主体も消え去る

物事(対象)は主体(心)が存在するために対象となる 心(主体)は物事 (対象)が在るためにそのように在る
その二つの相関関係を理解しなさい
その根底にある実在は一つの空なのだ

この空は相対を排斥せず
すべての存在を差別のまま包みこむ
粗雑と精妙を区別せずにいなさい
そうすれば偏見に陥ることはない

大いなる道に生きることは
易しくも難しくもない
だが視野の狭い人は恐れ疑い
急げば急ぐほど遅れてしまう

真理に執着すれば度を失い
悟りという概念にさえ囚われて道に迷う
すべてを放てば自然となり
来ることも去ることもなくなる

あるがままにまかせなさい
そうすれば悠々自適に生きていける
想いを働かせば、真理は隠され
想いを止めれば、暗く澱んでしまう

有念も無念も徒に精神を疲れさせるばかり
そのどちらを好んでも避けてもならない
一なるものを求めるなら
感覚や思考さえ嫌ってはならない

感覚や思考を完全に受け入れることは
真の悟りと同じなのだ
賢者は目的を求めて努力しない
愚者は目的を求めるために己を縛る

法(存在、現象)は一つであって多数ではない
区別は無知の愛着から生じる
心をもって真理を求めることは
最大の過ちだ

迷えば安心や不安が生じ
悟れば好きも嫌いもなくなる
すべての二元対立は
自己中心の分別から生じる

それらは夢まぼろし、空中の花
つかもうとするだけ愚かなこと
得も失も、是も非も
すべて一度に放り出してしまえ

もし心眼が眠らなければ
すべての夢は自然に止む
心が分別をしなければ
存在は一なるものとしてあるがままに在る

この深遠な神秘を理解すれば
すべてのもつれは解きほどかれる
千差万別の存在が平等に見られれば
あるがままの自然の姿に帰りつく

この原因も関係性もない状態では
比較も類比もできない
動を静と見なし、静の中に動を見なさい
すると動も静も消え去る

二元性が存在しなければ
一なるものも在りえない
この究極の境地には
どんな法も描写もあてはまらない

道と一つになった平等な心に
自己中心的な計らいはない
疑いも恐れも消え
真理を信頼して生きるのだ

束縛を一撃で断ち切り自由になれば
印象はとどまらず、記憶すべきこともない
すべては空、明らかにして自ずと輝き
心を用いることもない

想念、感情、知識で推し量れない
このあるがままの世界には
自己もなければ他己もない

この実在と調和の内に在るには
ただ「不二」と言うがいい
この「不二」の中ですべては等しく
すべては包みこまれる

世界中の賢者たちは
この根源的真理を体得している
真理は時を超え
絶対の今の一念は、そのままで永遠なのだ

ここも空、そこも空
だが無限の宇宙は常にあなたの目の前に在る

極大と極小は異ならない
境界を忘れ去り、区別を消し去れば
存在も非存在も同じこと

そうでなければ真理とはいえず
守るべき価値もない

すべては一つ
一つはすべてだ
このように悟るなら
不完全を思い煩うこともない

この真理を信頼し生きることが不二の道である
不二と信頼は一体なのだから

道は言語に絶している
そこには昨日も明日も今日もないのだ

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