この世界が因果応報の禍によってできていることは、まだ、皆さんも本当のところでは信じられないかもしれない。
皆さんはまだ信じられないかもしれないが、道路で危険運転をして、対向車をヒヤっとさせてしまっただけでも、その禍の責任をとるはめになる。
職場で嫌な人間がいても、復讐は行わなくてもいい。心の中でも憎んではならない。そんなことをすれば、じぶんの方が神に裁かれてしまう。
神が代わりに裁きを与えてくれる。
聖書にも、「復讐は”わたし”がおこなうのである」とある。
もしここで神にかわって裁きを与えようとするなら、その人自身が神に裁かれてしまうことになる。
不当なやり方で、金を稼いだり、なにか功を奏したとしても、後になれば、かならずその罪を清算することになる。
それは、2年後かもしれないし、10分後かもしれないし、来世かもしれない。が、一つ言えることは、かならずその罪は精算されるということだ。神が自分のつくった法律を守らないはずがない。
この原理を知っていれば、人は悪いことはできなくなる。
いまだにエックスでは罵詈雑言があふれているけれども、たとえその一口でも、誰かを中傷したり、非難したりすると、かならず、その報いを受けることになる。
彼らは無知であり、自分自身を傷つけているのだ。
神の愛のもとに悪いことをしないのが望ましいが、それができないうちは、神の見えざる法律のために控えるでもいいだろう。
とくに神は、生き物を傷つけることに関しては厳しい。
それは、自分自身を傷つけていることに他ならないからだろう。自分をぶてば自分に痛みがかえってくる、当たり前のことだ。
自分の心が不当に傷つけられることに対して、われわれはやたらと怒りを覚えるものだが、そういうときは、自分が傷つけられたことに対して怒っているよりも、『こんなことはぜったいにあってはならない!』という、理不尽に対しての義憤からきているところが大きいように思う。
人々はいつも正義感に駆られていて、その正義のもとにやたらと執行しているものだけど、それは神が行うのである。芸能人の不倫だろうが、もしそれが悪いことであれば、神が粛清している。世の中ではこの通り神がパトロールして断罪してまわっているから、われわれのすべきことはなにもない。
だが、神は行為よりも心を見ている。見返りを期待した行為はすべて神に見透かされていて、偽善はもっとも神の嫌うことである。
どうして、これらのことがわかるかというと、見真(ブッディ)の力からきている。
これらの見えざる神の法則を知るに至ったのは、このブッディのおかげである。けっして僕の能力ではない。神を信じた分、神を愛した分、この力が授けられ、ここにも因果応報の法則が働いている。
人を愛せば、愛がかえってくるように、神を愛せば、神の愛がかえってくる。
じつのところ、すべての知性、能力はここからきている。
このように、人々は能力を欲しようとするけれども、神を愛することが近道である。