霊的修行

神は人間に何をしてもらいたいだろう?

人間はいつも努力しているけど、神は人間に努力してもらいたいと思っているのか?

神にとって、人間の努力とは、何を指すのだろう?

いわゆる、われわれの努力というものは、たいてい成功するためのものである。夢を叶えるため、金を得るため、生活を豊かにするため、好きなことで生きていくため、まぁだいたい、そういう方面で努力して、前進しようとしているわけだけれども、そこには、たいてい競争が生まれる。他人より優位に立ちたい、勝ちたい、負けたくない、上に立ちたい。たいてい努力というものは、こういうところに結びついている。だが、神を愛すること、隣人を愛することにおいては、競争というものはない。いわゆる愛において、競争というものはなさそうである。

 

そもそも努力とはなんだろう? 

この世界のすべてが神として、それ(努力)をされて、神は嬉しいのだろうか? そんなに汗水をたらして、でかい家を建てられたり、カードゲームをされたり、ノーベル化学賞を取ったり、そんなふうに毎日を切磋琢磨している人間を見てどう思っているだろう? 自分はこんなに愛しているのに、自分の方をこれっぽっちも見てくれない、少しくらいは、こっちを見てくれてもいいんじゃないかと思っているだろうか? そんななかで、自分の方を振り向いて感謝してくれる人間がいたら、そっちのほうに恩寵をプレゼントしてあげたくなるのが神意というものだろうか。

もし俺が神だとしたら(神なのだけれども)、はたして人間に何を期待するか? ということである。

全知全能の神にとって、人間から送られて喜ぶものなんてあるのだろうか?

じゃあ、あるいは、ベジタリアンになったり、中国のお寺の年間パスを買って、毎週土曜日にお寺に行き、全ての仏像を膝と頭の額を地面につけて拝んだり、素食の麺を食べて、「今日の修行はとりあえず、済んだ。」とわずかな安全感を背負ってお寺を去り、極楽浄土に行くには、修行しかないと信じてあらゆる努力を惜しまないことを、神は嬉しく思うだろうか?

 

神だとして、人間に何をしてもらいたいだろう? 何を努力してもらいたいだろう? とくに何もない。しいて言えば、愛してほしい気がする。

誰もが愛し愛されることをいちばんに望んでいるが、神でさえそうなのではないか。だから、この世における最大の二大書物においても、それがいちばんに書かれているんじゃないだろうか。

ギーターにいちばんに書かれていることは神を愛するということ
聖書にいちばんに書かれていることは神を愛するということ

ヨガナンダ先生の言うとおり、「神は神を選ぶものを選ばれるのです」という言葉にも納得がいく。

以前、とある読者に、「神だって私のような神を信じようとしない可愛げのない男よりも神を愛している信者の方が可愛いに決まってます」と言われたことがあるが、俺は確かにそれはあると思う。なぜなら俺が神を愛した分だけ、それ以上のものが返ってきている実感があるからである。

因果応報を信じていた私は、すべて自分の力で修行を通して得るものだと思っていた。しかし、聖書はそうではないという。イエス様はすでに、私たちのために死んでくださり、新しい命を与えてくれた。それに変わるどんな人間の努力も神様は必要としない。ただ、神と人を愛すること、それを神様は私たちに求めているのである。

『36「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 38これがいちばん大切な、第一のいましめである。 39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」』  マタイによる福音書 22

神様を愛し、それゆえに隣人を愛すること。それが私たちクリスチャンにできる全てなのである。それは、神様からの愛を稼ぐことでも、隣人から苦行を通して愛をもぎ取るものではない。愛は、神様から注がれるのである。

神はあなたのすべてを知っている 

俺は出前館をやっているとき、はたしてこの努力は神が必要としているのか? と疑問に思うことがある。ボクシングをやったり、変な執筆をしたり、誰かに勝つためにやっている努力というものは、それは神が必要としているかといったら、はなはだ疑問に思うところがある。だが、神を愛することと隣人を愛することにおいては、ほとんど100%、神が必要としていることは言い切ることができる。

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