霊的修行

努力をやめちまうかな

解脱を求める者は既に三界に対する関心を失っているのだから、一体なぜ努力することがあろうか? たとえ空腹に苦しんでいようとも、毒を食べたいとは思わない。いわんや美味しい食べ物によって欲望がなくなってしまった人は、馬鹿でないかぎりそれを知りながら食べたいとは思わない。シャンカラ

およそ幸福の為に望まれた獲得なるものは、自分自身の為であるとはいえ、結局は、幸福とは反対のものとなる。シャンカラ

外界に触れて生まれる喜びは、悲しみの源泉である。喜びにははじまりとおわりがある。賢者はこれを喜ばない。クリシュナ

身体とその恐れ。天国と地獄、自由と束縛。すべてはただの作り話。

何ひとつ存続しない。何事ひとつ実在ではない。

すべては苦しみ。果てのない三重苦だ!まったく何の価値もない。

これを知りなさい。すべてをあきらめなさい。そして静かに在りなさい。

世界はただ偽りの印象の集まりにすぎない。あきらめなさい。幻を手放しなさい。世界を手放しなさい。そして自由に生きるのだ。

富や快楽を切望し、そのために競いあう。それらはあなたの敵なのだ。美徳を装って現れ、あなたを破壊しようとする。すべてを明け渡しなさい。何ひとつ、つかんではならない。

あらゆる幸運、妻や友や家や土地、贈り物や富といったすべて…それらはひとつの夢。手品師の芸。旅回りのショーでしかない。二、三日もすれば消え去ってしまう。

よく考えてみなさい。どこであれ、欲望があるところには世界がある。確固たる無執着であなた自身を欲望から解き放ちなさい。そして幸福を見いだしなさい。

幾生にもわたって幾つもの異なった身体を通して、さまざまな快楽にあなたは身を任せてきた。息子や王国や妻たち。

結局はすべてを失うにもかかわらず。

快楽の追求はもうたくさん。富も美徳ももうたくさんだ。世界という暗い森の中でそれらがいったいどんな心の平和をあなたにもたらすというのか?

幾生にもわたってあなたは骨の折れる仕事にこつこつと精を出し、身体と心と言葉を苦しめ、押さえつけてきた。

もうじゅうぶんだ。やめなさい。今!

アシュターヴァクラ・ギーター

思うに、幸福とはなんだろうか? と考えたとき、俺はそれは心の状態だと思う。

何かを得て手に入れた幸福は、それを失ったとき、またなくなってしまう。

幸福が、このように相対的な代物で、来ては去るものだとするのならば、いったい、どうして、追い求める価値があるだろうか。

では、幸福が絶対的なものだとしたら、その、"絶対"とはなんだろう?

絶対というのは、自分自身。けっして離れていかないもの。唯一それだけがあるもの。身体ですら絶対ではないだろう。腕が一本とれても私たちは生きていける。心臓移植だってできてしまえる。

いろいろ端折ってしまって申し訳ないが、私たちの正体は神であり、神は愛であるのだから、存在そのものが至福であることに他ならない。それゆえ、私たち自身の中に幸福があるのだ。それゆえ、幸福は絶対的なものであり、来ては去っていくものではない。存在が幸福なのであり、自分の正体が至福であるから、自分の正体でいることが幸せということになる。

だから、自分なのだ。自分以外の、別のものを求めて、外に出かけていってしまうから、不幸が起こるのだと思う。

それゆえ、静かにせよ。

静かに、自分の本性に安住せよ。

と、聖典は言っている。

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