霊的修行

同一人物だっちゅーの! (・)(・)

どうも世の中にはまだ人間が個別に存在しているという思い込みで生きている人間が多いらしく、その人間という言葉の通り、なぜ人という言葉だけにとどまらず、『人間』なんて言葉が生み出され、今もかくもこの言葉が一人歩きしてわれわれの生活に浸透し強く根付いているのは、それがやはり答えだからだろう。

モネの睡蓮の方が、ピカソのアヴィニョンの娘よりも勝っているとか、いやいやそんなことはないだろうなんて議論に花を咲かせたところで、結局それだって同一人物なのである。神が右手によってアヴィニョンを描いて、左手によって睡蓮を描いているのであって、ピカソもモネも同一人物であり、ただの神の道具なのである。石もあれば、木もあれば、あるいはそのまにまにを漂うアゲハ蝶がいて、ただ世界をばえさせるために、多彩を用意したにすぎず、描いているのは神ただ1人、ピカソもモネも石も木もアゲハ蝶も存在していない。

この世には、ただ1人、ただ1つの実在しか存在していない。一見、見かけ上は、肉体において個別に分かれているように見えるから、個別の生物が存在しているように見えるけれども、それは肉眼のなせる業である。目で見えているこれらはそのとおり表面上の現象に過ぎない。

われわれ人間は思考しているようで、その考えだっていったいどこからきているのだろうか? 結局いろんな考えが四六時中飛び交って、頭の中にごちゃごちゃ流れているけれども、考えるなんていうのは、さまざまな外部的、内部的な刺激に脳が反応しているだけであり、われわれの脳は受信機としての用しかなさず、自力でおのずと考えるなんてことはできない。ただ、去来しているものに従って動いているだけである。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言って、確かに上下関係なんてものは霊的な意味ではない。社会的な意味であっても本当はない。なんやかんやで必要だから、その人間がその場所に配置されているだけであり、それだってその人の意志でおかれているわけではない。どうしたって何をしたって、その位置でその仕事をやらされるハメになるだろう。だから人間において上下なんてものは存在しない。それぞれが神の入り用で神の思惑にそって置かれているだけである。その中の一人が、もし予定外の行動を一つでもとったとしたら、まぁ、たとえば、コンビニに行くまでの道を本当は右に曲がらなければならないところを左に曲がったとして、たった一つでも予定されていた行動の別をとってしまったら……、全てがオジャン! なんてこともなきにしろあらずで、その人の未来は変わり、まわりの人の未来も変わり、曲がり角を曲がり終わった瞬間に破滅も破滅、そうならないように、神がちゃんとこの地球が誕生する以前から仔細な計画を責任をもって運行してくれている。

なんでこんなアホなことをしてるのかというと、やはり神の遊び心だろう。わざわざこんなしちめんどくさい、こんなことをせずとも、初めから天上界の至福の中でまどろんでいればいいのに、なぜわざわざこんなしちめんどくさいことをやるのかといったら、やはり退屈だったんじゃないだろうか。戦争だとか、温暖化だとか、核だのミサイルだのウクライナだの、それだって神の遊びだと思える。天上界であまりにも暇を持て余して、ちょっと深刻になってくっかという感じで、われわれの方からこの地上に降りてきたのだと思う。それにしても、大人というものは遊びというものを忘れてしまったらしい。どうにもこうにも、右を見ても左を見ても、深刻なテーマを持ち込んで、深刻な話ばかりをしているものだ。もう大人になってくると、この深刻な問題を取り扱うことをおもちゃにするしかできなくなってしまう。少年性を失った代わりに、その空いたスペースに深刻さが立ち入ってくるのがピッタリくるのだろう。深刻なものは深刻なもので、それ自体に楽しみが一応あるから、結局、これも遊んでいるに過ぎないのだけれども。

おもしろきこともなき世をおもしろく。神が遊び心でやっているのだとしたら、私たちだって遊び心で生きるべきだろう。私たちの誕生が遊びに過ぎないのだから。そう考えると、この地上でのできごとなんて、なにひとつ深刻になることはないように思う。

 

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