やっぱり俺はアニメが好きだ。何か、わからないけど、昔から、寝る前にかならずアニメを見る。多いときは一晩に8話〜10話くらい見るので、二日か三日くらいで、12話あるひとつのアニメを見終えてしまう。
そんなことをやっているともう見るアニメなんてなくなるんじゃない? と思われるかもしれないけれど、なぜか、ちゃんと毎晩見続けられているから、ほんとうに、アニメというものは無限にあるんじゃないかと思える。
たいして好きでもない、いったいこんなアニメ誰が見るんだ? というアニメすら見ている。しかも毎話、かならずオープニングとエンディングをスキップせずに見ている。この前も、TrueTearsとかいう、わけのわからん、本当に死ぬほどつまらない、つまらなすぎて死ぬかと思ったアニメだったけど、しっかりちゃんと全話見てしまった。なんか、もうここまでくると、食事のような気がする。身体が求めているから見ているような気がする。面白いとかつまらないとか、あんまり関係ないような気がする。
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最近になって、『僕の心のヤバいやつ』(以下、僕ヤバ)を見た。
アニメ好きを称するわりに遅すぎんだろと思われるかもしれないけれども、まぁじつは、俺も、ずっと前に1話だけ見たのだけれども、どうしても身体がアレルギー反応を起こして受けつけなかった。こんなもん見てる暇があったら、餅を焼いて捨てている方がマシだと思った。
だが、レビューがあまりにも高評価だったのでずっと気になっていた。んー?🤔 1話見た限りでは、餅を醤油につけて捨てている方がマシだと思ったが、みんな、あんなアニメのどこがいいんだろう? まぁ、Amazon Primeアニメの評価というのは大抵当たっているもので、星が少ないアニメはつまんないし、星が多いアニメは面白い。まさに、前衛アートの最先端を歩いているぽくちんにしては大衆娯楽の大衆娯楽。せめて見るならゴッドファーザーやターミネーター2のような、歴史に残るような一級娯楽を見るならともかく、こんなアマゾンの星5のアニメを見漁っているなんて、前衛最先端アートが聞いて呆れるものである。
しかし、昔のアニメは思い出補正で、星5のアニメがあるけれども、最近のアニメで星5というのは少ない。しかも、1シーズン、2シーズン、続けてだ。フリーレンと、ぼっち・ざ・ろっくも、星5だったような気がするが、いや、星5に近い、星4.5というような、最後の半分が欠けていたような気がする。
やっぱり、2シーズン続けて星5というのは珍しいなと思って、見てみることにした。で、見て見たら、とても面白かった。
そんなにとくにセリフ回しだとか、ストーリーだとか、オリジナリティーみたいなものは大して見られなかったけれども、全体的に、作者ならではの純粋性が垣間見えてよかった。やっぱり作品は、作者自身がいかに純粋かということが大事だなと改めて思った。
また、文化の貢献も果たしたと思う。
思うに、神社でお参りするときに、骨折しているため両手を合わせることができず、代わりにもう一方の女の子が手を合わせてくれる、なんてシーンは、この作品が初めてじゃないだろうか?
ずっと、主人公の市川京太郎を見ていると、何かこの髪型、似てんなぁと思って、見ていた。
ぽくちんのマッチングアプリ時代の髪型である。
陰キャというのは、右目を隠したがるのだろうか。
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さて、「ギャルはヲタクに優しい説」だが。
どうも、昨今のアニメを見ていると、ギャルといわれる不良と呼ばれるような人種が、オタクの様な陰キャに対して、優しいということだ。それはべつにこのアニメに限ったことではない。最近のアニメはというと、オタクだったり、ぼっちキャラに対してすごく周囲の人間が大人で優しいことが多い。一昔前では、オタクというと、キモキモのキモ、キモのキモキモ、胆ガラの着物みたいに扱われていたが、今ではそういった扱いをすることは、ナンセンスということになっている。
じっさい、それは、リアルの今の中高生の学校教室の中でもそうなのではないかと思われる。あまりコテコテのオタクのような見た目をしている中高生もそんなにいるかどうかわからないけれど、まぁそれに準ずる見た目の数人がクラス内にいたとしても、丁寧に扱われているんじゃないかと思われる。それはこの地球自体の霊性が向上していて、オタクに対して気持ち悪いだの揶揄するフェーズから移ったからだと思われる。
俺も、高校時代、友達からゲームを借りると、毎回、かならず、朝、返すときに、そいつの机の上に置いておくというギャグをやっていたが、それも、今はどうだかね。女子供もゲームをやるようになって、ソフトの貸し借りなどをやっていたら(まぁ、エロゲーはさすがに厳しいだろうが、どうぶつの森なんてものは可愛いくて、いいんじゃないかと思う。当時は、FF10や鬼武者2、君が望む永遠や、マブラブオルタネイティブを友達の机の上に置いておいたら、それだけで騒ぎとなり、マジギレされて殴られそうになった、そんな時代だ)
もう、オタク文化、オタク、陰キャ、それに対していじめる、ということは、とうの昔話になっている気がする。それはいわゆるアニメのおかげだろう。アニメに出てくる主人公や脇役でもいいが、そういった陰キャラが、物語やストーリーに沿って活躍し、陽キャをぶっ飛ばす。その際、心理描写などが丁寧に描かれて、キャラの魅力が浸透し、オタクの存在が受け入れられてきたからだと思う。
今では、オタク文化も市民権を得て、陽キャといわれるような連中でさえ、オタク文化の影響をずいぶん受けて暮らしている。それどころか、あまりにもオタク文化を知らないと、かえってものを知らないやつ、充実していない、教養がない、と思われ、クラス内での立ち位置も危ぶまれるものになってくるのではないだろうか? 変に、バスケやサッカーばかりやって、ヲタクのヲの字も知らんような連中は、むしろ、彼らの方が仲間はずれにされるような、『僕ヤバ』なんてものは、いまさら、この時期にこの記事を書いている、小生の方が、「え? いまさら、僕ヤバ?」「ヤバ!」と言われてしまいそうな、僕の方がヤバイということになってしまうかもしれないが。
やはり、母性本能だろうか。
ああ、ゴホン……。『僕ヤバ』の話だ。
確かに、このアニメは、中二でモデルで身長171.9センチの超スーパー美人の陽キャラ代表と思われるヒロインが、授業中に殺人大百科を読んでいるコテコテのオタク野郎とのラブロマンスを描いたものではあるが、このアニメによっても、また一つ、チビの陰キャラが世論に受け入れられることになっていくと思う。(まぁ、さすがに殺人大百科はどこまでいっても受け入れられないと思うが)
たしかに、俺も自分自身が女になったとき、オタクにちょっかいを出してみたいところがある。
なんでだろう? チョン、と突いた時、指先でツンと触れただけで……、「はあああうううううッ!」とか、変な声を出しそうで、全身が性感帯のようで、ツルツルしていて、放っておけないところがある。耳元でえっちな言葉をささやいて誘惑してみたい気もするし、耳カキの、あの、フンワリした方の、先っぽの方で、ツン♪と触れただけで、「あああああうううううんッ!」とか、変な声を出しそうで、隅におけないところがある。
俺でさえ(?)、そうなのだから、同じ人間である以上、女もそうなんじゃないかと思う。じっさい、俺は、中学校、高校、予備校、大学、ヘルパー二級の職業訓練校、専門学校……と、人の倍くらいの学校生活を送っているのだが(自動車の教習所も2回通っている)、その超長い学校生活を通じて、ほとんどすべての女が、おとなしい男子生徒にちょっかいを出したいと思っているらしいところが伺えた。
べつに、付き合いたいと思っているかどうかはわからない。だが、すべての女は、潜在的にサキュバスのような、いわゆるおとなしい受け身タイプの女ですら、潜在的に大人しい男にちょっかいを出したいと思っているらしい。窓際で外の景色を眺めてウジウジしていたり、誰とも話さずに殺人大百科を読んでいたり、そういうのをみると、たまに、胸がキュウっと締めつけられるような、もし彼の方から私に話しかけてきたら、その勇気に免じてお返しをしたくなってしまいそうな、こちらも何かを差し出してあげたくなってしまいそうな、おっぱいの一つでも触らせてあげたくなってしまいたくなるような、そんな気がしていそうなのである。
ギャルは特にオタクに優しいところがある。
今どき、オタクをいじめると、ギャルの風上にも置けない、といったような、まわりの目があるからか、そんなやついじめて何になる? カタギに手を出すのは御法度、みたいなものか。
ただ、やっぱりバカだからか、へぇー、以外、アンバランス、そういう恋の形もアリよね♪って感じで、よくYouTubeの急上昇にも「結婚しました」というタイトルの動画が、まるで交通事故のように、衝動的に結婚して、衝動的に離婚する、よくあるパターンの1つではあるのだが
若い男女、つまり20代の男女たちは、自分たちを主人公に見立てており、まわりの人間や大人たちを、漫画でいう脇役だとみなしているところがある。そのため、結婚となると、結婚という一大イベントを通じて、親や友達をびっくりさせたいという願望を強く持っている。みんながみんな、自分たちの結婚に強い関心を持っていると思っており、自らの主人公意識が暴走して止まらなくなってしまういい例である。
こういった恋愛のかたちは、純粋に、本人たちの気持ちだけで構成されているとは限らないだろう。そこにはいくらかのまわりの目も含まれていて、「ええ〜〜っ! あの二人がぁ〜!」「いっがーーーい!」というふうな、こういう制約、どんぶり返し、大逆転、逆転裁判、意義アリ! 逆張り、意外性というのは、ギャルの方がやってみたい衝動にあふれていて、一回くらいやってみっか♪ というような悟空みたいなノリで起こってしまうこともなきにしもあらずである。要するに、遊びである。恋愛もそれ自体が新しいフェーズを迎えていて、新しい恋愛、新しい遊び、今は努力することよりも、いかに遊ぶかということが問われている時代になっているとのことだが。
ギャルの方が清純派女子と比べるとやや知能が低いため、そういうドラマ性もありかなというふうにして傾きやすい傾向があるらしい。「え!? ◯◯ちゃんが◯◯と!?」と言われて、また周囲の人間たちもワー、キャー騒ぎ立てる、みんなで、全体となって、電車男のような恋と重ね合わせる。一つの祭りだ。それもまた、アニメや漫画の模倣であり、アニメや漫画が先に来ている。
その点、清純派女子はというと、学校でオタク相手にもあまり話そうとしない。基本的に、男と話すと、”減る”と思っているからである。清純派女子は、ただ、”減る”とか、”減らない”を意識して学校生活を送っているものである。しかし、清純派女子が、オタク男子と話す方がハードルを低く感じるのは、オタク男子の方が“減らない”と思っているからである。ただ、自分を守ることしか考えていないのである。
その点、ギャルの方はというと、ギャルがオタクに優しくするのは、オタクみたいなやつにも仲良くしてあげられるというキャパシティ、器が大きいという、印にもなるのか。
一つ言える事は、すべての女には二面性があるということだ。圧倒的な肉食獣の様な男に、「す……。すいません。! こ、これから、塾があるので!」と言って小走りで廊下をかけたくなったり、生足を出して、変な小判鮫なチビのメガネ男のちんこに電気アンマをかけたくなったり……、まるで本当に、これは1つの女の精神から生まれたのか?というような、この二面性がすべての女にあると言うことだ。それはどんなおとなしい女においても。
その2面性の中で、どっちでもいいというか、どっちに転んでもいい、というふうに、まぁ、いいか、というふうに、オタクと付き合ってしまうこともある。ただ、それだけの話だ。それが、ギャルの方がちょっと転びやすいところがある。
ほとんどの中高生たちは、深夜のAmazon Primeで変なアニメを見て過ごしていて、今や学校教材に変わる人格形成としてこれ以上ないほど大きな役割を持っていると思う。彼らの生活が萌えアニメになるのではなく、萌えアニメが彼らの生活になるのである。
女子生徒たちは、アニメを見ては、可愛い仕草や反応を取り入れて、隙あらば、学校生活でそれを活かそうとする。そうなってくると、もはやアニメの方が現実でリアルの方が幻想ということになる。「芸術はけっして生活の余暇ではなく、芸術を中心に生活が回っている」と言った、岡本太郎や横尾忠則の発言も、ここからきているのだろう。
まぁ、早い話、オタクがいじめられなくなったのは萌えアニメのおかげだろう。
しかし、このアニメ、舞台が中学ではなく、高校だったら、おそらくこれほど人気にはなっていなかっただろう。中学が舞台になったのは、作者か編集の頭の中に、突如、ひらめきという形で、(中学を舞台にするように……!)という、神の差金の声が入ったためだろう。
やはり、「ほとんど私服を着ていると、大人にしか見えない中学生」というところにこの作品(ヒロイン)の良さがあると、個人的には思う。
こうして地球はまた、いや、リアルの中学生もまた前進するのだ。