どうしよう、最近、毎日が楽しい…!
最近、毎日が楽しくて楽しくて仕方がない。自分でもどうしてこんなに楽しいのかわからない。およそ大学時代から始まって、たまにしょんぼりした気分になって、どこからやってくるかわからない苦悩に苦しめられること散々だったが、今はまったくなくなってしまった。
自分で楽しい、楽しい、という輩は信用できないかもしれないが、楽しいものは楽しいものである。
何一つ、状況なんて一つもよくなっていることなんてないのに、どうしていつもこんなにいい気持ちなんだろう?
わざわざ、この楽しい気持ちを解剖して、いちいち理屈づけて並べようものなら、それこそ現代人の病というもので、そんなことをやっているから楽しい気持ちこそも無くしてしまうに違いないが、思い当たる理由がないこともない。
それはおよそ分別心をなくしてしまったことだ。今じゃあ、虚空をにらみつけて、その一点、一元しか見ていない。もはやそれすらも見ていない。何か解釈づけが始まろうものなら、その気配を察して、身体の方が勝手に反射が働いて、そこから始まる解釈づけを無にしてしまうのである。
そのまま訪れて、そのまま去っていく。そのまま流れては去っていくものに対して、追わないことだ。
しかるに、出前館のオファーが鳴らず、春だから稼働する輩が多く、仕事の奪い合いで、小生はそんなことをしたくないから呑気にコーヒーを飲んで傍観していたが、そのため、今月のお給料は14750円だった。5月1日〜5月24日、今日の時点で、14750円しか稼いでいない。先月は16万円ぐらいのお給料だったが、今月は14750円だい♪
しかし、まったく後悔していない。まったく不安ではない。
いつか前の小生だったら慌ててそのことばかり考えたものだったが、どういうわけか、まったく歯牙にもかからないのである。
このことから、人間の苦悩なんてまやかしだということがよくわかる。なにしろ、まったく解決策など見えていないのに、心はいつも平穏無事だからである。
なんであれ、起こることは起こる。ケヤーラにしたがって、プラーラブダ・カルマ(すでに放たれた矢、止めることも戻すこともできない、現世に発現しているカルマ)によって、今世において肉体が通り抜けるすべての体験はさせられる運命にある。皆さんが起こしてしまったミスはあらかじめ決まっていたことだったし、これから起こしてしまうどんな失敗もすでに起こることは決まっている。
だから、僕たちは何をすればいいのかというと、起こることは起こるのだから、ただそれを見ていればいいのである。「さぁ、これからどうしよう」ではなくて、「さぁ、これから何が起こるのかを見てみよう」という心構えでいればいいのだ。考えたって仕方がない。起こることは起こる。考えたって無駄に心を痛めるだけである。だから何も考えないのがいいのである。
そういうと、「そんなことしてたらバカになっちゃうよ」「考えないと頭悪くなっちゃうよ」と言って、ほとんどの人が、考えないとバカになるから考えているらしい。そういう小生もそうだった。四六時中、難しいことを考え、その小休憩に、難しい本を読み、一日中、難しいことばかりやっていた。
しかし、その結果、どうなったろう? 一つでも賢くあった試しがあっただろうか? それどころか至福という人間の本然の状態から切り離され、そのため苦悩が入り込む余地を許してしまった。およそこのことほど人間生命に対する矛盾はないのである。
考えること、それは苦悩への片道切符なのである。
今日は、その、考える、ということの消息を明らかにしようか。
心境の変化は、内側の「沈黙の時間の長さ」に応じて更新される。
じつのところ、人は内側でたくさんおしゃべりをすれば、その分だけ頭が良くなれるものだと思っているが、事実はその反対なのである。
このおしゃべりをやめれば、やめた分、人は賢くなる。心は鏡のように澄み、それだけ事実を正確に映し込むことができて、その分、対応力が上がるのである。
考えることをやめて、心を静かにして、その静けさの中で気づくことができる気づきだけが、僕らに英知をもたらす。アンマが、霊的修行をすると賢くなると言っていた意味が、最近になってよくわかった。どんどんクリアに、物事が鮮明に見えてくるのだ。
人間の頭の良さ、賢さ、というのはここにある。グダグダとたくさん考えて、その心の中の活字の量によって、たくさん頭を使って、頭が良くなっていると錯覚してしまうが、これは巷で言われている通り、同じことを堂々巡りしているだけで、いたずらに体力を消耗するだけなのである。
次々と言葉の矢が入り乱れて、コントロールできず、翻弄されっぱなしで、そうなっているだけなのにも関わらず、やれたくさん考えた、いっぱい脳を駆使してやったとご満悦だったりして、他の人間を出し抜いたつもりでいることもやぶさかではなかったりするけど。
これは、ある種の心地のいい疲労感さえあることから、もっとも、疲労感があるところでやめることができればいいけど、そうできる人が一人もいないことから、それはコントロールできるものでもないことがわかる。自分の知性のために考えているのなら、それはコントロールできていいはずだ、しかしコントロールできないということは、つまり、やらされている、翻弄されている、ということだね。つまり、考えているようで、考えていない、というわけだ。
やれ一個の生命として、いつまでも始終、「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心ゆるすな」という状況にあったりしていないかな? それは、もうこれだけ出典が明らかになっている今日の文明人にとって恥ずかしいことだ。
そして、ここからがとても大事なことなんだけど、思考とは、消えるために生まれてくるんだ。
もう一度言うけど、思考は、消えるために生まれてくるんだ。
ラマナ・マハルシはこう言っている。
僕たちの思考も、いわゆる新陳代謝、心の中で溜まったガスのようなものが、一つ一つ浄化作用によって消えていくことで、綺麗になろうとしているんだ。身体が傷つくと勝手に治っていくように、心もそうやって自然治癒のために思考が浮かんでくる。ケンタッキーのフライヤーの中のチキンがブクブクと泡を吹くように、泡が出なくなるまで放っておけばいいんだけど、途中で出しちゃうから、またやり直しになっちゃうんだね。
消えるために生まれてくるというのは、元々が無為の状態が自然であり、何か考え事をしているときの方が不自然、ということだね。これは自然治癒、自然回帰なんだ。僕たちは、あまりにも考えることに慣れすぎてしまったために、その状態が自然だと思ってしまってるんだ。でも、人間にとって自然な状態というのは、思考がない時の状態なんだ。赤ちゃんを見てごらん、何も考えてないから幸せそうでしょ? みんなも、おねんねしているときは幸福でしょ? 今すぐ、考えることをやめれば、幸せになれるんだ。
人間の幸せというのは、何か特別な幸福の出来事を考えたり、見つけたりすることじゃなくて、ただ思考がない状態のことをいうんだ。そしてそのために、思考はその自己浄化作用によってそれ自身で現れて消えていこうとする。放っておいても、もとの自然な状態に戻ろうとしてるんだ。ここまではいいかな?
ではなぜ、消えるために生まれてくるものが消えていかないというと、それは、僕たちがそこに命を与えてしまうからなんだ。
消えるために生まれてくるものに対して、考えるという行為によって、ふたたび消息を与えてしまう。
それについて考えてしまうために、思考の断片を捕まえて、活動するエネルギーを与えてしまうために、消えるものも消えられない。
本当はね、放っておくと、消えちゃうんだ、こんなものは。それをね、一生懸命に捕まえて、消えていくものを生きながらえさせているのは、他でもない、僕たちだ。
それと一つにならず、ただ見ているだけであれば、勝手に消えていくんだ。なぜなら心は何かと結びついていないと維持することができないから。だから、いわゆる、考えるといわれるものは、消えるために生まれてきたものと同化しているにすぎないんだ。
だいたい、考えるといったって、この時代、人よりちょっとばかし、知識や知恵があったとして、それが何になるのかな?
そして、瞑想とは、このことをいうんだ。瞑想とは本来の状態でいるってこと。本来の状態が瞑想であり、瞑想とは本来の自然の状態でいるということなんだよ。
そして、考えることをやめると、機知が働くようになる。我々ではなく、神が考えてくれるようになる。
一切の思考は、思考そのもののためには何の役にも立たないのだよ。人は、生まれつき正しくなければならない。そうであれば、よい着想が、いつも神の自由な子のように、われわれの前へ立ちあらわれて、呼びかけるだろう、ここにいますよ!とね ゲーテ
およそ、これまで考えてばかりいた人間が、考えることをやめることは不安だろうし、ぽくちんもその気持ちはわかる。ぽくちんもまったく同じ状態だったからだ。だけど、考えることをやめてから、苦悩は消えて、英知が働くようになった。だから、みんなもぽくちんと一緒に、考えることをやめてみよう!